2020/9/2

現代の「青春小説」の金字塔・・・『やはり俺の青春ラブコメはまちがってういる。』  
 

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『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』より






■ 現代の青春小説の金字塔 ■

「青春とは嘘であり、悪である。」という「イタイ」モノローグで始まる『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』

2011年に初刊が発売されたライトノベルのラブコメ作品ですが、私はこの作品こそが「現代の青春小説の金字塔」であると信じて疑いません。

主人公のヒネクレまくったモノローグを主体に、現代高校生の恋愛とも言えない淡い気持ちと、様々な悩みを丁寧に描く作品ですが、ラブコメとしてのエンタテーメント性も高い。「青春の一冊」を選べと言ったら、この作品を推す読者も多いのでは無いか。

「青春小説」とは「若者の、若者による、若者の為の物語」以外の何物でも有りません。

60歳のジイサンに青春小説的な物語を書く事は出来ますが、それは「まがい物」でしか無い。何故なら「ジイイサン≠若者」では無いからです。

60歳の気持ちだけが若いジイサンと、20歳以下の本物の若者の違いは、誰でも分かる様に人生経験が違います。人は「おぎゃあ!」と生まれてから墓場まで、毎日、歳を取ります。20歳位までは、歳を取るごとに出来る事が増え、可能性が膨らんで行きます。「俺って天才じゃねぇ?」とか心の片隅で思ったりします。

ところが、20歳を過ぎる頃から、人生の選択肢はどんどん狭まって行きます。他人と自分との比較が客観的に出来る様になり、「肥大化した自我」はキューーーーと小さくなり、人それぞれの器のサイズに収まってしまいます。これをして「大人になる」と世間は評します。

仮に、60歳まで「青年」であろうとすれば「引きこもり」になるしか無い。他人との比較が出来ない状況で、「肥大化した自我」を守り抜くには、これしか方法が無いのです。

だから、60歳の老人はおろか、30歳のオッサンにも「本当の青春小説」は書けない。何故なら、それは「まがいもの」だからです。


■ 「厨二病」こそが青春だ ■

「青春とは何か」と聞かれれば、私は「厨二病」と答えるでしょう。

「厨二病」とは、「自分は異世界の勇者の生まれかわり」だと信じるイタイ人の事を指すのでは無く、「教室で目が合ったあの娘は、実は自分に気が有るのかも知れない」と無意識に考えてしまう普通の若者の心の作用を指す言葉です。

ホームの向かい側で毎日顔を合わせるあの子(相手は意識もしていないでしょう)、たまたま本屋の隣で立ち読みするこの子・・・そんな縁もゆかりも無い異性との間に、何故だか何等かの関係を妄想してしまう・・・性の男女を問わず、物理法則が如く、「距離の二乗に反比例」して、異性との間に強い力が無意識に働いてしまうのが「厨二病」の症状です。

そして「誰かに好かれたい」という思いは、「好かれる自分になりたい」という目的に変化し、さらには「自分は実はスゴイヤツなんだ」という妄想に昇華して行きます。

しかし、そんな「妄想の自分」と「現実の自分」とのギャップなんて小学生でも自覚しています。「・・・僕なんて」という自己否定は、自我が目覚めると同時に心の中に生まれ、自我の肥大化に比例して大きくなって行きます。

この「僕なんて」という自己否定を、すんなり受け入れた時、人は大人になる・・・或いは大人への階段の一歩を登り始めます。

■ 「厨二病」の拗らせ方 ■

運動系の部活などに汗を流す若者は「厨二病」から脱却が比較的早い。何故なら、「実力の差」を日々実感しているからです。彼らは競争の中に身を置き、やがて自分の実力の範囲で他人との関係を定義します。要は「自分のポジション」を見付ける。

ところが、帰宅部や文科系の部活では、他人との優劣が強制的に決められる事は少ない。だから「俺はこいつより優れている」という理由をイロイロと作り出す事に余念が有りません。そして、その確認の為に、誰かと結託して、他愛の無いイタズラを他人に仕掛けたりする。これを世間では一般的に「イジメ」と言います。

一方で「イジメられた」若者は、自我を保つ為に「こいつらと俺は違う」という差別意識を肥大化させて行きます。相手と自分を異なる地平に立たせる事で、自我を守ろうとする。こうして一部の若者は「中二病」を拗らせる事になります。

ただ、実際には相手と自分は同じ場所に居る訳ですから「異なる地平」という心のバリアは脆く壊れ易い。心のバリアを守り続けると往々にして「クラスや部活で浮いた存在」になります。この状態は不快以外の何物でも有りませんから、「部屋のドア」という物理的障壁に頼る人も出て来ます。これが「引きこもり」です。

「厨二病」は誰もが罹る「はしか」の様な症状ですが、拗らせるとタチが悪い病なのです。


■ ダーク・ヒーローならぬ「ネガティブ・ヒーロー」という発明 ■

マンガやラノベの主人公は「天真爛漫型のヒーロ」や「オレ様型のヒーロー」が多い。「マジンガーZ」の兜甲児や、「デビルマン」の不動明が典型的です。

小さい時には誰もがヒーローに憧れ、兜甲児や不動明の様になりたいと願う。しかし、小学校低学年にしてクラスカーストは既に存在していますから、それが妄想である事は子供でも自覚しています。そして自分が「ドラえもん」の「のび太」である事を自覚している子供は多い。ただ、「のび太」はドラえもんを使役してジャイアンやスネ夫に一矢を報いるので、彼らにとっては現実的なヒーロとも言えます。しかし、中学生ともなると、自分がのび太ですら無い事に薄々気付きます。

そんな、全国の極々当たりまえの普通の「厨二病」を発症している青少年の前に颯爽と現れたのが「比企谷八幡」というヒーローです。

高校生の比企谷八幡は、休み時間は教室の自分の机で文庫本を開くか、或いは寝たふりをしながら、オレに話しかけるなオーラを放射して、クラスとの関わりを一切絶っています。そして、醒めた目で、クラスメイトがじゃれ合う様を観察しています。

<引用開始>

動物は基本群れるものである
肉食獣にはヒエラルキーがあり、ボスになれなければ死ぬまで
ストレスを抱え続ける。
草食動物も天敵の襲撃で仲間を犠牲にして生き続ける
ことにジレンマを感じているはずだ。
このように群れとは個にとってなんら益をもたらさないのだ。
ならば、私は決して群れることのない熊の道を選ぶ。
熊とは一頭で生きていく事に何の不安も感じない孤高の
動物だ。
しかも、冬眠ができる。なんと素晴らしいことか。

次に生まれかわるなら
私は絶対

熊になりたい。


<引用終わり>

生物の授業で野生動物の生態について提出した比企谷八幡の回答です。アニメでこのモノローグを聞いた私は、45歳を過ぎていたのに、画面に向かって激しく首肯いてしまった。もう、脳味噌が頭蓋骨の中でシェイクされる程、ヘッドバンキングしてしまった・・・。

俺だ、俺ガ居る・・・高校生の頃のオレガイル!

そらからというもの、比企谷八幡は間違いなく私にとってヒーローとなりました。45歳のかつての厨二病オヤジですらそうなのですから、同世代の青少年にとって比企谷八幡は神にも近い存在に感じられた事でしょう。


■ 現代青少年のリアルに寄り沿った「青春小説」 ■ 

冒頭にも書いた通り、青春小説とは「若者の為の小説」です。

かつて「若きウェルテルの悩み」や「車輪の下」は青春小説だった。そして「路傍の石」や「真実一路」も青春小説だった。苦しい境遇、恵まれない環境、報われない思い、立派な人になりたいという理想に、当時の若者は強い共感を覚えた事でしょう。

次代は変わり、「青春の門」も「青春の蹉跌」も当時の若者の心をガッチリと捉えた。「オレも織江ちゃんとSEXしてーーー」とか「女子高生と・・・・」と心の底から叫ぶDTを大量生産した。

ところで、現代のDT男子が「青春の門」を読んで感動出来るでしょうか・・・答えはNOです。「幼馴染は、昭和の時代から負けが決まってたのか!!」程度の感想しか持ち得ない。

では現代の若者が共感する「青春小説」は何か・・・それは、「女子とエッチをしたいけれど、そんなの無理だから、せめて女子とお近づきになって、一緒に学校生活を楽しみたい」というチョー・リアルな夢を叶えてくれる作品では無いか。

そして、そんな彼らの現実的な理想に「ピタリ」と収まったのが『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』なのです。


■ 「自己犠牲」による救済 ■

物語は、ボッチの比企谷君の更生の為に担任の先生が、彼を「奉仕部」に強制的に加入させる事で動き始めます。

奉仕部には既に一人の部員が居ます。学力優秀な美少女の雪ノ下雪乃です。彼女は「奉仕部は学校の生徒のお願いを解決する部活」と説明する。そして、自分も先生に強制的に加入させられたと。

「私、小学生の頃、イジメられていたの。私、可愛かったから」・・・そう語る雪ノ下に、どこか自分と同じ匂いを感じた八幡は「友達になれるかも知れない」と彼らしく無い事を考えてしまいますた、それを口にする前に、雪ノ下からウジ虫を見る様な目で「無理よ」と断わられてしまう・・・。とにかく雪ノ下は口が悪い。但し、その端々に「高潔さ」が滲み出す。

そんな彼らに教師は「勝負しろ」と持ち掛ける。「どちらが他人の悩み毎を多く解決したかで勝敗は決まる。勝った方は負けた方に何でも言う事をきかせる事が出来る」というルールを勝手に押し付ける。負けず嫌いの雪ノ下は、思わずこの条件を飲んでしまいます。こうして、比企谷と雪ノ下の「お願い解決合戦」の幕が開きます。

マジメは雪ノ下は、あくまでも正攻法で解決を試みますが、ヒネクレモノの比企谷は、突拍子も無い方法で解決を試み、だいたい比企谷が勝利する・・・しかし、彼の問題解決の方法には、いつも自己犠牲が伴います。

自分の居場所を集団の中に求めない比企谷は、集団の中での自分の立場に頓着しません。彼が悪者になる事で解決する道を躊躇無く選ぶ・・・。

そんな彼に救われた者達はが、徐々に彼を慕い、信頼する様になる。そして、彼らは、比企谷の自己犠牲に対して、苦痛を覚える様になる。

そう、「ボッチの自己犠牲」には救いが存在するのです。これは比企谷八幡に共感する多くのボッチにとっての「福音」です。キリストがゴルゴダの丘でロンギヌスの槍に貫かれて世界を救った様に、ボッチに自己犠牲によって誰かの役に立つ事が出来、その結果、尊敬と異性の愛情が得られる・・・・。実の安易な福音を、この物語は若者に提示しえ見せるのです。

ボッチの自己犠牲は他人を救済し、そしてボッチも救われる・・・。


■ 安易な自己犠牲の否定の先にある「本物」 ■

比企谷八幡の突拍子も無い自己犠牲によって事件が解決するという、とっても歪んだニヒリズムが魅力の作品でしたが、巻を重ねる毎に、比企谷のダメージは深くなります。そして、同時に自分を慕う人達を苦しめている事に、彼も薄々気付きます。しかし、彼にはそういう解決方向しか思い浮かばない。

奉仕部に後から加入して、比企谷を慕う由比ヶ浜結衣も、雪ノ下も、次第に彼のやり方に反発を覚え、いつしか彼らの間には溝が生まれて行きます。

「自己犠牲」によってキャッキャ・ウフフな高校生活が手に入ると思っていた読者に、作者は現実を突きつけます。「誰かが一方的に犠牲になる解決などマガイモノ」だと。そして、比企谷自身も「本物」を模索し始めます。

物語中盤の展開ですが、もうラノベとしてのテーマを逸脱して重い・・・。この「本物」が何であるかは、物語が完結した最後まで、結局、はっきりちしませんが、それは読者が自分達で見つけるべき物なのでしょう。

■ ラノベの殿堂入りを果たす ■

『俺の・・・』は『このライトノベルがすごい!』にて作品部門2連覇と登場人物の人気投票4冠のを達成して殿堂入りします。この作品が選考に含まれると、他作品を寄せ付つけなかったから。

その位、「超ヒネクレタ、ネガティブヒーロ」が活躍?するこの作品は、若者達の心をガッチリ掴んで離さなかった。

■ かつての文豪が現代の若者だったらラノベ作家になっている ■

青春小説はいつでも時の若者の歪んだパッションによって生み出されます。

仮に、明治の文豪が現在の若者に転生したならば、彼らは絶対にラノベ作家になるハズです。

夏目漱石は西尾維新のライバルに、芥川龍之介は異世界物のベストセラー作家になったでしょう。森鴎外は女子受けするキレイな作品を書いたかも知れない。そして、太宰治は『俺ガイル』を読んで地団駄を踏むかも知れません。

そんな空想も楽しい。

■ 圧倒的なエンタテーメント性を有したラブコメの傑作 ■

まあ、ちょっと堅苦しい事を書いて来ましたが、『俺がいる』の最大の魅力は、比企谷八幡のyヒネクレまくったモノローグに有ります。かのれ目を通せば、世の中はこんなにも捻じれていて愉快で・・そしてちょっと悲しく楽しい。

この作品は、ピン芸人の自虐ネタを楽しむ様な、圧倒的なエンタテーメント性を備えていながらも、「ラブコメ」の歴史に確かな足跡を残す「大傑作」です。

これを読まずして現代の青春小説は語れません・・・・いえ、明治の文豪を語る事すら私は許さない・・・。


文学は、いつの時代も、その時代を生きる人達と共にあるのです。


2011年から続いた作品も、本年14巻にて完結しました。当時、中学生で読み始めた読者は就職する年齢になっています。

比企谷八幡が、ガハマさんを選ぶのかどうか、多くのファンが期待と不安を持って見守った最終巻ですが、実にキレイな終わり方をしています。ファンの誰もが納得し、次の展開をそれぞれの読者が心の中で紡いでゆく・・・。



・・・実は私はイロハスを応援しているのですよ。まだまだ、彼女は負けない!!
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