2014/11/27

限りなく文学に近い漫画・・・サメマチオの『わっちゃんはふうりん』  マンガ
 

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■ 近代文学と「意識の流れ」 ■

人間の意識や思考はどの様に形成されるのかは、心理学の研究テーマの一つですが、その仮設の一つに「意識の流れ」という考え方が有ります。

「人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものである(wikipedia)」といった考え方です。

これを文学に応用したのがジェームス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』、そしてヴァージニア・ウルフの『灯台へ』などの作品です。これらの作品は、心の表層に浮かび上がる様々な思考の断片が、何の脈絡無く羅列されている様な表現手法を取るので、現代の明晰な文学に慣れた私達が読むと「グダグダ」な感じがして、とても楽しみながら読める代物ではありません。

その対局にあるのがレーモンド・チャンドラーを始めとするアメリカン・ハードボイルドかも知れません。物語は事物の客観的描写と、主人公のモノローグによって進行します。このモノローグは絶えず誰かに語りかけるかの様に論理的で明晰です。逆に意図的に語り手の感情の揺らぎを排除する事で、むしろ言外に潜む心理を読者に推測させます。

日本のライトノベルの多くも一人称で語られる作品が多く、『涼宮ハルヒの憂鬱』では語り手のキョンはハルヒの事を大迷惑だと語りながらも、読者は言葉と裏腹なキョンの心理を想像して楽しみます。

あたかも「意識の流れ」を否定するかの様なハードボイルドの表現手法ですが、実は読者自身は進行する物語の後ろで「ざわめく意識」を絶えずすくいあげながら読む事を強いられる事から、ハードボイルドは「意識の流れの進化した姿なのかも知れません。

ジョイスらの作品が意識を押し付けて来るのに対して、チャンドラーは意識の押し売りをしません。読者の自由な裁量に任せているのです。

■ マンガは「意識の流れ」の表現に非常に秀でている ■

人間は言動と思考がかみ合わない事が有ります。「顔で笑って心で泣く」などという状況が思い浮かびますが、文章でその様な状況を表現するのは意外に難しい。

一郎は少し俯いた後、顔をくしゃくしゃにして笑ってみせた・・・。

多分、こんなベタな表現をする事が多いかと思います。
ところが、ここに動きと異なる心の葛藤が重なると、表現が混乱して来ます。

一郎は少し俯いた後、顔をくしゃくしゃにして笑って見せた・・・イヤだ・・・口の端がわずかに引きつっている・・・イヤだ・・・・。

ライトノベル的な書き方をするとこんな感じでしょうか。並走する思考を文章で表現する事は意外に難しいものです。

一郎は少し俯いた後、顔をくしゃくしゃにして笑って見せた・・・。
周囲の音が水底で響くように遠くおぼろげになり、彼女の言葉が泡のようにフツフツと消えて行く。頭の中の血管の音だけが、ドクンドクンと世界を圧迫する。


下手くそですが、文学的な表現を試みてみました。(中二病的文章だ・・・)

「一郎は無理して笑顔を作ったが、心の中は戸惑いと怒りに溢れていた」という直接的表現を避けると、文章は意外に回りくどくで不明確なものになります。


ところがマンガでは、主人公がクシャクシャに顔を歪めながら笑うカットを描いて、そして「イヤだ!!」という思考の「吹き出し」を付ければ解決します。さらに見上げた青空のカットを次に挿入したりすれば、さらに主人公の心の中が暗示されたりします。

■ サメマチオの『わっちゃんはふうりん』に見る意識の流れ ■

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昨日本屋で何故か衝動買いした サメマチオ『わっちゃんはふうりん』

作者の名前すら知らず、表紙の絵柄は好みでは無いのに、スーと手が伸びて気付けばレジに並んでいました。

大正時代、薬屋の家業を継いだのは妾腹の義兄。ビジネスに秀でた彼は輸入業者の娘と結婚して事業を拡大しています。本来、家業を継ぐはずだった本妻の息子の弟はボンボンに育った上に事故で片足を失い、今では厄介ものの扱いです。

弟の住む家は兄の持ち物ですが、兄はそこに妾を囲っています。母屋に妾が住み、離れに弟が住んでいます。今度の妾は、芸者上がりにしては出来が悪く、とても兄が身見受けする様な女ではありません。一方で普通の女性の様に大らかに笑い、しっかりとした生活感を持っています。

「兄の女」の存在を煩わしく思いながらも、女性の存在に心が乱れる弟は、なるべく彼女から距離を取ります。自分の妾を片足の無い弟の身近に置く事自体、妾腹の子である義兄のイヤガラセだと考えるからです。

こんな複雑な状況で日常を送る二人ですが、お互い相手を思いやり、気遣っています。そんな二人の生活も長くは続きません・・・・。

ありきたりな設定ではありますが、その描写方法には息を呑みます。兄と弟の複雑ですれ違う思いや、二人を取り巻く周囲の気遣いや我慢、そして一人の女性に対する二人の切ない思いが絡み合いながらも、話は淡々と進行します。

http://sokuyomi.jp/product/wacchanhaf_001/CO/1

上で試し読み出来ます。


シンプルなた絵に、言葉とモノローグが重なります。行動と言葉と心の中がバラバラと目に入って来ます。吹き出しの位置が不規則なので、時系列が分かりにくく、逆にそれぞれが同時に進行する様に感じられます。

まさにジョイスの「意識の流れ」の様なフワフワとした感じを受けるのですが、意識の海に溺れそうになる文学表現とは違い、最少の線で描かれた絵と、最少の言葉と、最少の心の声で形作られる世界は、省略の美学に満ちています。

その行動、その言葉が発せられるまでにどれだけこの男は逡巡したのだろう。心に浮かび上がる言葉すらも、思考の抑圧の網目をすり抜けて来たに違いない・・・・。

「意識の流れ」の手法を取ながらも、その表現手法はレイモンド・チャンドラーの様なある種のストイックさを感じずには居られません。


1冊で完結の作品なので、是非手に入れて読んで頂きたい。
森鴎外の『雁』の様な、抑制された美しさを堪能出来る作品です。



しかし、日本のマンガ文化というのは恐ろしいですね。探せばこんな作品がゴロゴロしているのですから・・・。
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2014/10/6

漫画の時間・・・背筋が寒くなるヤマシタトモコ  マンガ
 

■ マンガを読んで「背筋が寒くなる」のは初めてだ・・・ ■

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先日、仕事帰りにふらりと寄ったブックオフでマンガを三冊買いました。久しぶりに「欲しい」と思わせる作品に引かれたからです。

先ずは現在、飛ぶ鳥も落とす勢いで、往時の安野モヨコを思わせるヤマシタトモコ『運命の女の子』

ヤマシタトモコと私は不幸な出会いをしてしまいました。数年前、電車待ちの品川駅構内の書店で西炯子の『娚の一生』とヤマシタトモコの『HER』が一緒に並んでいました。どちらを買おうか迷っている内に、電車に乗る時間になってしまい結局どちらも買わず仕舞。

こういう出会いをした作品や作家って、縁が無いというか、その後、何だか買いづらくなってしまいます。そうこうしている内に人気作家になってしまうと「乗り遅れ感」が悔しくて、買えなくなってしまいます。電車には乗れましたが、ヤマシタトモコには乗り遅れた・・・。

『運命の女の子』は今年発売されたばかりのヤマシタトモコの最新短編集集。もう表紙からハンパ無いオーラが出まくりで、書店でも何度か手に取った作品。それが早くもブックオフに並んでいるのですから思わず衝動買い。

イヤー・・・・ハンパ無いっす。
特に冒頭の『無敵』は背筋が凍りつく様な作品です。



殺人の容疑が掛かる女子高生を、女性刑事が尋問する密室劇ですが、この女子高校がとにかく「異常」。美人に分類される容姿をしていますが、彼女の中身は人間の範疇を越えた何か・・・。『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターを思わせる異形の何かが人間の皮を被っています。

彼女の怖い所は、確信犯でありながら、通常の罪悪感を感じていない所。人が息をするのと同様に、自分が犯した罪を当たり前の行為と捉えています。尋問する女性刑事は、とにかく目の前の有る異形の物から逃げたい気持ちを抑えながら向き合いますが、彼女の雰囲気にのまれてゆきます。

佐世保の女性高校生猟奇殺人事件が7月ですが、この作品がアフタヌーンに掲載されたのが2月。実際の事件にこの作品が影響を与えたとは思えませんが、あまりの類似性に、再び背筋が寒くなります。

高校演劇部の男女関係をクールに描く『きみはスター』。ファンタジー色のある『不呪姫の檻の塔』と肌合いの違う2編がカップリングされていますが、女性作家らしい剃刀の様な醒めた視線は、現在のどの男性作家よりもスリリングです。

ヤマシタトモコに乗り遅れた私ですが、この作品が出会いで良かった。

■ ファンタジーとしてのSF 市川春子 『25時のバカンス』 ■

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こちらも書店で何度も手に取っていながら、何故か買えなかった市川春子の作品。

『虫と歌』の表紙にも惹かれましたが、『25時のバカンス』のビキニでシドケナイ表情には逆らえません。

内容はファンタジー色の強いSF。ただ普通の作品ではありません。「珠玉の作品」。

科学者の姉とカメラマンの弟の微妙な関係を描く『25時のバカンス』も、太陽系内開発を描く『パンドラにて』も、月の王子の不治の病を描く『月の葬儀』も、今までのどの作家も書いた事の無いアプローチで、SFとファンタジーを融合しています。

ちょっと評論するのがヤボなので、「大好物の作品」とだけ。

■ 『アンダーカレント』の豊田徹也の作品が再び読めるとは何たる僥倖。『珈琲時間』 ■

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ヤマシタトコモと、市川春子をゲットして、棚の下段を見ると『珈琲時間』というベタなタイトルが目に留まります。ただ、その下の作家の名前を見てビックリ。何と、豊田徹也の作品です。

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2005年に『アンダーカレント』という単行本でデビューした彼は、独学でマンガを勉強し、働きながらデビューします。しかし、『アンダーカレント』は、デビュー作家の作品というよりは、15年以上のキャリアを持つ作家の作品と言われても誰も疑わない完成された作品でした。

風呂屋の亭主が失踪した後、奥さんが一人で風呂屋を切り盛りしています。そこに一人の男が流れ付き、風呂屋を手伝う事に。素性の知れない男ですが、律儀でどこか影が有りまます。実は、この男の過去において・・・おっと、これ以上書いたらダメだ・・・。

絵柄は青年誌のシリアスな作品をコピーした様な、ある意味無個性な作家ですが、ストーリーテーリングと人物描写に関しては超一流です。亭主に逃げられた風呂屋の女房と、流れ者の男の関係がいつしか過去を巡るミステリーに発展して行く様は、優れた映画の様でスリリングです。この作品はフランスでも高い評価を得ている様です。

ただ、豊田徹也は極端に作品が少なく、単行本は2005年のこの作品以来、2009年の『珈琲時間』、2012年の『ゴーグル』だけです。

『珈琲時間』は発刊から時間が経っているので、何度か表紙くらいは本屋で目にしたと思いますが『アンダーカレント』と雰囲気が違う絵柄なので、豊田作品とは気付かなかったのでしょう。ブックオフで開いた途端、アアーー!!と思いました。速攻ゲットです。

『珈琲時間』は、コーヒーを巡る短編集です。それぞれのエピソードが独立していながらも、登場人物がどこかで関係している所は、くらもちふさこの『駅から5分』の様でもありますが、タッチとしては優れた海外の映画を見ている感じに近い。

本棚の片隅にこっそりと置いて置きたい作品です。



先週は堅い記事が多かったので、息抜きにマンガの話題でリラックス。

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2013/10/15

架空の世界の中のリアル・・・くらもちふさこ『天然コケッコー』  マンガ
 

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『天然コケッコー』 くらもち ふさこ

■ 漫画やアニメの舞台としての「田舎」 ■

今期アニメの『のんのんびより』。
田舎の子供達の日常アニメですが、1話目は非常に良かった。田舎の子供と都会の子供のカルチャーギャップを、田舎の景色の中で淡々と描いていてとても好印象でした。しかし、2話目にして完全に「ど〜でもいい日常アニメ」になってしまいました。原作ものなので、原作通りなのでしょうが、とても残念です。

ところで、かつて日本人が都会に憧れていた時代は漫画やアニメの舞台も都会がメインでした。一方、バブル以降の日本人の価値観の変化を象徴する様に、地方を舞台にしたものが増えている様に感じます。アニメによる地域振興のブームも手伝って、最近では地方が舞台の作品の方が多いとも言えます。

考えてみれば日本の人口の半分以上は地方都市やその周辺に住んでいるので、漫画の中にリアルな生活観を出そうとした時に、地方を舞台にした方が身近さが増すのかも知れません。都会を舞台にすると「東京」を無意識に想定してしまいます。遠くに山並みが見える地方都市の方が、特定の都市のイメージを取り去る事が出来るのかも知れません。

これらの「地方」を舞台にした作品の性質は概ね次の二つに大別されます。「どこにでもある田舎や田園風景」として描かれる場合と、「何か特別な因習が残る異世界」としての田舎です。

■ 「異世界」としての田舎 ■

かつて「東京」が異世界を代表していましたが、メディアで東京の隅々までが日常的に紹介された結果、全国津々浦々、東京情報が溢れ、東京はかつてのミステリアスな雰囲気を失い身近な都市に変貌してしまいました。

一方で、都会の人達から観た「田舎」は「異世界」そのもので、『屍鬼』や『神様ドールズ』では、「不思議な因習が残る田舎」という設定を最大限に活用して作品世界を構築しています。

■ 「日常」としての田舎や地方都市 ■

最近の傾向としては「日常」を描く作品で、地方を舞台にしたものが増えています。「東京」を舞台にすると、作品間の「差異」が小さくなってしまう事も原因なのかも知れません。

この様な作品に描かれる田舎にも2種類あり、「どことも知れぬ田舎」と「有名な田舎」に大別されます。『かみちゅ』の尾道や、『氷菓』の飛騨高山は、背景から地名の特定が容易です。これらの作品では、地名のネームバリューより、建物や街並、或いは風習が特徴的な事が物語の展開に不可欠な要素となっています。

一方で『あの日見た花の・・・』の秩父や、『悪の華』の桐生は、他の地方都市でも代替が可能かも知れません。

さらに、『俺の妹がこんなにかわいい訳が無い』の千葉市や、『俺の青春ラブコメはまちがっている』の京葉線沿線(千葉市)などは、ラノベの原作者の住んでいる地元をそのまま舞台にしたという安直さです。

地方在住の若いマンガ家やラノベ作家の中には、自分の住んでいる街の周辺しか知らない作者も多く、その結果、メジャーでない地方都市が物語りの舞台になるケースも多くなっています。『君のいる町』の舞台、広島県庄原市も作者の育った町だそうです。

ちょっと面白い動画を見つけました。
都道府県別、アニメの舞台をまとめてあります。
知らない作品も多いのですが・・・。



横綱・・東京・横綱
大関・・神奈川・埼玉
関脇・・千葉・長野・兵庫・広島
小結・・岐阜・京都

埼玉が次期横綱候補、千葉が次期大関候補 ・・・と勝手に番付を付けてみました。

我が町。浦安は『ああ女神様』と『ぜーガペイン』の2作品が選ばれていました。
『浦安鉄筋家族』もあるんだけどね。


■ 田舎マンガの金字塔としての『天然コケッコー』 ■

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『天然コケッコー』 くらもち ふさこ

今でこそ珍しくない「田舎」を舞台にしたマンガやアニメですが、「別冊マーガレット」に1994年から2000年まで連載された、くらもちふさこ『天然コケッコー』は、「田舎マンが」の金字塔とも言える作品です。

島根県の小さな農村に東京から中学2年の大沢君が転校してきます。村の分校には男子は一人しかいないので、女の子達はそわそわしながら、都会からの転校生を迎える準備をします。教室を掃除して、花を摘んで飾り、黒板に歓迎の文字を大書きします。

ところが転入生の大沢君はイケメンだけど性格が最悪。最年長で中2の「そよちゃん(
右田 そよ)」は初日からショックの連続です。

それでも、都会の臭いのする大沢君に皆夢中。村の中を案内したり、皆で海水浴に出かけるうちに、そよちゃんも大沢君が思ったよりもイイやつだと気付きます。彼の着ているパーカーに憧れたり、一緒に出かけるうちに、二人は自然と付き合い始めます。

そんな中学2年二人、1年2人、小6年1人、小3年1人という小さな村の子供達の成長と、彼らを巡る村の大人達を丁寧に描いた作品が『天然コケッコー』です。

6年間の連載で、大沢君とそよちゃんは高校生になります。
大沢君の家の複雑な家庭事情も知り、さらのそよちゃんの父親と大沢君のお母さんの過去も知りながらも、若者達は付かず離れずの関係と続けてゆきます。周囲の大人達は、子供達を時に温かく、時に必死に見守ります。(そよちゃんのお父さんは邪魔ばかりしますが・・・)

文章で書くと、「よくある話」なのですが、6年の間、丁寧に積み上げられてきた「小さなエピソード」の堆積は、そよちゃんの村があたかも実在し、さらには、彼女達がそこで暮らしている様な錯覚を読者に与えます。

最近では吉田秋生の『海街Diarry』が見事な人物描写を見せていますが、少女マンガの天才、「くらも ちふさこ」の描く世界は現実的でありながらも、どこかオボロ気でもあります。

■ そよちゃんの主観としての景色 ■

よくよく見ると、この作品、風景を「俯瞰」した描写がほとんど見られません。背景も風景もスナップショットの様な構図がほとんどです。

村はそよちゃんにとって、珍しい場所では無く、生まれ育った場所であり、見慣れた景色は彼女にとって何も特別なものではありません。畑も田んぼも校舎も山も、全てが生活の一部であり、取りたててそれをどうこう評価する視点を彼女は持ってはいないのです。

ただ、村の外の世界、例えば、子供達がてくてくと歩い行く先にある海辺は、別世界としてそよちゃんの目に映ります。そして、就学旅行で赴いた東京で、初めて自分の村を外の世界から眺めるのです。

■ 異分子であり続ける大沢君 ■

一方、中2まで東京で育った大沢君は、いつまで経っても「異分子」です。
彼が意識するしないに関わらず、彼の行動は村では目立ちますし、感覚もどこかズレています。大沢君も一度は村を捨て、東京に出てしまうので、彼自身、村に居場所が無い事を自覚しています。

しかし、結局彼は村に戻って来ます。
東京で聞く虫の声と、村で聞く虫の声が違うのだと・・・。
多感な時期を村で過ごした大沢君は、彼も気付かぬうちに村と同化していたのかも知れません。

■ マンガの表現力の極北 ■

『天然コケッコー』はある意味オーソドックスに描かれたマンガです。1話だけ、セリフの全く無い回がありますが、後は最近のくらもち作品に比べれば普通の表現です。

しかし、凡百のマンガと比較するまでも無く、この作品は極めて独自のポジションにあるマンガです。

何がと言われても難しいのですが、描かれているエピソードの裏の「心理」みたいなものが、表層の表現よりも強く読者に伝わって来るのです。

そよちゃんの不安や喜び、大沢君の苛立ちや投げやりな気持。そんな、本人達すらも自覚しない意識が作品を支配して、とてつもない緊張感が全編に張り詰めています。

ジェームス・ジョイスやバージニア・ウルフといった「意識の流れ」を表現に取り入れた現代文学の変革者の諸作と似た肌合いを感じずにはいられません。

ほのぼのとした田舎の生活の中に、都会人のイメージし得ない緊張がある事に、くらもちふさこは自覚的なのです。


■ マンガやアニメは文化として退化している ■


似た様なシチュエーションを描く作品でありながら、『のんのんびより』と『天然コケッコー』の間には、百億光年以上の隔たりを感じます。

この差を思う時、アニメを観ながら、何だか悲しい気分になります・・・。

元々アニメやマンガなどは子供向けのカルチャーなので、「幼稚だ」などと批判する事はヤボなのですが、一方で、多くのアニメファンが「くらもちふさこ」の存在すら知らない事に、この国のアニメ文化が本当に豊なものなのかどうか、一抹の疑問を感じてしまいます。

『のんのんびより』の第2話の2chの感想を見ると、1話目よりも圧倒的に2話目の評価が高い。「ゆり展開」で盛り上がるアニメファンのコメントを見て、つい書かなくても良い苦言など書いてしまいました・・。


「聖の中の俗」「俗の中の聖」というのは文化を味わう時の一つの醍醐味でもあります。
菅野よう子は「どーし様も無いオタクアニメが、一瞬、孤高の表現に達する時が好き・・・」的な表現をしていたと思います。文化の生命力は「俗」の中から生まれ、そして、いくつかの際立った作品を生み出すと、そのカルチャー自体が衰退を始めます。

現在の日本のアニメは、既に衰退期に入っており、『キルラキル』の様なポストモダン的手法が評価される時代を経た後には、長い退屈が訪れるのかも知れません。
7

2013/9/30

王道のSF・・・『鉄腕バーディー』  マンガ
 

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■ 「自然主義」の台頭と「SF文学の発生」 ■

SFというジャンルは「科学のお伽噺」です。

SFの登場は産業革命以降の「自然主義」の影響を強く受けています。それまで「世界は神が作りしもの」であったのが、「博物学」の隆盛や、ダーウィンの「進化論」によって、「神の意思」が自然科学から徐々に取り除かれて行きました。

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この流れに呼応する様に、文学の分野でもジュール・ヴェルヌ( 1828年2月8日 - 1905年3月24日フランス)が、新しい創作活動を始めます。

1884年パリの法学学校に進んだヴェルヌは、アレクサンドル・デュマらパリの芸術家建ちを親交を深めます。一方で、自然科学の論文に興味を示す一面もあり、当時の彼のお気に入りの作家の一人は、エドガー・アラン・ポーだった様です。ヴェルヌはポーの作品から、小説に科学的事実を取り入れて、小説にリアリティーを付加する手法を学びます。

1863年に書いた冒険小説『気球に乗って五週間』によって人気作家の地位を確立したヴェルヌは、その後『地底旅行』や『月世界慮教』、そして『海底二万里』など、まさにSFの原点とも言える「空想科学小説」の名作の数々を生み出して行きます。

■ 現代SFの基礎を築いた H.G.ウェルズ ■

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ジュール・ヴェルヌの作り出した「空想科学小説」は、「現実の世界」を舞台にした作品が多く、「科学の発展によって今まで人類が到達出来なかった世界を探検する」という内要がメインでした。「科学」は地底や海底など、「未知の地に人類を誘う手段」として肯定的に捉えられています。

一方、ヴェルヌの『月世界旅行』から30年後に『タイムマシン』を発表したのが、イギリスのG.H.ヴェルズ(1866年9月21日 - 1946年8月13)。この作品でヴェルズは、タイムマシンが到達した未来における、崩壊した暗い世界を描いています。ヴェルズの作品には、ジュール・ヴェルヌの作品にあるような科学礼賛的な無邪気さとは別の、科学が人類に齎す不安が色濃く表れています。

現代のSFはヴェルヌ的科学礼賛と、ヴェルズ的な科学への不安のバランスの上に成立していっても過言ではありません。

■ スペースオペラの時代 ■

ヴェルズ以降、盲目的な科学信仰を捨てたかに見えたSF小説ですが、アメリカで再び無邪気さを取戻します。

1920年代から1930年代にアメリカで流行したのは「スペースオペラ」でした。

アメリカにおいてSF小説は中世の騎士や王族の物語と融合し、スペースオペラというジャンルを生み出します。スペースオペラは大衆の人気を得て、SFを一気にポピュラーな存在としました。

騎士達の駆る空飛ぶ馬は宇宙船に、兵士達はロボットの軍団に、妖精達は愛くるしい獣型宇宙人になったのです。

スペースオペラの集大成が、ジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』です。(小説ではありあませんが)

■ ハードSFの誕生 ■

1940年代になると、アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインラインなどのSF小説の巨匠達が出現します。

彼らは、最新の科学や物理学を作品に導入し、未来を幻視し始めます。彼らの作品は「ハードSF」と呼ばれ、「科学のお伽噺」に過ぎなかったこのジャンルを、「未来学的」な分野に発展させたとも言えます。

一方で読者には科学的知識や理解力が要求され、SFというジャンルの読者を限定する事にも繋がりました。

■ ニューウェーブの隆盛 ■

1960年代になるとイギリスを中心にSF小説に「ニューウェーヴ」が起こります。

ハードSFの作家達は、「科学」は「唯物的」で「揺るぎないもの」と捉えていました。

一方で現実の科学は古典力学から量子力学の世界へと突入します。それまで「確実な存在」と捉えられていた物質すらも、量子の世界においては「確率的存在」でしか無い事を人類は知る事になるのです。

「観測者が結果を決める」という因果律の逆転まで発生する量子力学の出現は、SF小説の有り様も根底から揺さぶります。「唯物論的因果律に支配されていると思われた世界が、実は唯我論的ものであった」という転換は、多くのSF作家達の想像力を刺激します。

この様な科学の大転換は、「西洋的唯物思想」から「東洋的唯我思想」の転嫁をSF小説にもたらしました。「世界は自己の外側では無く、己の内面に存在する」という大転換です。

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ニューウェーヴSFの代表作家はフィリップ・K・ディックでしょう。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(ブレードランナーの原作)、『追憶売ります』(短編)(トータルリコールの原作)など映画化作品も多く、その影響力が伺われます。

「薬物依存や、精神異常といった個人的な幻覚が、実は世界を変容させてしまう」といった内容の作品が多く、「世界が不確かな物である事」が繰り返し語られます。

ニューウェーヴのSFの特徴は「科学の後退」です。ディックの『高い城の男』などは、日本軍が太平洋戦争に勝利した「もう一つの歴史」を題材にした作品ですが、科学的ギミックはほとんど登場しません。同じく、このジャンルの代表作家のイギリスのJ.G.バラードに至っては、『結晶世界』や『乾燥世界』など、世界が終末的に変容しても、その科学的説明は殆どされません。

これらの作家の特徴は、SFをサイエンス・フィクションとしてではなく、スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)として捉えている点です。極端な環境に人間を置くことで、人間の本質を露わにしようと試みるこれらの作家にとっては、SF的世界観や
科学的ギミックはあまり重要では無いのです。

■ サイバーパンクの隆盛と電脳空間の神 ■

遺伝子操作や生命科学、情報科学の格段の進化も、SFの発展に大きく寄与しています。今まで「空想小説」であったSFが、かなりのリアリティーを持つ様になったのです。

80年代のウィリアム・ギブソンが『ミューロマンサー』で開拓した「電脳空間」を舞台にしたSFは「サイバーパンク」と呼ばれ、現実の文化にも大きな影響を与えました。

押井守の『攻殻機動隊』シリーズは、サイバーパンクの世界観を見事に表現していますが、面白い事に、サイバーパンクの作品は極めて科学的でありながら、「電脳空間に生まれる神」を渇望しています。ここら辺は、ニューウェーブSFの影響を受けているとも言えます。

■ SFにおける科学の復権と、さらに不確かになる世界 ■

現代の物理学は並行宇宙の存在や、多元宇宙の存在を示唆しています。
私達の生きているこの世界は、実は数限りなく存在する似たような宇宙の一つに過ぎないという考え方です。

ここに至っては、「世界の不確かさ」は極限まで高まっています。
世界は唯一無二の存在から、選択可能なものへと変容したのです。

一方、ニューウェーブの作家達が「気分」として取り入れた「不確かさ」は、科学によって「実証」されたものになります。最近のSF作家達は、最新の科学や物理学の成果を貪欲に摂り込んで、SF的な空想世界の幅を拡張しています。


■ SF小説の影響を強く受ける日本のマンが ■

日本のマンガもSF小説の進化の後を追い続けています。

『鉄腕アトム』は科学礼讃と、科学不信が同居しています。
『仮面ライダー』などは、科学の不幸な面を強調しています。
『マジンガーZ』は科学の暴力的側面をクローズアップしているとも言えます。

これらの黎明期のSFマンガの後に流行したのが、『宇宙戦艦ヤマト』に代表されるスペースオペラです。さらには『超人ロック』という宇宙を舞台にした一大叙事詩まで誕生します。

1080年代後半に入ると、ガンダムのヒットを切っ掛けとして、「リアルなSF」が人気を集めます。これは日本人のロボット好きと不可分なのですが、この事によって、日本のSFマンガは「リアル」という檻に囚われたとも言えます。

「リアルの檻」を打ち砕いたのは、『エヴァンゲリオン』でしょう。エヴァの評価すべき点は、最新の科学をごった煮的に詰め込んだ事です。物質の不確かさ故にシンジがコクピットから消失する・・・こんな表現一つ取っても、エヴァがSF後進国である日本の若者に与えてショックは決して小さくありません。

エヴァンゲリオンこそ、日本のニューウェーヴSFマンガ(アニメ)の金字塔でしょう。
(実は日本人のSF作家はニューウェーヴの流れを先取りしていたりしましたが)

エヴァ以降の「世界系」と呼ばれる作品群は、ニューウェーヴSFのポップな変容と解釈する事が出来ます。

ディックの苦悩する主人公達は、悪夢の内に世界を変容させますが、ハルヒは悩みを突き抜けた先の投げやりな遊びで、世界を変容させます。

この様に、マンガやアニメはSF小説の影響を強く受けながらも、日本独自の発展を遂げたジャンルとも言えます。

■ 古典的なSFの『鉄腕バーディー』 ■

さて、ようやく本日の本題に到着しました。
本日紹介する『鉄腕バーディー』は、『機動警察パトレイバー』『究極超人あーる』でお馴染みのゆうきまさみのライフワークとも言える作品です。

1984年から少年サンデー増刊号で連載が始まりますが、1987年に未完で終わります。これを「オリジナル」と呼びます。

1984年当時は『スターウォーズ』などのスペースオペラが大ヒットしていた時代で、『鉄腕バーディー』もこの影響を強く受けています。

「大アルタ帝国」滅亡後、「宇宙連邦」と「アリュークによる恒星間神聖同盟」そして「非同盟諸国」に宇宙は分かれています。

連邦を構成する7星系は、爬虫類型、昆虫型、犬型、鳥型などの宇宙人の混成国家ですが、地球人に近い姿のアルタ人は迫害されているのです。

・・・と、さわりだけ書くと、ひどく「古臭い」作品です。
『機動警察パトレイバー』などの影響で休載している間に、SFの主流はスペースオペラからサイバーパンクなどに変化し、『鉄腕バーディーの世界感が古くなってしまった事もあり、ゆうきまさみは、この作品を未完のままに放棄しました。

実は、これがこの作品にとってどれ程幸いな事であったか・・・。

■ 一つの体で二人が共通の体験をする面白さ■ 

2002年にゆうきまさみは、『鉄腕バーディー』のリメイク版をヤングサンデーで連載し始めます。一度は「古臭い」と捨てた作品ですが、時代が経った事で、むしろ、本作品が秘めていた「王道としてのSF」の魅力に気づいたのかも知れません。

連邦の捜査官「バーディー・シフォン」は犯罪者逮捕に過程で、誤って高校生の「千川つとむ」を殺害してしまいます。連邦の捜査官、特に強力な戦闘力を誇る「イクシオーラ」であるバーディーは、「犯罪者を殺害せずに拘束する事」が強く義務付られています。さらに、原生人種である地球人の生命を損なう事は、彼女にとって禁忌とされています。

バーディーは緊急処置として、自分の体に「つとむ」の記憶と生物情報をコピーし、「つとむ」の肉体は保存処置が施されます。本国に移送し、再生を試みる為です。

こうして、バディーの体に高校生の「千川つとむ」が同居する事になります。生体融合の結果、バーディーは姿を「つとむ」に変化させる事が出来ます。「つとむ」の生活の継続を最優先するという上司の判断により、昼間は「ととむ」がバーディーの体を使い、夜はバーディーが犯罪者の追跡を行います。

生い立ちも、価値観も、科学的知識も異なる二人の人物が、同じ体を通して体験を共有します。二人の間には当然「物事の捉え方のギャップ」が存在します。所謂「異文化コミュニケーション物」とも言えますが、圧倒的な科学力を誇る連邦捜査官が、ごくごく一般的な高校生の生活を体験する一方で、極々普通の高校生が宇宙的規模の犯罪捜査を体験するギャップは痛快です。

バーデーは、地球人に非情に酷似した外見をした「アルタ人」という種族です。アルタ人は「凶暴」というレッテルが貼られ、連邦の中でも迫害されています。さらにバーディーは遺伝子操作によって肉体が強化された「イクシオーラ」で「ばけもの」扱いされて育って来ました。学校での辛い思いでしか無いバーディーにとって、「つとむ」の交友関係は新鮮であり、守るべきものとなって行きます。

■ お茶の間SFというマンガの伝統に忠実な作品 ■

この作品の魅力は、バーディーがつとむと体を共有する事で、バーディーの行動がつとむの日常から離れらない事にあります。宇宙規模の大事件の断片が、日常の中で発生するのです。これは、従来のアメリカのスペースオペラではあり得ない事です。「うる星やつら」に代表される「お茶の間SF」の伝統がしっかりと継承されているのです。

■ それぞれの正義 ■

「お茶の間SF」としての楽しさや軽快さ、そして親しみ易さを発揮するこの作品ですが、個々の内要は非情にシリアスで示唆に富んでいます。

その一つが、「正義とは何か」というテーマです。

バーディーが追跡するクリステラ・レビはかつては連邦の科学省長官を務めた事のある人物でアルタ人です。アルタ人としては異例の大抜擢を受けた天才科学者の彼は、その後、テロリストに転向し、反応炉の暴走というテロで大勢の人々を殺害した容疑を掛けられています。

レビと思しき人物を中心に、地球に身をひそめるいくつもの宇宙人の派閥も、それぞれの目的の為に行動します。さらに、自衛隊やCIAも対宇宙人の作戦の為に、これらの派閥と結びつきを深めています。

それぞれの派閥にそれぞれの正義が存在し、正義は少なからぬ犠牲を伴いながらも遂行されて行きます。

バーディーの正義は、犯罪者を殺さずに捕まえて法廷で裁く事。
自衛隊やCIAの正義は、宇宙人の侵略を防ぐ事。
帝国の残党の宇宙人達の正義は、帝国の復興と連邦への復讐。
異端審問官ぼ正義は神への忠誠を示す為に、レビを殺害する事。

そして、最後まで謎なのは、クリステラ・レビと彼の腹心であるゴメスの正義。彼らは、犯罪的な非道を犯す一方で、その行動には何か「崇高な信念」の様なものが存在します。

天真爛漫で素直なバーディーは無自覚の内に、レビやゴメスに感化されてゆきます。彼女は自分の正義をあくまでも貫こうとしますが、その正義は絶えず揺れ動く事になります。正義とは絶対的存在の様に見えて、実は相対的な価値基準であるのです。

そして、バーディーだけでなく、それぞれの陣営のそれぞれの正義も、絶えず揺さぶられ続け、彼らは自分の正義を信じながらも、それに疑念を抱く事を怠らない事が、この作品を魅力的なものにしています。

■ 良いSFは現実の社会や世界を映しだす ■

SFという手法の面白い所は、架空の現実を描く事で、むしろ実際の社会や世界の矛盾や、本当の姿を新聞などよりも雄弁に語る事が出来る点です。

SFは一種の社会シミュレーションに長けているので、極端な社会状況を簡単に作り出す事が出来ます。例えば、この作品の場合は、宇宙人が外交関係を築こうと地球に訪れますが、圧倒的な軍事力を誇る宇宙連邦は、どんなに紳士的に振る舞おうが、地球人にとっては単なる「脅威」でしかありません。これは「黒船外交」の様なもので、宇宙人達も充分にその事に自覚的です。「地球と宇宙連邦が対等である訳が無い」という傲りが、紳士的な態度の裏側に絶えず存在しているのです。

現実の社会においても、国家間の交渉は「対等」を装いますが、そこには厳然たる力関係の差が存在し、平等を装った不平等が弱者には押し付けられます。

■ SFの王道としての壮大な科学的結末 ■

この作品は、ヤングサンデーに連載された『鉄腕バーディー』の単行本20巻と、掲載誌の廃刊に伴う休載を挟んで、ビックコミックに連載された『鉄腕バーディーEVOLUTION』の13巻という、全32巻という堂々たるボリュームです。連載期間は10年にも及びます。

つとむの日常や、様々なエピソード、政治的な駆け引きなどが丁寧に描かれている為に、全体としては少々冗長な印象を受けます。

最後は打ち切りに近い形で結末を迎えるので、EVOLUTIONの13巻は急激に物語が進行するのですが、それでも「事物の核心」に向けて様々な伏線が収束して行く様はスリリングです。

最後に明かされる、地球と宇宙連邦の歴史的繋がりは、全ての読者をビックリさせるでしょう。これこそが、「科学を使ったホラ話し」としてのSFの醍醐味と言えます。

そして、そんな壮大なスケールの話においても、その発端は実は「つとむ」の生活圏内であったというのが、「四畳半SF」の面目躍如といった所でしょうか。

■ 「新しいSF」の時代に、あえて「古典的なSF」の可能性を追求した大傑作 ■

昨今のSF、特に近年の日本のマンガやアニメに見られる「世界系」の作品は、「全ての原因は彼女だった」みたいな結末が多く、SFとしての科学的な説明を最後では放棄しています。この傾向が強まるのはエヴァンゲリオンからでしょうか?

ニューウェーヴの時代、例えばディックの『流れよ我が涙と警官は言った』などでは、度胆を抜かれた「唯我論的結末」も、最近では少々飽きて来ました。

ゆうきまさみの『鉄腕バーディー』は、古典的なSFのスタイルを色濃く残す作品ですが、休載を挟んでリメイクされた事で、むしろ「古典的SFの面白さ」を発掘する事に成功しています。

物語の結末は、個人の内宇宙に委ねるのでは無く、あくまでも「唯物的」に「科学的」に構築する事で、SF小説が本来持っていた魅力が際立ちます。「オオオーーー!!」といった、驚きと満足感を持って、最後のページを閉じるのが、「古典的SF」の醍醐味とも言えます。

■ マンガとしての魅力にも溢れている ■

SF的な魅力を中心に語って来ましたが、この作品、マンガとしての楽しさにも溢れています。

ちょっとキワドイ格好をしたバーディーの活躍を堪能するのも良し。
「探偵物」というジャンルとしても、謎解きが楽しい作品です。
そして、登場する人物達がチャーミングな事も特筆すべきです。

「つとむ」を巡る恋愛模様も、80年代的抑制が効いていて、私体には共感が持てるものです。幼馴染とくっ付くのか、それとも・・・。

何れにしても、『鉄腕アトム』にちなんだ「鉄腕」と冠した作品だけに、「マンガによるSF」の有り方に忠実な作品とも言えます。


私達、オールドオタクには、秋の夜長に楽しむには最適な作品では無いでしょうか。


<追記>

この作品、『鉄腕バーディー DECODE』というアニメ版もありますが、こちらは、ある意味全く別のお話し。クリステラ・レビすら登場しないので、作品世界のショーケースだと割り切っています。

私は本屋に行くたびに、このマンガを手に取るのですが(買ってよオーラがパナイ)、アニメ版の内要しか知らなかったので、買うまでも無いと思っていました。

先日、ブックオフで一冊100円で見つけて思わず大人買いしてしまいましたが、ここ1週間はあまりの面白さにブログも更新が滞りがちでした。

マンガ版はアニメ版など足元にも及ばない程面白いです。


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2013/9/13

文字と歴史・・・『シュトヘル』に見る文字と文化と歴史の関係  マンガ
 

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『シュトヘル』 月刊スピリッツ

■ 今一番面白い漫画は『シュトヘル』 ■


最近、漫画を読んでもドキドキしない。
ツマラナイ。
何故って・・・年を取ったから?
大体3ページ位い読むと、先が分かってしまいます。

そんな中年オタクでも、鳥肌をたてながら読む漫画があります。
ジャンプに連載されている『ナルト』です。
特に最新作でサクラが見せ場を作っただけに、ヒナタの応援団としてはヤキモキします。

まあ、冗談はさておき本日の話題は「月刊スピリッツ」連載の伊藤悠『シュトヘル』

以前にも一度紹介していますが、あまりにも面白いので、再度のお薦め記事です。
この画にゾクゾクしなければ、あなたは不感症だ・・・『シュトヘル』(人力でGO 2013.01.17)

■ 漫画の魅力は絵の魅力 ■

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『シュトヘル』 月刊スピリッツ

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『シュトヘル』 月刊スピリッツ

漫画の魅力は絵の魅力に負う所が大きい。下手な絵でも、ストーリーが面白ければ『美味しんぼう』の様にヒットもしますが、そうは言っても絵の上手い漫画にはドキドキさせられます。

現在、私が一番ドキドキするのは、『シュトヘル』ですが、カラーページだったら1時間は眺めていられます。本編でも、これだけ見開き1ページを多用する作家は珍しいのでは無いでしょうか。それでもページのスペースが足りずに、こちらに飛び出してきそうな勢いがあります。

さらに、コマ割が上手いというか、挑戦的。最近は見開き上下2分割のバリエーションが多いのですが、その他に見開き縦4分割や、見開き1ページの大きな絵の上に部分的にコマを配したりと、この伊藤悠のコマワリは挑戦的でワクワクさせられます。

このコマ割は、映像表現に近く、見開き1ページはズームアップ、横長のコマはパン、縦長のコマはティルト、小さなコマはモンタージュに相当します。

これらのコマを最適に配した結果、『シュトヘル』は静止画でありながら、あたかも動画を見ている様な錯覚を読者に与えます。

この様な表現は、「劇画」が長い時間を掛けて編み出して来たもので、沙村弘明や伊藤悠はその効果を最大限に引き出す作家達と言えるでしょう。

「シュトヘル」でgoogleで画層検索をすると、画力自慢の多くの人達が自分のイラストをアップしています。まあ、この絵を見たら、腕に自信のある人達は、思わずチャレンジしたくなる気持は痛い程理解出来ます。

■ 単なる活劇では無く、文字と文化を巡る壮大なストーリー ■

『シュトヘル』の魅力は絵だけではありません。ストーリーも知的でスリリングです。

12世紀末、中国は南宋、西夏、金に分裂しています。それらの国にモンゴルの地から戦いを挑み、大帝国を築き上げたのがチンギス・ハンです。

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12世紀のアジア

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13世紀のアジア

『シュトヘル』の主人公であるユルールは、モンゴルに平定された小さな遊牧民国家の皇子ですが、彼の母はモンゴルに国が蹂躙された時、人質としてチンギス・ハンに差し出されます。そう、ユルールの本当に父親は、チンギス:ハンなのです。

ユルール勇猛な父の血にも関わらず、知的で学問を好む子供でした。彼は西夏から彼の国に差し出された義母に良くなつきました。そして西夏文字を習います。



西夏文字は漢字を原型にして、西夏王朝(1032年〜1227年)初代皇帝李元昊の時代に制定された文字です。建国を期に、西夏独自の文字体系を確立しようとしたもので、6000文字から出来ており、一字が一音節を表します。

西夏文字は蒙古軍の襲来で西夏が滅ぶと同時に歴史から姿を消すので、実際に使われていたのは100年程の短い機関で、長らく解読すらされない文字でした。

『シュトーヘル』では、主人公ユルールがなついた西夏の皇女は、西夏を出る時に密かに西夏文字を刻んだ石版を嫁入り道具として持ち出します。国が滅ぶとも、西夏文字を残す事で、西夏の文化を後世に伝え、そして西夏の再興を果たそうとしたのです。

一方、チンギス・ハンは執拗に国々の文化を抹殺します。図書館を焼き、知識人を殺します。『シュトヘル』では、その理由はチンギス・ハンの個人的恨みによるものとされています。

一方、実際の歴史においては歴史は過去に遡って勝者が編纂)します。元(蒙古)の時代にも、彼らが滅ぼした宋・遼・金の三国の歴史(「三史」)が編纂されます。これは言うなれば自分達の都合の良い様に、歴史を改竄する行為とも言えます。ところが、西夏は「三史」に含まれなかった為、西夏文字と共に、西夏の歴史も後世に伝わる事が無かったのです。

■ 文字と国家、そして文化 ■

東アジア圏の中国、朝鮮半島、日本は漢字文化圏です。

遊牧民族だった蒙古は文字を持ちませんでしたが、チンギス・ハンの時代にウイグル文字由来のモンゴル文字が使われる様になります。蒙古が勢力を拡大する過程で滅ぼしたナイマンの宰相でウイグル人であったタタトゥンガという人物が、チンギス・ハーンに文字の重要性を説いたとwikiには書かれています。

モンゴル文字の元となったウイグル文字は、ヘブライ語などに通じる「表音文字」で、世界では西洋諸言語(文字)を始めとして、アラビア文字など「表音文字」がスタンダードです。

一方、漢字は「表意文字」で、非常にユニークな文字体系です。
中国語は同音異義語が多いのですが、漢字を使う事で文章表現上の混乱を避けられます。日本語も同音異義語が多いのですが、歴史的にカナ表現のゐ(ウィ)やゑ(ウェ)などの発音が消えていったのは、漢字表記とは無関係では無いかも知れません。紛らわしい発音や微妙な発音が淘汰されても、漢字によって同音異義語の区別た付くからかも知れません。

■ ハングルやかな文字は、庶民の為の表音文字 ■

一方、漢字を導入した日本や朝鮮半島では表音文字も編み出されています。日本の平仮名や片仮名、韓国のハングルがそれに当たります。

漢字は覚えるのが難しいので、庶民の間に普及させる事は難しい文字でした。そこで、庶民でも文字が使える様にする為に、漢字を元に表音文字を作り出したのです。日本は漢字カナ交じりのハイブリットな文字体系に進化して現在に至ります。

一方、ハングルは1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗(セジョン)が、「訓民正音」の名で公布しました。中国の属領であった朝鮮半島では、漢字を使う事が正しく、独自の文字を持つモンゴル・西夏・女真・日本・チベットなど蛮人と見なされていた様ですが、世宗は庶民の為には簡単な「表音文字」が必要と考えたのでした。

ハングルは○やトの様な記号の組み合わせで出来ており、母音と子音を表す部首で構成されるので、非常に合理的な設計がされた文字です。ある意味においては、自然起源では無く、人造的な文字とも言えますが、その由来は起一成文図起源説、パスパ文字起源説などがある様です。

■ 公文書では使われていなかったハングル ■

ハングルは表音文字としては良く出来ていますが、朝鮮半島においてはハングルはあくまでも庶民の使うものとされていたので、公文書などは漢字だけで書かれていました。

漢字とハングルを併用し始めたのは、日本の植民地時代だと言われています。

福沢諭吉の弟子の井上角五郎が。「漢城旬報」という新聞を朝鮮半島で刊行し、庶民の啓蒙を始めます。最初は漢字のみの表記でしたが、福沢の薦めで、漢字ハングル混じりの文章によって、より広く庶民に読まれる事を狙ったものですが、漢字カナ混じりの日本語的発想とも言えます。

■ 漢字を廃止した韓国 ■

興味深い事に、現在の韓国では漢字は名前くらいしか使われておらず、ほとんどの文書がハングルで書かれています。これは、日本植民地時代への反発から、独自文字を使おうという民族自立の精神が際立ったもので、西夏文字などと共通する考え方です。

漢字は李王朝末期に朝鮮半島が中国の属領扱いであった事を思い出させますから、日本の影響を排除すると共に、中国の影響下にあった時代も抹殺してしまおうという、実に大陸文化的な発想です。

ただ、問題も発生します。表音文字では、同音異義語の区別が難しい。英語などは、その混乱を避ける為、発音のバリエーションが多く、それに従って同じ様な発音の単語でもスペルが異なるので判別が付きます。

一方、漢字文化を採用していた日本や韓国では、発音が未文化、あるいは表意文字である漢字え新しい単語を作った為に、同音異義語が量産される結果となりました。これを、表音文字のハングルだけで書き表すと非常に混乱を生じます。そこで、新聞などでは()で脚注を入れるなどして、同音異議語による混乱を防いでいるそうです。

さらに、表音文字だけの文章は、表記の仕方にも工夫が必要です。

「きょうのじんりきでごおはもじとぶんかについてこうさつしています。」

何の事だかさっぱり分かりません。

「きょうの じんりきでごおは もじと ぶんかについて こうさつしています」

文節毎に区切るとかなり分かり易くなります。ハングルは、この様に文節に分けて表記する事である混乱を避けています。

これを、英語の様に単語毎に区切ると、むしろ分かり難くなるのが面白い所です。

「きょう の じんりき で ごお は もじ と ぶんか に ついて こうさつ しています」


■ 文化と不可分の文字を廃止する政治的決断と、文化に対する影響 ■

「敵国語は使わない」という政治判断や社会お圧力は、戦中の日本でも起こりました。ベースボールを野球と言い換えたりしています。

ただ、英語などは外来語でしたから、日本文化にそれ程強く根付いている訳ではありません。しかし、漢字を日本語から排除するとなると、問題は深刻です。

朝鮮半島はこれをやってしまったのですから、ある意味において驚きですが、そもそも漢字が読めるのが一部のエリートに限られていたので、庶民への影響は少なかったにかも知れません。

しかし、それでも色々と問題が発生します。学者でも漢字が読めないので、自分の国の古い資料を読む事が出来ません。様は、歴史が途絶えてしまうのです。

中国の属領であったとしても、その時代も含めて自分達の国の歴史です。しかし、儒教の思想では、都合の悪い事は過去に遡って改竄すれば良いとなります。

日本と韓国、あるいは中国との間で歴史認識の差が拡大するのは、儒教国家の歴史感が、根本的に私達と異なる事も一つの原因となっています。

日本とて、過去の歴史は都合良く解釈され、美化される事に変わりはありませんので、両者の隔たりは拡大する事はあっても、縮小する事は無いのです。




本日は『シュトヘル』という、素晴しい漫画を読む事で、東アジアに関する文字と文化、そして歴史に関する簡単な考察をしてみました。


『シュトヘル』を読まずして、現在の日本のマンガは語れません!!



<追記>

大国中国(唐、元、明)などに対して朝鮮半島や日本は小国として独立の確保に腐心します。中国の王朝は、伝統的に東アジアでは対等の国家を認めない冊封主義を取っており、朝鮮半島の王朝も日本の王朝も、古来、朝貢によって、中国から国王としての正等性を担保してもらって来ました、遣隋使や遣唐使は、「朝貢」以外の何物でもありません。

朝鮮半島と日本の違いは、中国との地理的な違いに負う所が大きく、朝鮮はお隣だけに色々と口出しをして来ましたが、「日本は海の向こうのどうでも良い国」、要は夷族の国に過ぎなかったのでしょう。これが日本の独立性に大きく役だ立った事は言うまでもありません。

実際には663年に「白村江の戦い」などで倭国(わこく)と百済の連合軍が唐と新羅の連合軍と戦い破れたり、元が日本を2度程攻めていますが、幸いな事に日本は海に守られ、独立を維持しています。

この様に、日本や朝鮮半島は中国の影響を大きく受けて着ましたが、地理的に中国と陸続きの朝鮮半島は、政治的にも文化的にも中国の影響は決して小さくはありませんでした。


一部、ネトウヨの中には、これをして国家の優劣を語る人達も居ますが、あまりにも巨大な中国に対して、海で隔てられていた日本が、単に幸運であっただけというのが事実では無いでしょうか?


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