2015/5/6

この映画を見ればテロとの戦争が分かる・・・『あの日の声を探して』  映画
 

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■ 今、絶対に見るべき映画 ■

新宿武蔵野館で上映中の『あの日の声を探して』はチェチェン紛争を舞台にしたフランス映画です。

両親をロシア兵に殺され、赤ん坊の弟を抱えて村から逃げた9歳の少年ハジ。EUの人権委員会の職員としてチェチェンの惨状を世界に伝えようとするフランス人女性キャロル。街角で大麻を吸っている所を逮捕され軍に強制入隊させられた19歳のロシア青年。この3人」の体験を通して、チェチェンで起きている「テロとの戦争」を克明に描き出しています。

ストーリーや内容はあえて書きません。
「今、絶対に見るべき映画である」事だと確信しています



■ チェチェン紛争とは何か ■

チェチェンは旧ソビエト連邦の一員でしたが、イスラム教徒が多くロシア人とは歴史的に対立してきました。ソビエト崩壊後の1991年、チェチェンは一方的に独立を宣言しますが、エリツィン大統領はこれを認めず1994年12月に軍を派遣します。これに対してチェチェンに集結したアルカイーダを始めとするイスラム兵士らは果敢に抵抗し、ロシア軍は撤退を余技無くされます。これが第一次チェチェン紛争。

1999年にモスクワでアパートが爆破され百数十名が死亡します。この犯人はチェチェンの独立派とされ、プーツィン首相は9月にロシア軍のチェチェン投入を決定します。これが第二次チェチェン紛争、この映画の舞台です。

チェチェンの村々に侵攻したロシア兵はテロリストの尋問と称してチェチェン人の暴力を振るい、時に虐殺します。チェチェンの村々の男性の多くが銃を手にしてロシア軍を攻撃して来るので、ロシア軍にとってはチェチェンの男達は全員テロリストに見えるのです。そしてそれを庇う女子供もテロリストの協力者にしか見えません。

第一次チェチェン戦争当時、ソビエト連邦の崩壊によってロシア軍は人員が不足していました。チェチェンに投入されたのは軍隊経験も無い多くの若者でした。短い訓練の後、銃弾が飛び交う戦場にいきなり突っ込まれた彼らにとっては、銃を撃って抵抗して来るチェチェン人は恐怖の対象だったのです。

こうして多くの村で多くのチェチェン人達が殺され、多くの難民が村を後にします。


■ アメリカの「テロとの戦い」と同質のチェチェン紛争 ■

チェチェンの惨状に世界が黙っていた訳では有りません。しかしプーチンはチェチェン紛争は「テロとの戦い」だと主張します。

チェチェン独立派は、ロシア国内で度々テロ事件をぽ越していました。そして当時、アメリカはアフガンやイラクで「テロとの戦い」を遂行中だたたので、911に端を発するアメリカの「テロとの戦い」と何が違うのだと開き直ったのです。

これは独立運動を「テロとの戦い」にすり替える詭弁以外の何物でも有りませんが、一応ロシア連邦を正式には離脱出来ないチェチェンはロシアの国内問題だと主張する事も可能です。

一方、アメリカは「テロ」を口実にアフガニスタンやイラクなど全くの他国を攻撃しているので、プーチンに言わせれば、「アメリカの戦争が許されるのならば、ロシアの戦争が許されない訳が無いと」となるのでしょう。確かにその通りではあるのですが・・・。

結局、イラク、アフガニスタンで起きている事と、チェチェンやグルジア、そしてウクライナで起きている事は全く同質の事なのです。

ロシアの場合は・・・
1)ロシアの安全保障や資源獲得に不可欠な地域の独立を認めない
2)独立運動を「テロ」と称して軍事的に制圧する
3)テロリストは自国の自由を勝ち取ろうとする人々
4)テロと戦うのは貧しいロシアの若者達

ウクライナ紛争は構図が逆になります。ウクライナのロシア系住民がウクライナ人からテロリストとして敵視されています。ただ、ロシアは自国の利益の為にウクライナのロシア系住人を支援しています。戦っているのはウクライナの人々同士です。

アメリカの場合は・・・
1)アメリカの安全保障や資源獲得に不可欠な地域の利権を手に入れようとする
2)他国の政権に「テロリスト」のレッテルを張り攻撃対象とする
3)実際には911などのテロを実行したのが誰かは???
4)テロリストは自国の自由を勝ち取ろうとする人々
5)テロと戦うのは貧しいアメリカの若者

ISIL(イスラム国)との戦いは構図が複雑です。ISILは元々アメリカの仕込みですが、彼らはアメリカと敵対するアサド政権などを弱体化しつつ、アメリカに空爆の口実を与えています。

■ メディアが見落としてしまう「リアルな人々」の存在感 ■

『あの日の声を探して』という映画が素晴らしいのは「正義」を保留にして「事実」を見つめようとしている点です。

映画監督がこの映画を撮る動機の一つに「チェチェンにおけるロシア軍やロシア政府の蛮行を告発する」という目的があるはずです。しかし、彼はこの「分かりやすい正義」をひとまず保留します。

戦争に翻弄される少年、戦争を前にあまりにも無力な女性、戦争の狂気に取り込まれる青年の姿を淡々と追う事で、チェチェンで起きている事をありのまま視聴者に提示しようと試みています。

戦争は国と国との利権の衝突で発生しますが、戦場ではそんな事は何ら関係有りません。銃弾や爆弾を避けて今日を生き延びる事、敵に撃たれる前に撃ち殺す事。単純なルールが人々を支配し、その総体として「戦争」が遂行されて行きます。

メディアやジャーナリズムは往々にして「正義」に訴えようとします。自分が「正義」の側に立つ事で彼らは人々の共感を得、そして力を得るからです。

しかし実際の戦場では「正義」なんぞは犬に食わせた方がましです。「生き延びる」事が全てだからです。ジャーナリズムが「正義」を旗印とする限り絶対に伝えられないのが「戦争の真実」なのかも知れません。

このギャップを埋めようとするジャーナリストも多く居ます。戦場に飛び込んで人々の生活を必死に伝えるカメラマンやレポーターは少なくありません。ただ、彼らの必死のレポートもニュースネットを通して伝わる間に「正義」に塗りたくられてしまいます。

『あの日の声を探して』はフィクションです。シナリオが有り、舞台セットが有り、俳優達が演じています。決してジャーナリズムでは有りません。しかし、「演じる」事で「戦場とそれに関する人達を再構築」しようとする行為は、慎重に「正義」の存在を回避しようと試みまています。ただひたすら、そういう状況に陥った時に人はどうするのかをシミュレートします。ただ、この作品が「ドキュメンタリー的か」と問われれば答えはNOです。ヨーロッパ映画の積み重ねてきた「語法」に極めて忠実な作品です。映画としての完成度は極めて高いものがあります。

折しも、NHKの杭ローズアップ現代の「やらせ事件」が注目を集めています。真実を伝える為には「現実の映像」は説得力が足りないので、昔からこの様な演出はニュースやドキュメンタリーでは常套的に使われています。私達は「現実」と錯覚しながら出来の悪いフィクションを日常的に見せられているのです。同じフィクションの土俵に立った時、この映画の完成度は圧倒的とも言えます。

映画というフィクションは現実を伝えるジャーナリズムを超える瞬間を手に入れる事もあるのでしょう。その稀有な例として『あの日の声を探して』は必見では無いでしょうか。



ちなみに大学1年の娘と一緒に観ました。映画が終わった後目を涙で腫らしていました。若者は感受性が強いなと思いながら「泣いたの?」と聞いたら、「隣のオバサンなんて号泣うだったよ!!」と言いました。私が泣けなかったのは心が純粋で無いから・・・・?

劇場は映画が好きそうな中高年と、若干の若者で立ち見が出る状況でした。
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2015/4/27

個人は国家に逆らえない・・・映画『イミテーション・ゲーム』  映画
 

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映画『イミテーション・ゲーム』より

■ これは観るしか無い!! ■

先週の金曜日、仕事と飲み会の間が中途半端に開いてしまいました。新宿で映画でも見ようと検索すると武蔵野館で『イミテーション・ゲーム』という作品がピッタリの時間。

武蔵野館なら面白い映画かも知れないと足を運びますが、「アカデミー賞8部門ノミネート」の文字がポスターに・・・。こりゃダメだ・・・そう思った時、「エニグマと天才数学者の秘密」というキャッチコピーが目に留まりした。

あれ、あれ、これってアラン・チューリングの話しではないですか。これは観るしかありません。

■ コンピューターの原型を作った天才数学者 ■

チューリングの名を知っているのはコンピューターの歴史に詳しい方でしょう。現在のコンピューターは「ノイマン型コンピューター」と呼ばれています。彼は実際に稼働可能なコンピューターの原型を作った事で後世に名を残し、現代ではコンピューターの父と呼ばれています。

一方、チューリングはより数学的概念の仮想機械としての「コンピューター」の論文を発表した事で注目を集めます。自動計算機のアルゴリズムを簡単な概念的機械で実現する「チューリングマシン」の論文は、コンピューターの最初のイメージであったとも言えます。その後のノイマン型の研究は「いかにチューリングマシンを実際の機械で実現するか」という挑戦だったのです。

■ 第二次世界大戦中、ナチスの解読不能の暗号『エニグマ』に挑んだ天才 ■

第二次世界大戦中、チューリングは海軍でナチスドイツの解読不能と言われた暗号『エニグマ』の解読に挑みます。『エニグマ』は自動暗号生成装置で毎日コードが変わってしまうため、連合軍はこれを解読する事が出来ませんでした。

暗号の組み合わせは天文学的数字になり100人がかりで解読しても20万年掛る・・そう映画の中では説明されています。

言語学者、数学化、チェスのチャンピオンなどがこの難問に挑みますが、チューリングは機械によってこの暗号を解読する方法を選択します。これこそが現代のコンピューターの原型であったとも言えます。無数の文字の配列の中から規則性を見つけ出し、暗号の中から文字のコードを見つけ出す事は現代のコンピューター技術を使えば容易い事です。ただ、当時はコンピューターは存在せず、暗号解読のアルゴリズムを実行する機械を1から開発する必要があったのです。

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wikipediaより

上の写真はチューリングがエニグマ解読の為に作り上げた「bombe」のレプリカです。実際にはこのマシンをしても「エニグマ」は短時間には解読出来ず、思案にくれたチューリングが特定の配列を解読から除く事で、解読時間を短縮する事に成功します。

■ 秘密にされた「エニグマ解読成功」 ■

イギリス海軍がチューリングの研究によってエニグマを解読していた事は長い間極秘にされていました。20年経って、当時の公文書が公開された事で、この事実が明らかになります。

チューリングらは終戦の2年前にエニグマを解読していましたが、この事がドイツに知れればエニグマの構造を変えられ、再び暗号解読は不可能になってしまいます。そこでチューリングや海軍(MI6)は、解読した暗号の中から連合軍の勝利に貢献する可能性の高い作戦を抽出し、そして暗号解読以外の方法でその作戦を察知したとの偽情報を流します。

エニグマの解読はUボートによる海上輸送への攻撃を減らす事で連合国に大きく貢献します。ドイツは度重なるUボート作戦の失敗をイギリス軍のレーダー性能の向上が原因と考えていおた様ですが、エニグマが破れらていた事も薄々気づいていた様です。ドイツ軍の暗号電文に「イギリス軍に確認したか?」などのジョークが含まれるようになったと言われています。

そうして2年の間、イギリス海軍や政府は「国民の命の取捨選択」を繰り返す事で、暗号を解読し続け、ついにドイツ軍に勝利したのです。

■ 国家の前に国民の生命は統計のパラメーターに等しい ■

『イミテーション・ゲーム』はエニグマ解読に情熱を燃やした人達と、一人の悲運な天才数学者のヒューマンドラマとして、とても良く出来た映画です。派手な爆発シーンなんて無くても、映画はこんなにもスリリングなものなのかと再認識させられる傑作です。

その意味で、この映画がアカデミー賞を取る事の意味は極めて大きい。私も多いに期待しています。

一方、この映画の伝える本当の怖さとは「国家と個人」の関係性です。イギリス政府は「エニグマ解読」の「極秘」を守る為に、救える命を見殺しにする事も有りました。国家のとっては国民の命も統計上のパラメーターとして扱われる時が有るのです。

そして、エニグマ解読の功労者達も、任務の後はその偉業を発表する事も許されず、多分、一生国家の監視下で生活したと思われます。当時、ソ連との対立が激化していたので、優秀な人材にソ連のスパイが接触する事は十分に考えられる事でした。彼らがエニグマについて口外した時は、死罪になります。

国民は往々にして「国家が国民を守っている」と錯覚していますが、国家が守っているのは「国家というシステム」であって「国民」では無いのかも知れません。平常時には隠れていうこの原則は、戦争の様な非常時に躊躇無く行使されます。

「兵役拒否による投獄」などが良い例で、国民の権利などは国家の前には無いに等しいのです。この絶対の事実こそが、現代の国家を国家たらしめているとも言えます。


近代国民国家とは徴税権と警察権において国民を支配する存在なのです。ただ、システムとしてそれは上手く機能しており、他の統治や非統治の手法に勝っているので、国家は現在も地球上の存在し続けています。




私などは妄想が膨らんでしまう内容の映画ですが、ゴールデンウィーク中もいくつかの映画館でロングランしていると思います。素晴らし作品ですので、ご興味の有る方は劇場へGO!!




<追記>

チューリングの名は、人口知能と人間の違いを見分ける『チューリング・テスト』で広く知られています。

いくつかの簡単な質問をAIと人間にした場合、その返答に不自然さがあればAIだと判断されるテスト方法です。

現代のAIは自律思考する訳では無く、頂戴なデータベースと応答のアルゴリズムによって擬似的な人格を作り出す事しか出来ません。

ただ、今後研究が進む中で、自律思考する進化したAIが生まれる可能性は低くありません。そして、その様な「自我を持つ機械」が開発された時、私達は人間以外の自我に初めて対峙する事となるのです。

『パラサイトイヴ』でベストセラー作家となった瀬名秀明『デカルトの密室』は、チューリングテストの様子を具体的に描く意欲作です。

世界最高峰のSF、いや推理小説と呼ぶに相応しい・・・瀬名秀明「デカルトの密室」(2012.07.12 人力でGO)

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読みやすい本では有りませんが、現代SFの最高水準に有る一冊としてお勧めです。ゴールデンウィークの時間潰しに如何でしょうか?
10

2015/1/4

ディズニーフレーバーのアメリカンヒーロー・・・『ベイマックス』  映画
 

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■ 雪だるまの話だと思っていた・・・ ■

ディズニーの新作アニメ映画『ベイマックス』
私はてっきり「雪だるま」の話だと思っていました。少年が作った雪だるまが、翌朝歩き出して、少年と冒険を繰り広げる・・・こんな話を勝手に想像していました。

ところが、我がブログのアニメ担当、「よたろう」さん情報では、グレンラガンだとか?!これはとにかく観に行って確かめるしか無い。

実はディズニーアニメを見るのは仕事の一環なのですが、良い年こいたオヤジが一人で観るのは気が引けます。以前は娘が大喜びで一緒に行ってくれたのですが、最近は友達と行きたいようで、付き合ってくれません。だから『カールじいさんと空飛ぶ家』以来、劇場でディズニーアニメは見ていません。『アナユキ』だって未見。(マズイ)

しかし『ベイマックス』は女子高生の琴線に触れないらしく、友達と見に行く約束はしていないと言う。そこで、正月3日、暇を持て余している娘を誘ったら二つ返事でOK。

どうせ見るならディズニーアニメの聖地?「イクスピアリ」で観たい。1時40分の吹き替え版に間に合う様に自転車でGO。時間がギリギリなので思い切り飛ばします。車道を時速25km/hオバーで疾走する父娘って・・・それも信号順守で停車時、右折時には手信号。交通ルールはしっかり教えないとね・・・。

■ エエーー、雪だるまじゃ無いの? ■

ここからネタバレご用心

ポスターの白いフワフワを雪ダルマと思い込んでいた私。雪ダルマがどう『グレンラガン』に結びつくのか意味不明でしがが、映画の冒頭は何故かロボットバトルで始まります。ロボットバトルと言っても手作りの小型ラジコンロボットを戦わせる賭けバトル。私達の世代なら『プラレス3四郎』、今の世代なら『ガンダム・ビルドファイターズ』と言った感じでしょうか。

違法の賭けバトルに現れた少年ヒロのロボットは初戦で直ぐにバラバラにされてしまいます。それでも、「お金なら未だ有る」と札束を取り出した少年に、敵はカモネギとばかりに再戦を承諾します。すると・・・・。

実はヒロは13才で高校を卒業した天才少年。兄のタダシと叔母の3人暮らし。ヒロはやりたい事が見つからずに、賭けバトルに興じていますが、そんな弟を見かねた兄が、彼の通う大学の研究室を紹介した事から、ヒロの人生の歯車が回り出します。

兄の研究室はロボット工学専攻。仲間は科学オタクばかりです。電磁サスペンションの非接触ホイールバイク、マイクロ・レーザービームカッター、タングステン・カーバイトを化学的に脆弱化させて見せる実験など、最先端の研究をする仲間たちは皆個性的です。

そして兄の研究は、メディカルケアロボットの開発。骨格はカーボンで出来ており、アームの吊り上げ荷重は400Kmと軽量でハイパワーながら、ナイロン製の風船で覆う事で、「思わず抱きしめたくなるロボット」のベイマックスを開発しています。

「痛い!!」という言葉で起動したベイマックスは、「ベイマックス、もう大丈夫だよ」と言われるまで、かいがいしく患者のケアーを続けます。

天才少年のヒロは、スムースに会話するインタラクティブシステムの開発の苦労を瞬時に理解し「コーディングには時間が掛かったでしょう」とツボを押さえた質問を兄に向けます。

■ 研究室に入る為に開発したマイクロボットが事件の引き金に ■

大学でロボット工学を勉強する事を目標としたヒロは、キャラハン教授に認められるべくロボットの試作に取りかかります。そして彼が完成させたのは、手の平に乗る小さなロボットの「マイクロボット」。この小さなセルは何千、何万個が集まって自在に形を変えてる事が出来ます。全体としては流体の様に挙動し、ミクロなストラクチャーの集積で全体を構成する事が可能です。そしてコントロールは脳のイメージを増幅したテレパシー。思い描いた通りに動かす事が可能です。

「マイクロボット」は展示会で注目を集めますが、その会場が火事になり、キャラハン教授とヒロの兄タカシは亡くなってしまいます。

傷心のヒロは部屋に引き籠り大学の入学通知もゴミ箱の中。ところが、兄の遺品のベイマックスが足をぶつけたヒロの「痛い」という言葉に反応して機動します。(このシーン、ベイマックスが狭い部屋の中で慎重に移動する様が最高にユーモラスです)

ベイマックスはプログラムに従ってヒロの心を癒そうとしますが、ヒロは彼を邪険に扱います。そんな折、最後に残っていたマイクロボットの小さなセルが突然カタカタと動き出します。あたかも何処かに行きたがっているかの様に・・・。それが気になるヒロに、「どこに行きたがっているか分かったらアナタは幸せになれますか?」と問うベイマックス。「ああ」と適当に答えたヒロですが、気付けばベイマックスは部屋に居ません。

あわてて後を追うヒロが行き付いた先は・・・・マイクロボットが量産される謎の倉庫。そして突如ヒロとベイマックスに襲い掛かるマスクの男とマイクロボット!!

ここからは怒涛の展開です。とにかく一気に盛り上がって行きます。

■ 前半はディズニーアニメで後半はマーベル映画 ■

前半のベイマックスとヒロの交流はディズニーアニメの真骨頂。トイストーリーやモンスターズインクの様なハートウォーミングでチャーミングな演出です。とにかくメディカル・ケアロボットとしての「決して人を傷付けない」キャラの魅力が最大限に引き出され、それが後半の伏線へとつながってゆきます。

後半の活劇はマーベルコミックスのアメコミシリーズそのものの演出ですが、実は原作はマーベルコミックスの『ビック・ヒーロ・シックス』なのだとか。

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ディズニーは2009年にマーベル社を買収しますが、監督のドン・ホールがディズニー向けになるマーベルの作品をデータベースから探していて、ほとんどヒットせずに忘れ去られていた同作を見つけた様です。原作は日本を舞台にして、6人の日本人がロボットと一緒に悪と戦う物語でした。それをディズニー用にアレンジさいたのが『ベイマックス』。舞台もサンフランシスコを模した街に変更されていますが、随所に日本的?アイコンが散りばめられた、いかにもアメコミに出て来る様な「いい加減な日本風景」をあえて作り出して雰囲気を盛り上げます。

■ 全編に日本の特撮やアニメ、そしてアメコミへのオマージュが散りばめられている ■

全編に日本の特撮やアニメや、そしてアメコミへのオマージュが散りばめられているのも見どころです。

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上の映像は、ベイマックスにヒロが装着した強化プロテクター。何だかあまり強そうに見えませんが、それもそのはず。これ、『キック・アス』のトホホなヒーローのパロディーだと思います。

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ところが、バージョンアップした姿は・・・これってシャーザク!?

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緑から赤に変わると性能3倍どころでは有りません。

その他にも、ベイマックスがガラス張りのビルを背景に飛翔するシーンなど、ガンダムでコロニーを背景にしたシーンで何度も見た様な・・・。

ヒロとベイマックスが風力発電のアドバルーンの上で空を見るシーンの空気感も、日本のアニメのそれに近い感覚です。

さらに極め付けは「ロケットパンチ」!!

■ スタン・リーのカメオには爆笑 ■

エンディングタイトルの後の短い映像。富豪の息子フレッドが両親の肖像画の後ろに隠された父親の隠し部屋の存在に気付くシーン。

何と、オリジナル音声では、父親役の声はスタン・リーが当てているそうです。スタン・リーと言えば『スパイダーマン』や『Xメン』や『アイアンマン』と言ったマーベルの原作者にして、アメコミ界の大御所じゃないですか。

日本のアメコミアニメ『HEROMAN』の原作もスタンリーでした。(これ傑作です)

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彼、実写作品にはチョコチョコとカメオ出演している様ですが、まさか声のカメオとは。
そう思いきや・・・・肖像画を良く見て下さいね・・・。

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■ アメリカの3Dアニメは凄いレベルに達してしまった ■

ピクサーなどが開拓した3Dアニメの世界ですが、ディズニーもセル絵のアニメに戻る気は無い様です。

『カール爺さん空飛ぶ家』の頃は、CGに未だ違和感が有りましたが、既に今作ではCGでの表情の演出などはセルアニメを完全に凌いでいます。むしろ表情が動き過ぎてウザイ感じすらします。

ディズニーはセル画の時代から表情が良く動きますが、欧米人の会話は眉を始めとした顔の表情や手のゼスチャーが言葉同様に雄弁に語ります。ここら辺が日本の口パクアニメとの最大の違いかと思います。

とにかく『サンダーバード』の時代から欧米人は「とことん作り込む」のが正義だと考える人種です。CGで世界構築するにしても一切の手抜きましません。逆に日本の文化は「省略の文化」ですから、動きでも表情でも削れる物はそぎ落として行きます。(当然予算も有りますが)

一方、CGで人間を表現すると些細な差異が気になって「気持ち悪さ」を感じる事が有ります。そこでディズニーは人の動きでは無く、「アニメの動き」を再現する事で「リアルの不自然さ」と解消しようと試みている様です。は人形劇の動きに似ています。


■ 描く事には拘るが、伝えたい事を既に失った日米アニメ ■

技術的にはアメリカの3Dアニメも、日本の2Dアニメも到達点に達しつつある様に感じます。その一方で、コンテンツの中身はマンネリ化しています。

日本のアニメは近年、過激な表現が目立ちますが、作品の中身というか「伝えたい事」が無くなった反動で、表面的な演出ばかりが進化している様です。同様にハリウッド映画もアメリカのアニメ映画も、CGの導入など技術的進化は目を見張るものがありますが、中身は日本同様にカラッポです。

『ベイマックス』もエンタテーメント作品としてはハートウォーミングかつエキサイティングで傑作と言えますが、人の心にトラウマを植え付ける様な物は慎重に排除されている様に感じます。

日本でも、アメリカでも以前は社会運動から映像業界に流れ込んた監督や俳優が少なからず居たので、彼らは作品の中に自分達の主張を時に色濃く、時にこっそりと反映させて来ました。富野や宮崎がその世代に当たります。

一方、現在の作家達の目的は「素晴らしい映像作家になる事」であって、メッセージは販促用の薄っぺらな物と化してします。

情報化社会が進めば進む程、現実社会がバーチャル化して人々から現実感が薄れて来ている事の現れかも知れませんが、技術的、或いは演出的に素晴らし作品に触れれば触れる程、「表現対象の不在」を強く感じてしまいます。


正月休み、『無限のリヴァイアス』を見直しながら、この時代が日本のアニメの頂点では無かったかななどと漠然と考えてしまいます。



不満が全く無い訳では有りませんが、『ベイマックス』は高3の娘曰く 「アナユキの1000倍は面白い」 アニメです。

春休みにお子さんとご覧になるには最高の作品である事は私が保障します!!


ベイマックスのスマホケースが欲しく成りましたが、あいにくiPhone6用しか有りませんでした。アメリカ人の陰謀をそこはかと無く感じてしまいました・・・。
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2014/9/5

特撮の終焉・・・ハリウッド版 『GODZILLA』  映画
 

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■ CGはここまで進化したのか・・・ ■

打ち合わせの間が空いてしまたので、平日の昼間に映画など見てしまいました。
本当は佐藤健君の『るろうに剣心』を見たかったのですが、時間の関係からハリウッド版『GODZILLA』を見る事に。

世界中でヒットして続編の制作が決まっているのハリウッド版ゴジラ。「凄い」という噂は色々と耳にしますが、はたしてどれだけ凄いのか、ここはハリウッドのお手並み拝見。

結論から言うと、「凄い」です。CGが。

プロモーション映像がアップされているので、下にURLを貼ります。

https://www.youtube.com/watch?v=G1pX97_0rxU

この映像を見るだけでも、「ああ、もう特撮の時代は終わったんだな」と実感します。何とCGで着ぐるみ怪獣の質感を再現している・・・。ハリウッドにおいてCG技術はこれ程までに進歩しているのかと驚愕しました。

ミニチュアセットを一生懸命作って、撮影本番でボコボコに破壊する日本が得意とする特撮技術では、到底、ハリウッド版GODZILLAのCGのレベルには敵わない。

■ 怪獣映画の何たるかを熟知した監督 ■

ハリウッド版ゴジラと言うと、イグアナに似た怪獣が酷評された1988年版を思い出してしまいますが、今回のゴジラは往年のゴジラファンも大満足の出来栄えです。

監督はギャレス・エドワーズという方の様ですが、スターウォーズを見て映画界を志し、ゴジラシリーズの大ファンというだけあって、ゴジラの何たるかを下手な日本人よりも良く理解しています。

ゴジラの魅力を一言で言えば「圧倒的な破壊」です。ライバルのガメラが「良い子の味方」であるのに対して、本来のゴジラは人間などはアリを踏みつぶすがごとく、ただ破壊の限りを尽くします。

確かにゴジラも一得は「良い子のお友達」になった時期もありますが、平成ゴジラシリーズからは、本来の破壊神の姿を取り戻しています。

エドワーズ版のゴジラは敵の怪獣のムトーと一緒になって、とにかく街を壊しまくります。この一点だけ取っても、今回のゴジラが東映東宝版ゴジラの正統な後継者である事は間違いありません。

■ 911と311を経験した世界 ■

『GODZILLA』の映像で特筆すべきは、「倒壊するビル」と「押し寄せる津波」のリアリテーです。911でリアルビル倒壊を目撃し、311で押し寄せる津波の映像が目に焼き付いた現代の映像表現は、それまでの映像とは比較にならない現実感を私達に提示します。

原発の事故シーンなど、明らかに福島原発事故を意識しており、日本人は少し複雑な気持ちを味わうかも知れません。

■ ゴジラというより平成ガメラに影響を受けた『GODZILLA』 ■

エドワーズ監督の作り出す映像は、日本版のゴジラより、平成ガメラシリーズに強くインスパイアされている様です。

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飛翔怪獣ムトーがビルの谷間を飛翔するシーンですが、ビルの窓越しに怪獣がフレームインしてくる手法は樋口真嗣がガメラ3で試みています。

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映像表現のみならず、「ゴジラが地球の生態系を保つ為にムトーと闘っているかもしれない」という設定は平成ガメラシリーズの中心テーマですし、敵怪獣のムトーのデザインもギャオスに大きく影響を受けています。

■ CGの技術は素晴らしいが、映像表現は平成ガメラの渋谷破壊のシーンに遠く及ばない ■


ゴジラよりもむしろ平成ガメラに影響を受けているハリウッド版GODZILLAですが、CG技術こそ素晴らしいものがありますが、総合的な映像表現においてガメラ3の渋谷破壊のシーンには遠く及びません。

https://www.youtube.com/watch?v=DT3n4Z21jaA

日本の特撮映画は、本編撮影チームと特撮(特技)チームの二班体制で制作されますが、本編のドラマがしっかりしているからこそ、特撮が生きるという好例がこの渋谷のシーンです。

要は、怪獣に踏みつけられる人々がしっかり描けていなければ、怪獣の破壊の不条理さが引き立たないのです。

ガメラ3の冒頭において、前2作でも登場した大迫巡査(螢雪次朗)が、夜空にギャオスの姿を目撃します。大迫はギャオスでは無く、ギャオスを追って来たであろうガメラの襲来を予感し怯えます。

はるか上空を飛翔するギャオスに気づく人は皆無で、渋谷の街では普段通り、スカウターが若い女の子に声を掛け、人々が行き交います。ところが、その上空でプラズマ火球がギャオスを捉えます。

突然夜空に現れた火の珠に、人々は空を振り煽ぎます。爆散しながら落下するギャオスは、高度を落すと共に巨大な物体である事が人々にも分かって来ます。そして、渋谷駅の近くに落ちたギャオスは、その落下だけでそこに居た人々の多くの命を一瞬で奪います。

それに続くガメラの降下と着地によって、渋谷の街は普段の光景から一転して地獄絵図と化します。

人々の普通の生活が、突然無造作に奪われる様をこれ程見事に描いたシーンは日本の他の怪獣映画と比べても一線を画するものがあります。

音楽で例えるならば、軽やかな旋律の中に、マイナーな旋律が徐々に混じり始め、そして一気にクレッシェンドする様な演出です。

■ 出来の悪いパニックムービーを見た気分にさせるハリウッド版GODZILLA ■

実は私、映画館で中盤ずっと寝てしまいました。

怪獣が出現して以来、危機、危機、危機、ちょっとほっとしたら、また後ろからブワァーって襲って来る。壊す、壊す、壊す・・・・この連続ですから、脳も刺激に麻痺して、もう怪獣との戦いなのか、睡魔との戦いなのか分からない状態に陥りました。

これ、演出も酷いのですが、とにかく脚本の出来が悪い。一応、オリジナルの設定に敬意を払って芹沢教授なども出て来るのですが、結局、彼は何もしていません。傍観者にすぎないのです。

ゴジラと闘うのは米軍ですが、これもひたすら核弾頭を運んでいるだけ。意味不明。

そして最悪が主人公の感情がほとんど分からない。母を殺し、父の人生を滅茶苦茶にした怪獣に対する恨みがある訳でもなく、とにかくサンフランシスコの家族に会う為に軍に合流しますが、気付ば怪獣討伐の危険な任務に志願している始末。

パニックムービーの傑作と言えば、『タワーリング・インフェルノ』とか『ダイハード』を思い浮かべますが、とにかくヒューマンドラマの出来が良い事が特徴です。

『タワーリング・インフェルノ』ではポール・ニューマンとスティーヴ・マックインという2大スターの演技もさることながら、老詐欺師役のフレッドアステアがとても良い味を出しています。助かった者の切なさを見事に象徴しています。『タワーリング・インフェルノ』はパニックムービーの下地としての群像劇に作りが良く出来ているのです。ビル火災は主役では無く、人々を苛酷な状況に追い込む事で、人間の本質を浮き彫りにする為の装置として機能しています。

『ダイハード』は『タワーリング・インフェルノ』に比べると、ドラマは薄くなていますが、ブルース・ウィルスのキャラクターで全編しっかりと支えられてブレが有りません。1作目のテロリストも魅力的です。

GODZILLAの主役はあくまでも怪獣ですから、ヒューマンドラマなんてどうでもイイと言えばそれまでなのですが、やはり人が出て来る限りはドラマ部分の設定や演出が作品の出来に大きく影響します。

■ 「神性」を失ったGODZILLA ■

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初代ゴジラが放映されたのは1954年でした。戦後10年、東京は復興目覚ましい時期ですが、一方で戦争の記憶は人々の脳裏に生々しく焼き付いていた事でしょう。

円谷栄治と東宝の特撮(特技)スタッフは戦争中は戦意高揚の戦争映画を制作していました。海戦のシーンなどでミニチュア撮影を行っており、その技術がゴジラの撮影に活用されています。ゴジラ映画は戦争映画のバリエーションとして生まれたとも言えます。

広島・長崎を経験し、第五福竜丸事件の渦中にあった日本においては、放射線に汚染された怪獣というのは「穢れ」と「破壊」の象徴だったでしょう。

そして何よりも南方より徐々に日本に迫りくる脅威は、太平洋戦争当時の米軍そのものでした。日本の怪獣は何故か南から現れますが、そのルーツは米軍にあるのです。

南方よりやってきて街を破壊し、東京を火の海にするゴジラは戦争のメタファーであったとも言えます。しかし。ゴジラは日比谷までやって来て、皇居を破壊する事無く海に帰って行きます。これをして、ゴジラは「英霊達の怒りの代弁者」とする人達も居ます。

この様に日本の怪獣達は何かと「神性」を持って語られる事が多い。その最たるものがガメラで、平成ガメラは地球の守護者として、人間が地球を破壊するのならガメラは人間の敵になると作中で語られます。

ハリウッド版GODZILLAも、ゴジラが生態系の守護者であると芹沢教授が指摘していますが、ゴジラは一貫して軍隊が排除する対照として描かれ、誰もゴジラを味方などと認識していません。

ただ、最後、ムトー2体を倒して海に返るゴジラを、アメリカ国民は畏怖の目で見送ります。ここら辺、怪獣は1作目は単純な脅威として描かれる日本映画の伝統に則っているとも言えます。

■ SF映画としては生成ガメラに到底及ばない ■

ハリウッド版GODZILLAは平成ガメラの影響を受けて、「生態系の守護者」という隠れキャラが設定されています。しかしそれは、ムトーと闘う必然性から出て来た設定とも思われ、そこにSF的なスリルは全くありません。

平成ガメラシリーズは古典的な怪獣映画を現代的なテーマで語り直す中心に「地球の守護者」や「生態系の守護者」というテーマを据えており、それを肉付けるSF的魅力にあふれています。

SF的設定の緻密さは、日本のアニメ文化が長年に渡って培って来た伝統で、脚本の伊藤和典の趣味が色濃く反映しているとも言えます。

しかし、難しいSF設定は、GODZILLA映画の「破壊の爽快感」を損なうので、ハリウッド版はむしろ潔くそれを捨て去ったとも言えます。

■ 平成ゴジラシリーズよりは楽しめるのでは? ■

平成ガメラシリーズは別格としても、日本の特撮怪獣映画が袋小路に入り込んでいた事は否定出来ません。

ハリウッドのCG技術を見慣れた観客には、着ぐるみ怪獣が日本各地の名所を壊す映画は通用しなくなっていました。スカイツリーに至っては、あまりに巨大でゴジラが小さく見えてしまいます。ゴジラがスカイツリーによじ登る映像は・・・見たくはありません。

ゴジラはキャラクターとしてアメリカ人にも熱烈なファンが多く、その版権を東宝が死蔵してしまう事は確かに勿体無い。ハリウッドが版権を獲得した事で、CG時代の新しいゴジラが次々と生み出されて行くでしょう。

そして、その進化の行く先には、ノーマン版の『バットマン』や、サムライミ版の『スパイダーマン』の様な完成度を持つ作品も生まれるかも知れません。

その意味において、ハリウッド版『GODZILLA』は、充分満足出来る作品であり、世界的にヒットした事によって、ゴジラは日本とアメリカのカルトヒーローから、世界のスターにのし上がったとも言えます。


劇場で見てこそ楽しめる作品です。

9

2013/7/6

日本版『ゴトーを待ちながら』・・・・『桐島 部活やめるってよ』  映画
 

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■ 我が家の近くにはTSUTAYAが無い。 ■

我が家の近所にはコンビにが無い。
昔はすぐ近くにあったのですが、つぶれてしまいました。
今では缶ビール一本買うのにも、1Kmちかい距離をとぼとぼと歩いて行きます。

我が家の近くにはレンタルビデオ屋さんも無い。
駅近くにあったお店は全てつぶれてしまいました。
一人勝のTSUTAYAはロード店なので、2Km近く自転車を漕いでゆきます。

そんな訳で、最近DVDを見ていません。
劇場で見逃したり、劇場で観るまでも無いと思いながらも気になる映画を見ていません。

TSUTAYAからカード更新に伴う無料レンタル葉書が来たので
えっちらおっちら自転車で出かけてきました。

新作DVDのコーナーを一通りチェックして気になったのがこの作品。
『桐島 部活やめるってよ』

・・・・この投げっぱなしな感じの題名・・・気になりますよね・・・。

■ 高校生のヒエラルギー ■

<ネタバレ全開警報>

桐島君はバレー部のキャプテンで学校の人気者。
バレー部は大事な試合が控えていますが、
何故だか桐島君が突然部活を止めたいう噂が広がります。
そして、桐島君は学校も休んでいます。

クラスで桐島君の取り巻きは、ちょっとイケてる男子とイケてる女子。
サボり専門の野球部員でスポーツ万能の菊池君。
菊池君は放課後は、ちょっとチャラい寺島君と、友弘君と校舎裏でバスケットをしながら
桐島君が部活を終わるのをダラダラと待つのが日課です。

桐島君はクラスでピカ一の美人の梨紗と付き合っています。
梨紗ちゃんといつもツルンでいる沙奈ちゃんは、菊池君の彼女。
そしてバトミントン部の美少女のかすみちゃんと実果ちゃんが彼女達と一緒に居ます。

これがクラスの「イケテル」グループ。
スポーツが出来る、顔がイイ、性格が社交的でリーダーを引き立てる・・・
これらの要素を備えた子達が、クラスのヒエラルギーの上位に君臨します。

そして彼らを羨望と妬みの視線でちらちらと眺めるのは文化部の面々。
菊池君が好きで、屋上からいつもバスケをする彼を見ているブラバン部長の詩織ちゃん。
詩織ちゃんはカワイイけどちょっと地味。
映画部の前田君は、黒縁メガネのチビで、いかにもオタクの風貌。

彼らはクラスのヒエラルギーの底辺に位置します。
体育の授業でチーム分けする時も、最後まで声が掛からない。
こういう屈辱に日々耐えていますが、それを当然と自分を納得させています。

■ 桐島の不在で変化し始める関係 ■

クラスで一番の桐島君が不在になる事で、彼らの人間関係が微妙に変化し始めます。

最初はとにかく桐島君に連絡が取れないので動揺が広がります。
桐島君の彼女は、自分に何の相談も連絡も無い事にプライドが傷つけられ、
一番の親友だと思っていた菊池君も、漠然とした不安を抱きます。

そして男子3人は、いつもの放課後のバスケをしながら気付くのです。
「俺達がバスケをしてるのって、桐島が部活終わるのをまってたからじゃねぇ?」って。

桐島君の不在は女子の関係性にも微妙な変化を生みます。
しきりに桐島君の彼女の梨紗ちゃんを気遣う沙奈ちゃんに、
バトミントン部の二人は少々辟易としています。
そもそも帰宅部でちゃらちゃらした梨紗と沙奈を心の中ではバカにしています。

一方バトミントン部の実果ちゃんは、チームメイトのかすみちゃんが気になります。
高校生の頃特有の、同姓がちょっと好きになっちゃう感じ。
でも実果ちゃんは、バレー部の風助も気になります。
好きという感情では無くて、桐島の代役としてリベロを勤める彼に
決して叶うことの無い夢に耐える自分を重ねているのです。
風助にチームの風当たりは強い。桐島不在の不満の捌け口となっているのです。

桐島の不在は、彼らイケテル子達を不安にさせます。
自分達が彼の放つ輝きを反射する存在でしか無かった事に気付き始めます。

■ 自分の世界に生きる文化部 ■

一方、映画部の前田君は、桐島君の不在など感心がありません。
彼の目下の悩みは、次回作の内容です。
前作『君よ 拭け 僕の熱い涙を』はコンクールで入賞を逃しますが好評を得ます。
しかし脚本は映画(演劇?)オタクの顧問に押し付けられたもの。
だいたい、タイトルからして、生徒達の嘲笑の対象になるので気に入りません。
前田君が撮りたいのは「ゾンビ映画」。
そう、彼はカルト映画のファンなのです。
彼は先生を無視して、部員達とゾンビ映画の撮影を始めます。
機材はビデオカメラでは無く、8mmフィルム。
「画質はビデオより悪いんだけど、これでしか写らないものがある・・」
彼のこだわりが、機材の選択にも良く現れています。

映画部の部員達は、トホホなゾンビメークで校舎のあちこちでロケをします。
ところが、彼らの行くところに必ず吹奏楽部の部長の姿があります。
撮影の邪魔だからどいてくれと頼んでも、彼女は拒否します。
彼女の視線の先には、いつも菊池君が居ます。
「この場所じゃないと好い音が出ないの」と映画部の要求を拒絶する彼女の本音は
「この場所じゃないと菊池君が見えないの」だったのです。

文化部の彼らにとって桐島君の不在は、なんら影響がありません。
彼らは彼らの世界を、トホホながらも懸命に生きています。

■ 下層の反乱 ■

屋上で桐島を見たという情報で、クラスのイケテルグループと、
そしてバレー部員達が、一斉に屋上を目指します。

しかしそこに桐島君の姿は無く、ゾンビ達が居るだけでした。
撮影の邪魔だと抗議する前田君と、バレー部が諍いを始めます。
思わず前田君はゾンビ達にバレー部とイケテル子達を襲えと命じます。
8mmカメラのファインダーには、彼が理想とするシーンが浮びます。

いつもヒエラルギーの底辺を徘徊するゾンビ達が反乱を起したのです・・・。

騒ぎは直ぐに収まりますが、映画部員たちは放心しながらも、勝利に浸ります。
自分達はゾンビ映画が楽しかったし、イケメンにも一矢報いた・・・。

■ 空虚 ■

そんな映画部員たちを見て、菊池君の中でも何かが変化します。
落ちたレンズフードを前田君に手渡す菊池君は、
これまで存在を意識した事も無かった前田君に話かけます。
「それって8mmカメラ?何でビデオじゃないの?」

一瞬の交流が生まれます。
前田君が手渡した8mmカメラを前田君に向けて菊池君がインタビューを始めます。
「夢は映画監督ですか?」
「それは無理。」と即答する前田君。

それでも彼の映画への思いは、ファインダー越しに伝わってきます。
才能を浪費する菊池君の中で何かが少しだけ変化します。
彼は自分の中の空虚と、少しだけ向き合おうとしたのかも知れません。

■ これって、不条理劇の金字塔の『ゴトーを待ちながら』ですよね ■

あれ???
結局最後まで桐島君は出てこないの??

そう、『桐島 部活やめるってよ』はあの不条理劇の金字塔の高校生版でした。
その作品はフランスの劇作家、サミエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』。

登場人物がゴトーさんの話題をひたすらしているにも関わらず
ゴトーさんは最後まで現れ無いという有名な不条理劇。

この作品、私も見た事が無いので、たいした事は言えないのですが
そもそも一環したテーマも無く、掴みどころも無いままに観客は最後まで放置プレーという劇。

『桐島 部活やめるってよ』は日本アカデミー賞を取るなど高く評価されていますが、
多分、一般の人はこの作品を見ても????なのではないでしょうか。

ただ、本家の『ゴトーを待ちながら』に比べたら、
高校生のリアルな生態が描かれていたり、
イケテ無い映画部の反撃に共感したりと、まだ掴み所のある作品。

高校生達は、何だか分かんないけど、ああいうヤツ居るよね・・・って共感してしまう。
それはそれで、正しい楽しみ方だと思います。

■ 映画とアニメの違い ■

実は前期終了アニメの『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』は
『桐島部活やめるってよ』と非常に良く似た作品です。

ただ違うのは、映画とアニメの表現手法。

映画はドキュメンタリーの様に、高校生達のダラダラした日常と会話を客観的に見つめます。
会話や、校舎に漂う空気感から、登場人物達の語られる事の内面が滲みだしてきます。

一方、アニメは情報量が少ないので、そういった演出は不向きです。
だから、主人公のモノローグが映像を補うことになります。

アニメでも優れた選出家や監督は映像に語らせますが、
基本30分という尺の中で起承転結を付けるには、やはり説明が過剰になりがちです。

そこを逆手に取ったのが『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンのモノローグでした。

最近では映画も過剰に説明する作品が多く、
特にTVドラマのアニメ化は、登場人物がひたすら会話で説明し続けます。
TVの脚本家は、分かりやすさを重視するので、語らせてしまいます。

その点、『桐島部活やめるってよ』は実に映画らしい作品であり、
セリフよりは、放課後の学校の気だるさだったり、
西日差すグランドの遠景が、本当に高校生独特の生活観を良く醸し出しています。

しかし、日本映画って、時々こういう良作が飛び出すから面白い。
これを外人が見ても???なのですが、
かつて高校生であった日本人には、なんだかとてもしっくり来る作品です。

こういった作品が評価される日本って、捨てたもんじゃないですね。


<追記>

この映画の最大の魅力は、竹中直人が出て来なかった事。
ああいう、「いかにも」という役者を排除した事に成功の理由があるのでしょう。
そして神木龍之介君か、オタク高校生を淡々と演じています。
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