2018/12/22

安心は罠?  ふと思いついた事。

僕は「他人と一緒になりたくない」という意思が強くそれは小さい頃からありました。

例えば中学生の頃暗記した百人一首を空で言うというテストがありました。

みんなもれなく1首目の有名なやつを取り入れたんですが僕だけそれを外しました。


なぜかというとみんなと同じ短歌を読むことが屈辱に感じたからです。

屈辱とは「みんながやっているから」という理由だけでさほど覚えやすいとは自分では思えない短歌を暗記することは他人の影響を許すことになるからです。



僕はこのことについて全く後悔がなくテストの点数はかなり悪かったですが「よくやったな」と思えます。


僕の特性なんですが「自分が選択するが不安」と「他人が選択してくれる安心」なら前者を選択するということ。

そして残念がら僕は大事な選択時は後者を選んでいました。


後悔よりも安心を選択したからです。


ということは「後悔」と「安心」は僕にとって相殺しない概念だということ。


同じ日本語でも「社会(世の中)日本語」と「僕日本語」があります。

安心でいうと「社会日本語」では後悔が入る余地がなく求めるべき環境・心情です。

僕日本語では「罠」であり「うまの人参」です。


安心を得るために捨てたことに僕は注目してしまうということ。


あと「不安に打ち勝つ」というのは僕日本語には存在しません。

不安は友達です。不安と仲良くなるが僕日本語です。

安心というのは瞬間最大風速みたいなものでそれ以外は不安です。

安心は自分が選択したいことを捨ててまでも選ぶべき選択肢という顔をしていますがぶっ潰したいですね。

「やりたいことができない」は至極残酷。

安心をどこに求めるか。
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