2018/7/19

人生は「良心」との戦いです  ふと思いついた事。

思えば良心からの相手の行動には「ありがとう」とお礼を言うのが社会の基本だと教わりますよね。

「ありがた迷惑」と言う言葉あがりますが、それでもやってくれたのなら「ありがとう」とお礼をする。



この教育は大間違いです。他人の良心関わらず「自分に対してよくないことをされた」ら「いらんことするな!!」と反発、攻め立て責任を発行する。



「良心」の被害にあった人は全員じゃないでしょうか。

良心をないがしろにする=本人を傷つける、存在を否定する、まで意味付けてしまう。

だから厄介。


例えばどうしてもやりたい「A」と先に1000万入金されてしまった「B」という二つの選択肢。

僕はこれ似た経験をし、大学なんですが、親の「高額入金したのに、入学しないなんてありえないでしょ!」という正論からBを選択しました。

これが一生引きずりました。今でも悪夢として現れ、泣きながら朝食をとることは日常茶飯事です。


親の良心を「自分がやりたい・行きたい願い」より尊重「してしまった」

これはよくある物語では美談になります。

「親への感謝」は直ちに社会的美談・感動へと昇華されます。

僕もこちらを優先しましたが、これは社会のカスです。

そんなもの一瞬で昇華され尽くし、あとは「やりたいことを無下にした一人の人生」というカスしか残りません。

「親への反発」という直ちに社会的反抗・醜態へと昇華される方を選ぶべきでした

それなら昇華後に残るのは「自分を信じて道を選択した一人の人間」です。


「社会的・世間目線」という大きく覆い尽くされた濃度の濃い霧。

これが「何よりも優先すべき事項」と思い込まされ選択を誤る。

「良心」はその代表格です。


また自分が良心を発生した時も当てはまります。


その時僕が発想するのは「僕の良心を蔑ろにするのか!」という一般的な怒り。

しかしそこから「いや、これは良くあるパターン。良心からの行動は相手の希望と結び付けないと負の感情を一気に膨れ上がらせる」

とういう戒めを脳内に響かせ最終的には「相手にとって良心かどうかなんて全く関係ない、迷惑にそれ以上の意味はない」と自分の非を認める。

ここから「でもやっぱり自分の良心にはそれ相応の答えを求めないと・・」と切り返さないこと。

フェーズを打ち切り「得られる教訓」に切り替えること。

良心というのは行動に繋がる強いきっかけとなります。

良心とは「予想される相手への感謝から発する良き行いだと思い込む心」です。



良心を発動させる場合は、必ず「相手が真に求めるもの」を把握しなくえはいけません。

それ以外良心を発動させるのはいけません。

人間の思考が研究され詳細に理解されるようになれば「無意味な良心は罪になる」という法が施行されるかも。

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