2019/10/11

『無限の住人-IMMORTAL-』・・・そがファンの待ち望んだ「無限」だ!!  アニメ




『無限の住人-IMMORTAL-』 PV


amazonオリジナルアニメの『無限の住人-IMMORTAL-』の配信が始まりました。

過去にアニメ化やキムタク主演で映画化されましたが、どちらも残念な出来。「無限の魅力の何たるかが理解出来ているのかな?」と思わせる内容にファンは失望しきり。

しかし『無限の住人-IMMORTAL-』は、本当に「無限愛」を感じます。私達はこんな「無限」を見たかったのです。


以前、このブログの読者の方の依頼で(海外に日本をマンガを紹介するお仕事?)書かせていただいた原稿をアップします。私のこの作品への愛情が少しでもご理解いただけたら。

今期アニメの大本命です!!

何だかんだ言ったってマンガは絵の上手さだ・・・・沙村広明 「無限の住人」・・・「人力でGO」 2011/11/13




純粋な暴力」がぶつかり合う、ハードコア・パンクな「チャンバラ」・・・『無限の住人』


■ 床屋で出会った名作 ■

日本の床屋には、たいてい「マンガ」が置かれています。

床屋の待ち時間に「マンガ」を読む事を楽しみにしている人も少なくありません。私もその一人です。「マンガ」のセレクトから、床屋の店主のセンスが伺えるので、私は、マンガのセンスの悪い床屋には行かない様にしています。さらに、私は興味のあるマンガを読み尽くすと、床屋を変えたりもします。日本人にとって床屋は、新しいマンガとの出会いの場所になっているのです。私が『無限の住人』と初めて出会ったのも、近所の床屋の待合室でした。

 『無限の住人』は所謂「時代劇マンガ」です。侍が日本刀で殺し合う、伝統的なアクションマンガです。この分野は「チャンバラ」などと呼ばれます。刀の刃がぶつかり合う時の「チャン・チャン・バラバラ」という音を、そのまま呼び名にしたものです。

 私は「チャンバラ・マンガ」が好きではありません。日本で「チャンバラ・マンガ」を愛読するのは、所謂「オヤジ(50歳以上の男性)」です。ですから、この作品がズラリと並ぶ床屋の待合室に入った時、私ははっきり言って、床屋の店主は「オヤジ」で、きっと私の髪型は「オヤジ」の髪型にされてしまうと恐怖しました・・・。

 ところが、『無限の住人』を数ページ読んだ所で、私は確信したのです。きっと今日の私の髪型は最新流行の髪型になるだろうと・・・。むしろ私は、ツンンツンに尖がった、パンクヘアーになるのではないかという恐怖すら感じたのです。

■ ハードコア・パンクなチャンバラ ■

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『無限の住人』より・・・・初期のパンキッシュな作画

 チャンバラには暗黙の美学があります。その美学とは、血しぶきが飛び散る様な過激な表現を避ける事です。これはマンガに限らず、チャンバラ映画やドラマでも同様な傾向があります。人々は、剣の達人の動きの美しさを堪能するのです。

 ところが『無限の住人』は全てにおいて「掟破り」なチャンバラ・マンガでした。腕はや足が断ち切られるのは当たり前。体や頭が真っ二つに切断され、内臓や脳漿が地面に散乱します。侍達はおよそ「日本刀」と呼べないような、異様な形の刀を振り回します。

 従来のチャンバラ作品をアメリカの音楽でカントリーミュージックと例えるとするなら、この作品に流れるリズムはパンクです。それも、ハードコア・パンク。

 作者は、既存のチャンバラのストイックな美学を、あざ笑うがごとく大量の血しぶきを、内臓を、そして暴力を読者に叩きつけます。主人公の「卍(マンジ)」の怒りが、直接的な暴力として読者に襲い掛かります。

■ 日本の美学に貫かれた絵柄 ■

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『無限の住人』・・・敵の女性剣士の蒔絵の登場シーンはどれもスタイリッシュ

 この作品は、過激な暴力描写が繰り返えされる反面、その絵柄は極めて日本的な美学に貫かれています。剣士達が剣をふるう場面では、作者はページ全体を使って「決め」の絵柄を描きます。構図はシンメトリーで、背景には日本の伝統的な絵柄が描かれ、着物の襞の一つ一つが美しく描写されます。

しかし、浮世絵に代表される日本の絵画は、シンメトリーの構図を好みません。この作者のデザインする絵柄は、西洋美術のフォーマットの上で、日本の美学を再構築したとものとも言えます。それは一種の日本美術に対するパンク的破壊行為です。そして、この作風は同時代の日本の若者の心をガッチリと捉えます。多くの若者が、この作品を「クール」と感じたのです。

■ マンガの表現手法に、鉛筆で攻撃を加える ■

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『無限の住人』より・・・鉛筆絵は印刷での再現性が難しいので徐々に減ってゆきます

 これらの特徴的な絵は、鉛筆で描かれています。普通、マンガはペンによって黒いインクで描かれます。作者は描画手法においても、既存のマンガの表現に対するパンク的破壊を試みているのです。

 「鉛筆で描かれたマンガ」は、同時代の若いマンガ家達に大きなショックを与えました。そして、『無限の住人』の発表以降、多くの若いマンガ家達が、鉛筆による表現にチャレンジしています。

 しかし、この特徴的な「鉛筆の絵」は、次第に作品の中から姿を消してゆきます。鉛筆で描かれた、微妙なトーンを印刷で再現する事は難しいのです。作者の沙村弘明は、この作品を描き始めた頃は美術大学の学生でした。しかし、彼がプロの漫画家としての自覚に目覚めるに従って、彼は「マンガは長い年月の鑑賞に堪えなえければいけない」という認識に至ります。彼は印刷での再現性に乏しい鉛筆の描写が、マンガの表現手法として適切で無い事に気づいたのです。

 ページから鉛筆の描写が減るのと同様に、作品から過剰な描写が減ってゆきます。一見するとそれは、突っ張っていた若者が、大人になるにつれて角が取れた様にも感じられます。あたかも、パンクロッカーが就職してスーツを着た様な印象を与えました。

 しかしその変化は、アンダーグラウンド・ロックの帝王Lou Reedが、『Blue Mask』の中で「I’m just an average guy.」と歌いだした時の衝撃と同種のものです。その変化は「後退」では無く、「進化」あるいは「深化」なのです。

■ 緻密に再構築された歴史の中で繰り広げられるパンク・チャンバラ■

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『無限の住人』より

『無限の住人』の作者、沙村弘明が、チャンバラを題材に選んだ理由はいくつか考えられます。

1) 伝統的なチャンバラというジャンルで全く新しい表現を試みるインパクト
2) チャンバラは殺し合いなので、手足が切断され、内臓を撒き散らす様な暴力表現が可能。
3) 現代劇では問題になる暴力描写も、時代劇では許される

以上はあくまでも私の推測に過ぎません。しかし、作者は過激なチャンバラを描いている内に、江戸時代を描く魅力にすっかり魅了されてしまった様です。

彼の描きだす江戸時代の町並みや風物、生活の様子はどんどんと緻密になってゆきます。作品のページの中から、当時の時代のざわめきや、空気がふっと立ち上って来ます。

そして、生き生きと再現された江戸の街を背景にする事で、サムライ達の架空の戦いは、あたかも歴史の一コマであるかの様なリアリティーを獲得するのです。

■ 日本の若者の心を掴んだのは「伝統」では無く「先鋭」 ■

この作品を支持したのは、伝統的なチャンバラファンである「オジサン」ではありません。いわゆるオタクと呼ばれる、ある種の先鋭的センスの持ち主達によって、『無限の住人』は熱狂的に支持されています。

ネットには彼らのコスプレ画像がアップされています。彼らは、この作品を純粋に「カッコイイ」と感じています。その感覚は、キアヌ・リーヴスの「マトリクス」を見て「カッコイイ」と思う感覚と共通です。学校の歴史の時間に居眠りをしていた日本の若者達の心を捉えたのは、今まで見たことも無いような全く新しいチャンバラ・アクションであり、「江戸時代」という、現代の日本とは全く異なる、ファンタジーワールドだったのです。

 彼らにとって、チャンバラという伝統的なエンタテーメントは、むしろ「先鋭的」なジャンルに感じられたのです。

■ 生きる目的を失った男が、不死身の肉体を得る ■

『無限の住人』現在29巻が発売されています。この長大な作品の中で、作者はひたすら暴力を描き続けます。

 主人公の卍(まんじ)は、かつては将軍に仕えるえるサムライでした。彼は上司に命令されるままに、「悪人」を殺してきました。しかし、彼の殺した悪人とは、上司の不正を正そうとする人物だったのです。事実を知った卍は、上司を切り殺してしまいます。

 封建時代の江戸時代で、上司を殺す罪は許されません。切腹(ララキリ)してその罪を償うのが当時の社会のルールです。しかし彼はサムライとしての誇りを捨てます。彼は動物的な生存本能のままに、100人の追手を切り殺します。個人の誇りを守る為に、侍の社会の掟を破った卍は、自己の存在理由を見失ってしまいます。

そんな卍に、一人の尼僧が「不死の薬」を与えました。その薬は「血仙虫」と呼ばれ、肉体が破壊されればその場所に「虫」が集まり、破壊された対組織を復元します。生きる目的を失った彼は、皮肉な事に「不死身」の肉体を手に入れてしまったのです。

■ 暴力によって暴力を償う決意 ■

卍には妹が居ました。彼女の夫は卍と戦って死にました。その場に居合わせた妹の精神は崩壊してしまいました。そんな妹が、盗賊によって、卍の目の前で殺されます。彼は怒り狂って剣を振るい、何十人もの敵を惨殺します。不死身の彼に適う者は誰も居なかったのです。

大切な妹を失った事で、彼の心に変化が生じます。生きる目的を失っていた男は、「1000人の悪人を斬る」という誓いを立てます。彼は暴力によって暴力を償う決意をしたのです。

■ 凛という一人の少女を守る為の純粋な暴力 ■

神の意志が支配する西洋と違い、東洋の「善悪」とは相対的な価値観です。「完全なる悪」や「完全なる善」は東洋には存在しないのです。ですから、「1000人の悪人を斬る」と誓いを立てた所で、卍には誰が悪人なのか良く分かりません。

そんな彼の前に「凛(りん)」という少女が現れます。彼女の父親は道場を営んでいましたが、「天津影久」という男と彼の仲間に父と母を、目の前で惨殺されています。影久と凛の父親の道場の間には、祖父の代の怨恨がありました。影久は祖父の恨みを凛の父母を殺す事で晴らしたのです。

凛は卍に、自分の「敵討ち」の手助けを頼みます。圧倒的な強さを誇る影久と彼の率いる「逸刀流(いっとうりゅう)」を殲滅する為に、不死身の力を貸して欲しいと頼んだのです。ところが卍はその頼みを一度は断ります。彼には凛と影久のどちらが「悪」なのか判断が出来なかったからです。

ところが、卍は凛に妹の面影を見てしまいます。卍は妹を二度失う悲しみには耐えられません。彼は純粋に一人の少女を救いたいという欲求によって、その不死身の肉体を行使する事を決意します。

骨を断たれても、足を切り落とされても、心臓を突かれても死なない卍は、ある意味最強の剣士です。彼は不死身の肉体という圧倒的な暴力を、ただただ純粋に一人の少女を守る事に行使します。

■ 理想の為に行使される純粋な暴力 ■

一方、凛の両親を殺して彼の祖父の復讐を果たし天津影久は、彼の仲間「逸刀流」を率いて、日本中の流派を統一する理想に燃えています。

 江戸時代は日本の歴史の中でも、最も平和な時代です。将軍を頂点とする統治機構のシステムの完成度が高かったのです。サムライ達は日々、道場に通い剣の技を磨いています。しかし、平和な時代の剣の技は、実用性を欠き、形骸化しています。

影久は「逸刀流」を率いて全ての流派を倒す事で、形骸化した日本の剣の技を、再び実践的な技術に戻す事で、将軍に貢献しようという野心を抱いています。彼の野心は、あくまでも純粋です。

 彼に賛同する剣士も大勢表れます。「逸刀流」の流儀は単純です。それは、一対一の戦いで敵をただ倒す事です。二本の刀を使うのも、異型の刀を使うのも許されています。さらにサムライという身分にも拘りはありません。影久はただ、強い者が勝つという、戦いの基本に忠実な事を重要視したのです。

影久や逸刀流の剣士達は、容赦の無い暴力によって、他の道場を統合してゆきます。強い理想に貫かれた彼らの暴力は純粋であるが故に、強大で獰猛です。

■ 純粋な暴力の対立という現代的なテーマ ■

「大切な人を守る為の暴力」と「理想を実現する為の暴力」は、両方ともその目的は極めて純粋です。

歴史上、世界で繰り返されてきた暴力的対立は、この二つの暴力の対立に単純化する事も可能です。

近年、私達は、映画のスクリーンで、この二つの暴力の明確な対立を目の当たりにしています。『The Dark Knight Rises』です。

ゴッザムシティーを暴力から救う為に、バットマンはいつもながら「悪」に対して容赦の無い暴力を振るいます。一方、バットマンに対抗するベインの暴力の目的は、ただ大切な人を守る事です。

私は『The Dark Knight Rises』を見ながら、バットマンを単純に応援出来ませんでした。対立する二つの暴力のどちらが正義なのか、混乱してしまったのです。バットマンの振るう暴力は、時として国家が民衆に振るう暴力と同種のものです。国家というシステムを守る為にそれは正当化されます。一方、ベインは自分の愛する者の為だけに暴力を振るいます。一見、それは利己的の様に見えますが、反面、人間の根源的愛情にあふれているとも思えます。

 アメリカの社会をモデルにした『The Dark Knight Rises』では、明らかに正義はバットマンの側にあります。ところが、善悪の判断が相対的な日本を舞台にする『無限の住人』においては、この二つの暴力に善悪という優劣は付けられません。
だから、凛は影久を親の仇として憎みながらも、理念というものに縛られる影久に一種の憐みを覚えたりもします。

 『無限の住人』で殺し合うサムライ達は、どこか心の底で共感しあうものを感じています。彼らは、彼らにしか分からない暴力という言語で語り合う喜びに身を委ねているのです。既に、彼らの暴力は、コミニュケーションの手段であり、一つの文化になっているのです。

■ 女性剣士の美しさに感銘するも良し ■

 いろいろと、難しい事を書いてしまいましたが、『無限の住人』の最も正しい楽しみ方は、美しい女性剣士達の姿を、心ゆくまで堪能する事です。

 作品中の最強の剣士は、卍でも影久でもありません。槇絵(まきえ)という女性の剣士こそが、最強です。

 彼女のシナヤカな肢体から繰り出される攻撃から、屈強の男達は逃れる事は出来ません。彼女と戦った者達は、どこからとも振り下ろされる刃に、無残に内臓を散らし、彼女の美しい姿を網膜に焼き付けて息絶えます。

 29巻での槇絵の美しさは、言葉で表現する事が出来ません。雪の中を音もなく静かに舞う彼女の周辺で、男達がハラハラと倒れてゆく描写は、この作家の初期の過剰な描写の対局にある表現です。

■ 日本独自の美学を確立した沙村弘明 ■

 沙村弘明は、ハードコアー・パンク的な過剰さを、削ぎ落とし続ける中で、日本美術の本質へと回帰しゆきます。それは、激しい動きの中にある、一瞬の「静止」す。「静」こそが日本美術の神髄尾であり、同時に日本の武道の極意とも言えます。

 日本のマンガはアメリカンコミックの影響を強く受けてきました。動きを表現する為のデフォルメやパースの強調、さらには効果線を駆使してマンガを描かれます。
沙村弘明は、それらのマンガ的な技法を捨て去る事で、日本オリジナルのマンガ表現に到達しています。

 擬音はアメリカン・コミックの偉大な発明です。表音文字の機能を最大に生かしたその手法は、日本のマンガも取り入れられています。日本語のカタカナと呼ばれる表音文字はアルファベット同様に、擬音表現のデザイン処理に適して文字です。ですから、日本のマンガにはカタカナの擬音表現が多く見られます。

 しかし沙村弘明は『無限の住人』の中で、漢字による擬音表現にチャレンジしています。「斬(切る)」という漢字は、「切る」という意味と、「ザン」という音の両方を持っています。画面に踊る「斬」という擬音表現を楽しめるのが、漢字文化のの人々に限られるのが残念でなりません。

 もし、この作品を読まれる方に日本人の友人がいらしたならば、その漢字の「意味」と「音」を教えてもらうのも楽しいでしょう。これこそが、『無限の住人』の一番、マニアックな楽しみ方かも知れません。

 是非、この素晴らしい作品をお読みになって、遠い日本の、遠い時代に思いをはせて





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『波よ聞いてくれ』より

ハチャメチャでいい加減な性格のカレー屋の女店員が、ラジオのパーソナリティーに抜擢され、ハチャメチャな番組を放送してゆく話・・・・だけど佐村作品だけに一筋縄ではいかない。『無限』って実は1/4はギャグ漫画で、1/4はラブコメ漫画なんですよね。



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『春風のスネグラチカ』より

凌辱趣味が程々に抑えられていて、純粋に「良作」。


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