2016/8/8

夏休みの読書感想文が終わらない君たちに・・・『夏美のホタル』 森沢明夫  
 

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■ 今年もやります、夏休み企画 ■

今年も「読書感想文」の季節がやって来た。

小学生は課題図書が決まっている場合が多いが、中学は自由に選べる。そうなると、普段小説など読んだ事の無い君達は、「本選び」で先ず悩むに違い無い。「なるべく薄い本で有名な作家の本」というのが定番かと思う。

しかしここで『星の王子様』なんて選ぶと最悪だ。「王子様はカワイそうでした」なんて感想しか書けないだろう。(尤もBL好きの女子ならば、色々な妄想は膨らむだろうが・・・。)

ヘミング・ウェイの『老人と海』も危険な一冊だ。「まじサメ最強!!」なんて感想を書いたら再提出必至だろう。

そこで、今年お薦めしたい1冊はこれ。森沢明夫の『夏美のホタル』。先日映画を観たので、原作を読んでみたら、これが意外にも読書感想文向きだった。

映画 『夏美のホタル』 聖地巡礼



■ ちょっと粗筋を ■

ネタバレ全開!!

大学で写真を専攻する信吾と、彼女の幼稚園教諭の夏美は、夏見の運転するバイクで田舎の一軒の商店に立ち寄ります。夏美がトイレを借りたかったから。店の名前は「たけ屋」。店先にはアイスと冷凍食品が入った冷凍庫が置かれ、パンと一緒にゴキブリホイホイが売られている様な何でも屋だ。

夏美が戻って来る間、信吾が店を覗くと店の奥の居間から老人がが話し掛けて来た。「あんたでっかいカメラぶら下げてるなぁ」。液晶で写真を見せると、感心された。褒められて信吾は悪い気はしない。そこへ夏美が戻って来た。彼女の傍には老人の母親と思われるお婆ちゃんが立っていた。老人の親子は突然現れた若者にお茶を勧め、今度はホタルを見に来いと誘う。

6月の梅雨の晴れ間の土曜日、夏美と信吾は再びたけ屋を訪れる。すると店の前には子供が二人。バイクに乗る女性が珍しいらしく、「なんで女が運転してるの」と遠慮も無く聞いて来る。近所の酒屋の兄妹はたけやの老人を「地蔵さん」「ヤスばあちゃん」と呼び懐いている。夕刻になるのを待って近くの川辺に降りてゆくと無数の光が舞っていた。ホタルの光だ。道すがら地蔵さんが持っていけと言ったホタルブクロの花にホタルを入れると、釣鐘状の花全体が幻想的にぼわっと光る。ホタルの光に照らされた夏美を信吾は夢中になってカメラに収めた。

たけ屋に戻ると信吾は「この村と自然をテーマに卒業制作を撮ろうかな」と何気無く口にした。それを聞いた地蔵さんは、使っていない離れを寝泊りに提供すると言ってくれた。こうして信吾と夏美は小さな村でひと夏を過ごす事になる。

地蔵さんは信吾に川遊びを色々と教えてくれた。エビや魚を捕ったら、それをヤスばあちゃんと夏美が料理して夕飯のおかずにしたり、酒の肴にした。信吾はすっかり川遊びの虜になった。

ある日、たけ屋に作務衣姿の男が現れ地蔵さんと酒を飲んでいた。彼はよそ者の若者をジロリと見ると「お前ら家賃はいくら払うんだ」と聞いた。感じの悪い男は地蔵さんの友人だと言う。「嫁に逃げられた者同士」だと。地蔵さんが離婚していた事は二人には驚きだった。

二人は地蔵さんの過去を知り、今でも肌身離さない古い妻子の写真の裏に書かれた「ありがとう」という色の薄れたインクの文字を見る。「生まれてきてくれてありがとう」・・母子家庭に育った地蔵さんは、貧しい暮らしで自分の存在が母の負担いなっていないか子供ながら責任を感じていたが、若き日のヤスばあちゃんは「生まれてきてくれてありがとう」と地蔵さんの頭をよく撫でてくれた。自分が息子にそうしてあげられない事が地蔵さんには心残りだったと・・。

無愛想な作務衣姿の男は雲月と言う有名な仏師だった。彼の掘る仏像には命が宿るという。たけ屋に買い物に現れた彼は、店番をしている信吾につり銭はレジに入れておけと言う。そして「雨上がりは釣れるぞ」と信吾に告げる。案外悪い人では無いのかも知れない。

粗筋はここまで・・・

続きは本を読んでみよう!!
仏師の雲月さん、マジでカッコイイです!!

小さな出来事を瑞々しい筆致で丁寧に描き、事件など何も起きないのに次のページを捲る手を止められない。

■ 人は支え合って生きている ■

この本のテーマは「人のつながり」だ。人は誰かと支え合って生きている。親と子は勿論の事、偶然知り合った都会の若者も、変わり者の仏師も、小学生の兄妹も、人とのつながりは、ほんの少しの幸せを少しずつ積み上げている。

自らつながりを絶った別れた妻子への思いも、見えないつながりとして再び人と人を結び付ける。そしてそこから新たな小さな幸せが生まれてゆく。

一方で田舎の閉鎖的社会はよそ者を拒絶する。風変わりな仏師も、突然バイクでやって来た都会の若い男女も田舎の社会は普通は受け入れはしない。たけ屋の老人二人は多分寂しかったのだろう。だから、突然現れた若者に親切にし、彼らが訪れる事を心待ちにする。

時間が止まった様な田舎の、老人二人の変化の無い暮らしに無邪気に入り込んだ若者達は、固まっていた時間をゆっくりと溶かしてゆきます。そして頑固な雲月の心も。

■ 「生まれてきてくれてありがとう」という陳腐な言葉がなぜかイヤにならない不思議な作品 ■

実は私は「生まれてきてくれてありがとう」という言葉がダイキライです。全ての生命の営みの中で人間の生命だけを特別視している様で嫌いです。これから子供が巻き込まれる様々な困難や苦しみを思うと、「生まれてきてくれてありがとう」という言葉は、親のエゴ丸出しでキライです。

ただ、この小説の中だけは「生まれてきてくれてありがとう」という言葉が素直に心に浸透してきます。人が普通に生まれて、普通に生きている事の素晴しさに気付かせてくれる作品です。

中学生にとっては親は「ウルサイ」だけの存在かも知れません。「オレなんて、ワタシなんて産まなきゃ良かったじゃない!!」なんて親も向って言ったりした事がある人も少なく無だろう。
そんな君達にこの本は是非読んで欲しい。今は良く分からないかも知れないけれど、きっと将来自分達が親になった時に、もう一度この本を読みたくなるはずだ。


50歳になる私も、もう少し親を大切にしようと反省させられている。



中学生、高校生の諸君にお薦めの本をもう少し紹介する。
トラップも有るから選択には注意が必要ですが・・・。


夏休みの読書感想文が終わらないお子様に・・・カラフル

夏休みの読書感想文の本が決まらない君に・・・有川浩「レインツリーの国」

夏休みの読書感想文が終わらない君たちに No.3 ・・・ 『NHKにようこそ』 

夏休みの読書感想文が終わらない君へ・・・『きりこについて』

分が演じるキャラクターとは自分自身では無いのか?・・・庵田定夏「ココロコネクト」

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小説というバーチャルリアリティー・・恩田陸「夜のピクニック」



<追記>

映画と小説は全然別の作品でした。映画では主人公は夏美になっていて彼女も写真家志望。そして勝気な性格とされていますが、原作の主人公は信吾。夏美は幼稚園教諭で天真爛漫。ただちょっと哲学的な事を不意に言ったりします。「小説と現実って、アジの開きに上を下みたいだよね。味は一緒で、骨があるかどうかの違いしか無い」みたいな・・・。

映画では、別れた奥さんに連絡しようと言い出したのは夏美でしたが、原作では雲月が言い出し、をれをヤス婆ちゃんが拒みます。

まあ、色々と違う原作と映画ですが、同じモチーフの別の作品として楽しめば良いかと。個人的には小説の方が好きかな。



<追記2>


ちなみに原作のバイクはHONDAのCBX400F。映画ではYAMAHAのSR400。ここら辺はスタッフの好みの問題なのか・・それとも親父の形見としてはレトロな風貌のSR400の方がイメージに合うのか・・。

ちなみに作者の森沢明夫は千葉県の船橋市出身。実家のお隣の市です。高校時代に免許を取ってバイトでバイクを買った森沢氏は、授業をさぼっては房総を走っていたみたいです。そんな彼がトイレを借りに立ち寄ったのが「たけ屋」のモデルとなった「角屋」。

そこには老婆と息子さんが住んでいて、彼はその後何度も通ったそうです。社会人になって忙しくなり、久し振りに訪れると老婆一人になっていた。そんな実際の体験を元に書かれた小説ですが、舞台となった筒森の集落は私も大好きな場所です。自転車で通る時は集落の下を通る新しいトンネルを通らずに、わざわざ峠道を筒森の集落まで登って行きます。峠道のてっぺんに有るのが角屋です。(今はシャッターは閉まったまま)

作中、地蔵さんが運び込まれた海辺の総合病院は鴨川の「亀田総合病院」ではないでしょうか?映画では大多喜町の他の病院でしたが。アジサイの咲く寺というのは麻綿原高原ですね。

森沢氏の映画化された作品に『虹の岬の喫茶店』(映画では『ふしぎな岬の物語』・主演は吉永小百合)が有りますが、この作品も鋸南町にある海辺の喫茶店がモデル。ロケもここで行なわれています。今度自転車で行ってみたいと思います。

千葉県は神奈川と同じく東京の隣りの県ですが、房総半島中央部や南房総は本当に「田舎」がいい感じで残っています。交通量も少ないのでバイク乗りや自転車乗りには天国です。



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2016/3/23

大人の為のラノベ講座・・・世界と繋がる為に  
 

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■ 外人留学生が西尾維新のファンだった!? ■

以前の記事遊びとしての文学・・・西尾維新・「化物語」にコメントを頂きました。

国文科を卒業されている主婦の方が、日本文学に興味の有るアメリカ人留学生をホームステイで受け入れた所、「村上春樹が好きだ」と言っていた彼は西尾維新の『化物語』の素晴らしさを力説した。彼女もとりあえず原作を読んでみたが、どこが良いのか分からずに困惑している・・・

そんなコメントでした。

■ 外国人が日本語を勉強する時点で、その動機は「アニメやマンガやラノベを原語で理解したい!!」 ■

前出の場合、「村上春樹が好き」というのはポーズでしょう。彼の本音は「アニメやマンガやラノベの原作を日本語で理解したい」では? これは、リアルタイムで日本のオタク文化を共有する世界の多くの若者に共通した願望で、それが高じて日本語を勉強して日本を訪れる方も少なくありません。

「村上春樹」というのは、彼がとりあえず世界では日本文学の代表作家であり、彼の名前を出しておけばカモフラージュに成る程度の「存在」に過ぎないかと(憶測ですが)。

■ そもそも村上春樹って何で人気が有るの? ■

そもそも日本人の私は村上春樹を全く理解出来ません。『ノルウェーの森』は過去に読みましたが、冒頭の飛行機の中のシーン以外は一片たりとも思い出す事が出来ません。短編なども母親の書棚から拝借して読んでみますが、「上手な書き手」という以外の感想は持ちません。

彼のテーマは「喪失」とか「虚無」と言われていますが、彼はその抜けた穴を描く事に執着している様に見え、穴を塞ぐ事を放棄している様に思えます。

この様な作品は世界でも80年代のポストモダンの小説に多く見られました。ポール・オースターの『GOST(幽霊)』が端的な例でしょう。探偵の主人公は「誰か」を探していますが、その誰かが不在(幽霊)だというお話。(ただ、その後の彼は穴を丹念に埋める作業を続け、『ムーンパレス』などの作品に結実します。)

「虚無」や「喪失」をテーマにした作品が出て来た背景には、現代小説が描くべき題材を失った事と無関係では有りません。近代以降、小説というジャンルは人間の内面に迫るべく急速に進化しました。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』やマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』などを生み出しますが、これらの作品は大衆性とは対極に存在し、私も何度も読もうとして座性しました。

この様に人間の内面をひたすら追求した作品の対極として、社会との結びつきを強めた作品も存在します。ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』や、ウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』などが思い浮かびます。フォークナは「意識の流れ」の手法を身に着けているので、中間的存在かも知れません。

これら真剣な探究心の文学と同時に、ロストジェネレーションやビートジェネレーションといった破壊的な作家達も現れます。前者はヘミング・ウェイ、フィッツジェラルド、ヘンリー・ミラーらが代表的です。

ビート・ジェネレーション(ビートにクス)の代表作家はウィリアム・バローズやジャック・ケルアック、そして詩人のアレン・ギーンゼバーグらです。彼らは若者達に絶大な人気を得ますが、ケルアックの『路上』なんて「ヒッピーがヒッチハイクしてアメリカを彷徨ってクソして寝る」みたいな作品ですから・・・。

村上春樹が属すると思われる80年代以降のポストモダンの作家は、ビートニクスの狂乱の後に登場します。日本では全共闘を経験した世代です。政治的にも文化的にも熱かった60年代、70年代が終り、「微熱的」な時代の到来が生み出した作家達です。

実は彼らの世代の抱えた大きな問題は「書くべきテーマが無い」事でした。アメリカのヒッピーにしろ日本の全共闘にせよ、若者の政治参加が不毛である事に気付いた「虚無感」に支配されていたのです。さらには生活が豊かになり、価値観が多様化する中で、「描くべき物語」は見えなくなって行きます。

前出のポール・オースターは全く書けなくなり、「目の前に置いた水の入ったコップをどう表現するのか」から再びスタートしたと語っています。確か高橋源一郎も同様の事を言っていた様に記憶しています。

その様な時代性にマッチしたのが村上春樹だったのだと私は考えています。彼は「かつて存在した物の残した微熱」を上手に表現する作家です。「自分は大事な何かを失っているけれど、それが何か思い出せない」といったテーマをスマートに表現して見せます。要はオシャレなのです。

同時代、アメリカで最も支持されていた作家はジョン・アービングでしょう。『ホテル・ニューハンプシャー』や『ガープの世界』が有名ですが私はデビュー作の『熊を放つ』が好きです。彼のテーマも喪失ですが、メランコリックで大衆には分かり易く、これが支持された要因かと思われます。ちょっと俗っぽい。

この様に現代文学は、人間の内面を描きながらも時代の流れと無関係では居られません。そして、その作家を真に理解する為には、その作家と同時代の空気を共有していなければなりません。

「村上春樹って、そんなに凄いの?」と私が感じてしまうのは、私が彼と同時代の空気を共有していない事に原因が有るのかも知れません。

ましてや、アメリカ人の若者が村上春樹を理解するには相当ハードルが高い。ただ、日本の作家で欧米で一番有名なのは彼で、翻訳されていて評価も確定している・・・。だから、日本文学を語る時に「村上春樹が好きです」と言っておけば間違いが無い。これが逆輸入された形で「私、村上春着のファンです」という日本人が増殖しています。村上春樹の凄い所は、こういうファンを離さない様に「オシャレ」であり続ける事でしょうか・・・。

個人的には小川洋子の方が凄い作家だと思うのですが・・・。

ゆっくり読みたい・・・「猫を抱いて象と泳ぐ」

さらに三崎亜記とか、三崎亜紀・・・役所言葉のリリシズム

『ミサキラヂオ』の瀬川 深といった作家の方が好きなのですが・・。「ミサキラヂオ」・・・終わらない物語



■ SF小説のインフレーションとしてのアニメとラノベ ■

くどくどと現代小説について知った様な事を書いて来ましたが、実は最近はほとんど読んでいません。・・・と言うよりラノベしか読んでいない自分に驚愕します・・・。

何故私はラノベばかり読む様になってしまったのか・・・・。それはラノベがアイデアの宝庫だからです。

かつて面白い小説は『SF小説』というジャンルに沢山存在しました。アシモフ、ハイライン、デュプトリーJr、ルグイン、ディック、バラード・・・名前を思い浮かべただけで顔に恍惚の表情が浮かんでしまいます。

現代小説が「自分って何?」なんて狭量なテーマを捏ねくりまわしている間に、SF小説は「宇宙と生命と知性の深遠」を探求し続けて来ました。SF小説は元々「コト」を描くジャンルだったので、「僕って何?」という袋小路に陥る事が無かったのです。そして、科学の数々の発見や新理論が、新たなSF的アイディアを拡張し続けたので進歩の足を止める事が無かったのでしょう。

尤も、SF小説が大衆に人気があったのも70年代までだったお様に思われます。70年代の「ニューウェーブ」と呼ばれる作家達はビートニクスの影響を大きく受けて、精神世界への興味を深めて行きます。フィリップ・K・ディックが代表でしょう。(私はバラードの方が好きですが)

80年代に入るとSF小説は売れなくなります。何故か・・・。それは難しくなり過ぎたのです。科学や物理学の進歩によってSF小説の扱うテーマも複雑化します。グレッグ・ベアーの諸作品などはとても面白いのですが、理系の若者でも理解が難しい内容になってしまいました。(単に理系の若者の能力が低下しただけとも言えますが・・)

SF小説が売れなくなる一方で、実は世間はSF的な物で溢れ返ります。『スターウォーズ』の成功がカギとなるのですが、ルーカスやスピルバーグの諸作、映画化されたディックの作品(ブレードランナー)など、小説とういジャンルから映像に変換されたSFは、瞬く間にインフレーションを起こします。

日本では『宇宙戦艦ヤマト』が切っ掛けとあんり『機動戦士ガンダム』という金字塔に至ります。

この影響はライトノベルにも反映されます。私の少年時代のライトノベルと言えば朝日ソノラマですが、これは子供向けのSFの宝庫でした。代表的な作家は高千穂遥だったと思います。『クラッシャージョー』シリーズや『ダーティーペアー』シリーズは、ガンダムの作画担当だった安彦良和の挿絵もあって大人気でした。これらは後にアニメ化しています。

もう一方の人気作品は『バンパイアハンターD』で決まりでは無いでしょうか。菊池秀行は奇譚小説の名手で大人向けのエログロな作品が多いのですが、子供向け作品にもその片鱗が見られ、なんともダークで怪しい世界にゾクゾクした事を覚えています。こちらの挿絵はガッチャマンで有名になったて天野喜孝で、彼は今では世界的なアーティストの一人です。

バンパイアというテーマはSF小説の源流となった「ゴシック小説」の一ジャンルで、実はSF小説の亜流と思われがちなファンタジーというジャンルはSF小説の保守本流です。剣がビームサーベルに、魔法が科学に、馬や甲冑がロボットになったのが、現代のSFだとも言えます。

■ アイデアと才能の宝庫としてのラノベ ■

朝日ソノラマの時代は、大人の書き手が子供の為に面白い話を書いていまいした。これは一種の「児童文学」みたいなものでした。

一方、時代を経て「ライトノベル」という呼び方をされる様になると、書き手の年齢がどんどん読者と同じになって行きます。これは一種の「同人化」で、文章もどんどん稚拙になって行きます。

これをして、「ライトノベル=小説以下」と決めつける人が多いのですが、本来なら作家デビュー出来ない「原石」を発掘する効果は絶大です。そうした中から、桜庭一樹や有川浩が見出されて来ました。SF小説のジャンルからは冲方丁が掘り出されました。

■ 日本文学の正当な継承者としての『化物語』 ■

さて、ようやく話が『化物語』に到達しました。

西尾維新という作家は曲者です。年齢的にはライトノベルの作家達よりも上なのですが、彼は敢えてライトノベルというジャンルを好んでいる様です。それは、「遊びが許容される」という自由度が確保されている事が大きいかと・・・。

大衆文学における『遊び』は重要な要素で『枕草子』や『源氏物語』は今で言う所の少女マンガみたいな物でしょう。貴族達は「勉強」としてでは無く「娯楽」としてこれらの作品を楽しんでいたはずです。『〜草紙』などという作品は概ね娯楽作品です。

江戸時代に入ると大衆文化は多岐に渡る様になります。井原西鶴などは現代で言えば「戯曲家」でしょう。人形浄瑠璃自体が当時の娯楽で、西鶴は現代で言う所のトレンディードラマの売れっ子脚本家と言った所でしょうか。

ライトノベルの原点としては『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴が筆頭に上がります。八犬伝は「読本」と呼ばれるジャンルでしたが、馬琴は「黄表紙」というより通俗的な貸本も多く書いていた様です。「黄表紙」などまさに現代のライトノベルやハーレクインロマンスと言った所では無いでしょうか。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』も当時としては「ギャグ」として楽しまれたいました。ほとんどマンガと同じ扱いです。

夏目漱石の『坊ちゃん』や『吾輩は猫である』なんてモロにラノベですし・・・。

この様に現代では「文学」とされてしまっている作品の多くは、当時は「大衆の娯楽」として書かれています。ライトノベルは「言葉と文字を使って人を喜ばせ、自分も遊ぶ」という大衆文学の原点に非常に忠実なジャンルであると言えます。そして、その最右翼の作家が西尾維新です。

■ 主役は変化し続ける言葉 ■

西尾維新の作品の特徴は「内容が無い」事でしょう。まさに「ポップアート」の文字版です。

消費されて消える事を前提に書かれた小説とも言えます。その点で赤川次郎などとも共通する点が有りますが、その才能には天と地との差が有ります。赤川次郎の諸作(実は一冊も読んだ事が有りませんが)は、お手軽に推理小説を提供して人々を楽しませる事(ひいては売れる事)に目的が置かれていますが、西尾維新の作品の目的は「自分自身の為の言葉遊び」です。

そしてその言葉遊びは「高度」です。だらだらとした会話を垂れ流す登場人物達の「言葉」は変幻に変化しながら、カラフルで複雑な模様を紡いで行きます。最早、彼の作品においてストーリーやプロットは従属的で、主役は「変幻に変化する言葉」そのものなのです。

このダラダラとした感じは、実は現代文学の「意識の流れ」の手法に近いのでは無いか?彼がそれを意識しているとは思えませんが、読者の脳をトリップさせる効果は似ています。

■ 先ずはアニメから入るべきだ ■

いろいろ書いた所で、ライトノベルを大人に理解させる事は至難の業です。

そこで手っ取り早いのが、「アニメを観る」事です。

西尾維新の『化物語』は、現代を代表するアニメ作品になっていますから、先ずこちらを鑑賞して原作を読まれると、作品世界に入り易いかも知れません。そもそも、ライトノベルとアニメは不可分の存在なので、両方を鑑賞して完結するのかも知れません。


とまあ、長々と書いてしまいましたが、最後は「好きか嫌いか」という問題に成ります。私の家内などは「オタク的」なアニメは全く受け入れませんが、少女マンガ原作のアニメは私の後ろでチラミして、時々プーー!!なんて笑っています。

「面白い」と感じる事にはジェンダーの差も大きいので、「少年向け」に作られた作品は女性にはツマラナク感じるのかも知れません。大きなオッパイも、時折見えるパンツにも女性はドキドキしませんから・・。


さて、件の留学生君、せっかく日本に来たのだから日本のアニメとラノベと是非堪能して日本文化をアメリカに伝えて欲しい。そんな彼にお勧めなのは・・・当ブログのアニメと本の欄を是非お勧め下さい。

そして、大人の皆さんには今季放送されている『昭和元禄落語心中』と『僕だけが居ない街』というアニメをご覧になって頂きたい。アニメやマンガというジャンルが、ドラマや映画というジャンルに全く引けを取らない事が良く分かるかと思います。


本日は異文化交流のお話でした。
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2015/5/26

たかがラノベ、されどラノベ・・・作者が成長する文学 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』  
 

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本日はネタバレ御免!!でお送りします。


■ 全ての先入観を捨ててこのシーンを見て欲しい ■

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普段アニメなど見ない方も、全て先入観を捨てて、現在放映されている『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている 続』の第六話を見て欲しい。

2つの高校が合同で地域のクリスマスイベントを企画する会議のシーンです。主導権を握る高校の生徒会長が会議の進行をしています。

「ロジカルシンキングで論理的に考えるべきだよ」 (会長)

・・それ同じ事言ってんじゃねえ、何回考えちゃうんだよ (主人公、心の中で突っ込む)

「お客様目線でカスタマーサイドに立つっていうかさ」 (会長)

・・だからそれ同じこと言ってんじゃないのか。何回客になってんだよ(主人公)


「意識が高い」相手校の生徒会長を始め役員は、覚えたてのブレーストーミングを実行すべく、これまた付け焼刃の横文字英語を連発して会議を進行します。しかし、その中身たるやカラッポ。社会人ならば、「あるある、こういう会議ある!!」と抱腹絶倒する事間違い無いシーンです。

責任の所在を明確にしない会議は何も決まらず、時間だけを浪費してゆきます。・・・あるある・・こういう会議。

私達が日々会社などで繰り広げる会議も、すこし引いた視点から、皮肉たっぷりに眺めると、こんなにも滑稽なやり取りがくりひろげられているのでしょう。

覚えたての経営用語や経済用語を使いたがる「意識高い系」の相手校の生徒会を「中二病と同じ」だと断じる主人公は、自らを「自意識高い系」と評し、高二病の一種だと心の中で説明します。

高校生が患う「自意識高い系」の物語が本日紹介するライトノベル作品、『やはり俺の青春ラブコメはまちがている』です。累計で400万部を超える大ヒット作品ですが、スーパーネガティブな高校2年生男子を主人公にした学園コメディーです。


■ 作者の成長を楽しむ文学 ■

ライトノベルは青少年向けのエンタテーメント小説です。私は文字が書かれたマンガ、或いはアニメのシナリオの一種だと捕えています。

1) キャラクターを中心に物語が展開する「キャラクター小説」
2) 一人称で書かれる事が多い
3) セリフやモノローグで状況や主人公の思考が丁寧に説明されて分かり易い
4) アニメ化を前提に書かれている作品が多い
5) 表紙や挿絵にアニメキャラ的はイラストをあしらっている
6) 登場人物が類型化されている(テンプレキャラ)
7) 作者が若い

ライトノベルを「小説」や「文学」に分類する事に抵抗する方も多いかと思います。しかし、最近書店に並んでいるベストセラー小説の多くが「キャラクター小説」という意味においてはライトノベルの影響を受けているとも言えます。

ライトノベルの原点は、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズまで遡れるかと思いますが、私は「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」も十分にライトノベルの資質を備えた作品だと思っています。

ただ、ライトノベルの特徴として「作者が若い」ということは重要かと思われます。大作家が大衆向けや子供向けに書いた作品では無く、読者と同世代の作者が自分のニーズを満たすべく書いた小説という意味において、日本のライトノベルは世界でも特筆されるべきジャンルかも知れません。

書き手と読み手の年齢が近い事から、「同人」的な閉じたサークルの中で作品が生産され消費される傾向にあることが、このジャンルから大人を遠ざけている原因ともなっています。一方で、大人の読者を想定しない事で、最新の若者の言葉遣いや、思考パターンがストレートに反映されており、今時の若者達を知る上で重要なサンプルです。

そして、このジャンルの面白い所は、「作者が急激に成長する」点にあります。 直木賞作家の桜庭一樹や、ベストセラ作家の有川浩がライトノベル出身である事は有名ですが、デビュー当時から個性が際立った作家でした。編集者もその才能を見抜いており、作品をlライトノベルの文庫版では無く単行本として発売するなど、ライトノベルというジャンルにカテゴライズされる事を巧妙に避け、彼女達をベストセラー作家として育て上げました。

上記の作家以外にも西尾維新奈須きのこなど個性的な書き手が多いのこジャンルですが、逆に汎個性な作家がほとんどであり、毎年多くの若者がデビューしては、数年で消えて行きます。

ただ、このジャンルの面白いのは、一見「汎個性的」と思われる作品の中から、かつての眉村卓や筒井康孝、新井素子の匂いを感じさせる作品がチラチラと生まれて来る所です。近年では『ココロコネクト』や、本日紹介する『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』は、古き良き若者向け文学の伝統を継承する作品とも言えます。

■ 自ら周囲から孤立する二人が出会う時 ■

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』は千葉県の海浜部にある高校の日常を描く作品です。主人公の比企谷 八幡(ひきがや はちまん)は頭は良いが超ネガティブ人間です。小学校の頃から浮いた存在で、高校二年の現在はクラスでは空気の様な存在。本人はステルス性能と称していますが、常に一人で行動し、体育で二人組になる時を一番嫌う様な人間です。

一方で彼は人間を良く観察しています。クラスの人間関係を緻密に分析し、それにネガティブフィルターを掛けて楽しむ様な性格人物です。

そんな彼の行く末を心配して担任教師が連れて来たのが奉仕部の部室。奉仕部とは他人に奉仕する部活で、実際には生徒の問題を解決する手助けをする部だと説明されます。

部室には黒髪の少女が一人本を読んでいます。学校でも秀才で有名なその美少女、雪ノ下 雪乃(ゆきのした ゆきの)は高圧的で比企谷を全く寄せ付けません。

「この部っていったい何をする部なんだ?」
「今私がこうしている事が部活動よ。」
「降参だ、さっぱり分からん」
「比企谷君、女の子と話したのは何年ぶり?」
「・・・」(中学時代の痛い思いでの回想)
「持つ者が、持たざる者に慈悲の心を持ってこれを与える、人はこれをボランティアと呼ぶの。困っている人に救いの手を差し伸べる、それがこの部の活動よ。ようこそ奉仕部へ。歓迎するわ。頼まれた以上責任を持つわ。あたなの問題を矯正してあげる。」


彼女の言動は一見高慢に見えますが、それは彼女が周囲から疎外された結果だという事に比企谷は気づきます。「優れた者故に世の中はそれを排除しようとする。そんな世の中ならばいっそ世の中の方を変えてしまえば良い」彼女のこんな発言に、比企谷は自分と同質の物を見つけます。


「・・・なあ雪ノ下、なんなら俺が・・友達に・・」そう言いかけた比企谷の言葉を雪の下は「ゴメンナサイ、それは無理!!」と一瞬で拒絶します。


その時、部室のドアがノックされ、一人の少女が遠慮がちに部室に入って来ます。彼女の名は由比ヶ浜 結衣(ゆいがはま ゆい)。比企谷のクラスメイトです。彼女は手作りクッキーが上手く焼けないとの相談を奉仕部に持ち込みます。

彼女の悩みを解決すべく、調理室でクッキーの焼き方を由比ヶ浜に教える雪ノ下ですが、その教え方は極めて厳しい・・・。言葉も相当にキツイ。そんな雪ノ下を由比ヶ浜はキラキラした目で見つめ「カッコいい」と言いだします。八方美人で他人の目を気にして学校生活を送る由比ヶ浜にとって、歯に衣着せぬ言葉でやり取りしている雪ノ下と比企谷の関係は、とても羨ましく見えたのです。

こうして奉仕部に新たな部員が加わり、この3人を中心に物語は周りはじめます。

■ 普通の学校生活をスリリングなエンタテーメントに昇華する ■

奉仕部に持ち込まれる問題は些細な事です。「自作のライトノベルを読んでくれ」だとか、「昼休みのテニスの自主練に付き合ってくれ」だとかそんな事ばかりです。しかし、性格が5回転位いひねくれた比企谷は、イヤイヤながらも意外にも真摯に問題解決に取り組みます。問題の本質を冷静に見極め、論理的に打開策を導き、さらには消極的ながら解決に対して努力します。

物語の前半は、問題解決の過程で比企谷と問題を持ち込んで来た人間の間に「関係」が生まれる事がコミカルに描かれます。比企谷は新しく生まれた関係を「友情」とは捕えていませんが、相手は比企谷に信頼を寄せ、彼を友人として慕う様になります。

そんな他愛の無い展開が続きましが、物語の進行にしたがってだんだんとシリアスなムードが漂い出します。比企谷の問題解決の手段は徹底的に合理的です。しかし、その方法は「普通」ではありません。「人間関係の機微」をあえて無視する事で最大の効果を上げるのです。そして、往々にして比企谷の自己犠牲によってそれが達成されます。

前半のハイライトは文化祭です。無能な実行委員長の下で副委員長の雪ノ下が仕事を抱え込む事になります。委員長は他人に仕事を押し付けておいて「実行委員も文化祭を楽しまないといけないと思う」と言いだす始末で、委員会の空気はシラケ気味です。

そんな空気を一変させたのが比企谷です。文化祭のスローガン決めの会議で彼は「人」という字を提案する。「人と言う字は一見お互いが支え合っている様に見えるが、実は一方が一方の寄りかかっている。この委員会にぴったりだ・・・」と言いだします。会議の空気は一瞬で固まります。そして、誰もが比企谷を敵意のこもった目で見つめます。

「分かり易い敵役」にあえて成る事で、彼は他の委員の結束を生もうしたのです。終始こんな調子で、仕事が円滑に進む様に彼は適役を演じ続けます。

学園コメディーだとばかり思っていた作品は、だんだんと変貌してゆきます。どこの高校にもある様々な人間関係の軋轢ですが、現実の高校生達は悩みながらそ何となくをれをやり過ごしています。問題を棚上げしたり、友人と距離を取ったり、時には友人を変える事で問題を解決しています。

ところが、をれは問題の解決では無く保留である事に比企谷は自覚的です。彼の冷静な観察を通して、私達は現実社会の人間関係の欺瞞を改めて突き付けられるのです。これはなかななスリリングです。殺人事件など無くても、普通の学校生活、普通の人間関係を観察するだけで、こんなにも面白いエンタテーメントが成立するのかと驚くばかりです。

■ 頭でっかちな高校生が必ず通る道 ■

私は高校時代ひねくれていたので、比企谷の姿は当時の自分にそっくりで、この作品を冷静に見る事を出来ません。もう、黒歴史をホジクリ出される様で、身もだえして見てしまいます。

私に限らず、この作品を支持する多くの若者達が比企谷に或いは雪の下にシンパシーを感じているのでは無いかと思います。普段は表面的にやり過ごしている人間関係ですが、その裏に様々な感情を押し込めて高校生も生活しています。

「人と上手くコミュニケーションが取れない」というのは、自我の確立期には誰もが通る道です。自我の成長の過程で、自我と周囲とのバランスが崩れるのです。特に運動部にも属さない文系人間は集団の中で自分を抑制する訓練がされていないので、自我は肥大化しがちです。

自我が肥大化した若者は、その自我の危機に何度も遭遇します。自尊心を保つ為には、自分が周囲より優れた存在であると自分に証明する必要が生じるのです。しかし、現実にはそれは不可能なので彼らは発想の転換で自我を保とうとします。

「自分が劣っているのでは無い、世界が悪いのだ」と。

この物語の主人公の比企谷と雪ノ下は頭脳は明晰ですが、コミュニケーションの能力が著しく欠けています。それ故に、彼らは世界や友人を拒絶する事で、自分の優位性や自尊心を維持しています。頭の良い彼らはそれが間違いである事も理解していますが、それを素直に受け入れて周囲に同化する器用さを持ち合わせていません。

■ 「本当」の関係とは何かを真摯に問う物語 ■

アニメの第二期は、第一期とは演出がだいぶ異なります。学園コメディー的な軽やかさは後退し、演出はリアルになっています。

仲良しグループの男子が修学旅行でグループ内の女子に告白したいと奉仕部に相談に来ます。一方、他のメンバーはそれを阻止したいと匂わせてきます。

リーダーの葉山は比企谷に「今のままの関係を保ちたいんだ」と打ち明けます。比企谷には表面的で薄っぺらな友情ごっこにしか見えない関係に葉山や他のメンバーが拘る理由が分かりません。そんな薄っぺらな関係のどこに守るべき意味があるのか・・・。

比企谷はまたもや自己犠牲によって問題をクリアーしますが、彼一人に汚れ役を押し付けてしまった事で雪ノ下と由比ヶ浜は自責を感じます。それが3人の関係をギクシャクさせます。

そんな折、奉仕部に持ち込まれた以来を巡って3人の関係は決定的に悪化します。本音で付き合っていたと思っていた3人は、実はお互いの事を何も分かっていなかった事に気づいてしまうのです。

そんな彼を見かねて担任がアドバイスをします。「考えて考えて、答がNOだたらさらに考えて、何も見つからなければ、それこそが答えだ。」「論理的に考えて分からない事こそが人間の気持ちだ」

一晩考えあぐねた比企谷は、翌日部室に向かいます。そして振り絞る様に「俺は本物が欲しいんだ」と口にします・・・。それを聞いた雪ノ下は「私には分からないわ・・・」と言うと部室を飛び出して行きます。

「孤独をあえて受け入れる」事で個人としての尊厳を守っている「同士」と思っていた比企谷が、「友達になりたい」という普通の感情を抱いている事にショックを受けたのです。その感情は彼女の中にも芽生えていたかもしれません。しかし、彼女をそれを認める事を敗北だとい感じている・・・・。

雪ノ下を救うのは由比ヶ浜です。感覚的にしか物事を判断出来ない彼女にとって、「本当の友達になる」事は至極当たり前で素晴らしい事に思えたのです。比企谷が言う所の「本当」とは何かは全く理解できませんが、彼女は直感的にそれが悪い事では無いと悟ります。由比ヶ浜は泣きながら雪ノ下に抱き着きます.

「由比ヶ浜さん、あなたずるいわ・・・」そ言うと雪ノ下も陥落します。感情を論理的にしか理解できない彼女にとって、感情をストレートにぶつけて抱き着いて来る由比ヶ浜はアイテデンティティーを揺さぶる存在であり、そして感じる温かさは論理では導き出せない真実を伝えているのです。

人と人の本当の関係は「論理」では導き出せない・・・きっとこの助言を与えた担任は、彼女自身が若い時に雪ノ下や比企谷と同じ経験をしたのでしょう。だからこそ、論理の鎧で心を守らなければならない二人の純真さを理解し見守ります。教師は比企谷に「お前は教師に向いている」と冗談ながらに言います。これは彼女の本心でしょう。きっと比企谷に自分の過去を重ねているのです。

■ 完成された作家には書けない物語 ■

作者は大学4年生の時にこの作品で賞に応募したそうです。元々は小説など書いていなかったそですが、就職がなかなか決まらず、作家という肩書があれば就職浪人と呼ばれないい・・・そう思って書き上げた作品です。当然、続巻が刊行されるとは夢にも思わず、累計で400万部の大ベストセラーになるなど、誰もが予想出来なかったでしょう。

作者はその後就職し、現在も会社員を続けながらこの作品を書いています。この作品を書き始めた当時は比企谷に感情移入をして書いてい作者ですが、社会に出て成長した今は、担任教師に感情移入しがちだとインタビューで語っています。作者が社会に出て成長する過程が、作品にも色濃く反映されています。

成長に伴って、物語のテーマも「本当の関係とは」という重たいものに変化しています。表層的な友情をバカにしていた比企谷ですが、自分が求めているものと表層的な友情との間にさして差が無い事にも気づいてゆきます。ここら辺がこの作品の優れた所で、ラノベや漫画の多くが「本当の友情」を至上のものと持ち上げる傾向があるななかで、本元とは何かをひたすら追求し続けます。

「普通の関係」こそが「本当の関係」である事・・・そんな事をテーマにしながらも、しっかりエンタテーメントしているこの作品は、他のラノベ作品とは一味も二味も違う奥深さを持っています。

■ 聖地巡礼に行ってみた ■


実は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』のモデルになっている高校は、千葉市の海浜部にある千葉市立稲毛高校です。

2年前、娘のバスケの県大会の応援にこの学校を訪れた時、中庭で強烈なデジャブに襲われました。「この校舎、見たことある・・・」

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だいたい作品の心当りはあったので見直してみると、2話目でチラッとこの丸い校舎が出てきます。

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第二期の7話目は担任教師が比企谷にアドバイスを与える名シーンが描かれますが、ここの舞台は千葉ロッテ・マリンズのスタジアム近くの「美浜大橋」。これは聖地巡礼に行くっしかありません。自転車で鴨川に行く前にサクサクと巡礼します。

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夜のシーンでアングルも少し違いますが・・・夕方は夕日を見る人で賑わうポイントです。


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手すりの落書きもこの通り・・・。


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橋の下から見た所。


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校門もほぼ同じですね。

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最寄駅の稲毛海岸駅。ここも良く登場しましう。二期オープニングの電飾された植え込みの背景は駅前にあります。


ちなみに千葉都市モノレールがタイアップしています。

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http://yusaani.com/event/2015/05/02/119392/ 写真を拝借しました。

ここまでやれば立派です。乗るのが恥ずかしい方もいらっしゃるでしょうが・・・。千葉都市モノレールは『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』のラッピング車両も走らせていました。

千葉市はアニメのロケに協力的みたいで、アニメによる地域振興では成功例に入るでしょう。



本日は、私が大好きな超ネガティブ主人公比企谷が登場するラノベとアニメのお話でした。お子様との話題のネタになれば・・・・「やだ、お父さん、キモ!!」と言われるのが落ちでしょうが・・・。

ちなみに、私は聖地巡礼の写真を娘と息子の携帯に写メしちゃいました。食い付き良かったですよ!!



<追記>

アニメ第一期は低予算でした。それを逆手に取った様な割切ったカラリとして演出が、キャラクターの魅力を引き出す結果となり、この作品をベストセラーに押し上げたとも言えます。

一方、原作もコメディー色が薄らぎ、真剣に主人公達の心の成長を描く第二期は、製作がBONSに変わり、製作会社がブレインズベースからfeelに変わり、スタッフも大幅に入れ替わっています。内容もシリアスでリアルな表現にシフトしています。(これは賛否両論で、私は第一期の吉村愛監督の功績は多大だと思っています。)

アニメ的な演出が魅力だった一期とは反対に二期は実写的で丁寧な演出がされています。特に生徒会長の一色いろはがコンビニ袋を比企谷に手渡す交差点でのシーンなどは、引いたショットで会話も聞こえませんが、そのやり取りを視聴者が十分の想像できる名シーンでは無いでしょうか。

こういう表現はアニメばかり見ているスタッフでは作れません。優れた実写映画を見ているからこそ作り得るシーンだとも言えます。


原作でもそうですが、二期で一番魅力を発しているのは1年生の生徒会長の一色いろはです。打算的で自分が他人のどう見えるかを常に計算している様な女子ですが、比企谷には素直な所を見せます。

ただ、素直な様でいて、素直じゃない。学園のヒーローの葉山に熱烈アタックしていますが、その狙いは比企谷の注意を引く事・・・本人も自覚していないのでしょうが、雪ノ下と由比ヶ浜は女の勘で、うっすらと危機感を抱いている様です。(私の妄想かも知れませんが)


雪ノ下の姉の存在も含め、謎が多く残されており、10巻まで発売されている原作の続巻が気になって仕方がありあません。
10

2014/8/20

夏休みの読書感想文が終わらない君へ・・・『きりこについて』  
 

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■ 憂鬱な季節がやって来た ■

青空に沸き立つ入道雲。むせ返る様な熱気とは裏腹に、この時期多くの中学生・高校生の皆さんが憂鬱の虫に取りつかれています。その原因は「夏休みの読書感想文」。

ネットの記事を「コピペ」するのが今風なのでしょうが、夏目漱石の『友情』や太宰修の『走れメロス』の感想を「コピペ」したら、クラスメイトと完全一致してしまう危険性は高い。

そこで、誰も選ばない様な本の感想を「コピペ」した方が安全だ。たとえ、先生の眉間に深いシワが刻まれたとしても・・・。

そこで、今年もやっちゃいます。「夏休みの読書感想文が終わらない君へ」シリーズ第四弾。

今回は『円卓』が映画化されて、今とても旬な作家の西加奈子さんを取り上げてみます。

■ 本屋に居るとトイレに行きたくなる ■

夏休みの読書感想文で悩む君たちは、本屋に溢れ返る本の山を前にして途方に暮れるでしょう。薄くて簡単に読める本が良い。面白い本ならよりベターだ・・・そう思いながら書棚の間を徘徊したり、平積みの本を手に取ってペラペラやってみるが、日頃、本なんて読まない君は文字がぎっちりと詰まったページを見て、速攻で本を棚に戻すだろう。

そのうちに君は尿意を催すかもしれない・・・。ものの本によると本やで尿意や便意を覚える人は意外に多いそうだ。実はこの現象『青木まりこ現象』という立派な名前が付いている。興味がある人はwikipedia 青木まり現象を参照して欲しい。

かくゆう私も、本屋に行くと尿意を覚える。知り合いは便意だと主張している。

■ 「きりこはぶすである」という衝撃的な出だしで始まる『きりこについて』 ■

尿意、あるいは便意に耐えて、西加奈子の『きりこについて』を探して欲しい。人気作家だから直ぐに見つかるはずだ。そして、1ページ目の冒頭を読んで欲しい。

「きりこはぶすである。」という衝撃的な文章で始まっている。かつて夏目漱石が「吾輩は猫である」と書き出した時も、当時としては衝撃的であっただろうが、現代においても「きりこはぶすである。」という書き出しは充分インパクトが強い。

そこで、尿意、あるいは便意に耐えてこの本を持ってレジに並んで欲しい。なぜならば、この本は君が夏休みに読んで損の無い本だからだ。

■ 「ぶす」を知る事は自分を知る事か? ■

きりこについて語るのは猫のラムセスU世でです。ラムセスU世はきりこに拾われてた黒猫ですが、賢い猫でです。いや、猫という存在が、そもそも人よりも賢いのである。その、賢者のラムセスU世はきりこを崇拝しています。

きりこは「ぶす」です。それなのに幼い頃よりフリフリの洋服を好んで着ている。何故ならば、きりこは自分を「ぶす」だと思った事が無いからです。父も母もきりこをとても大切に育てています。愛情に恵まれたきりこは、自分が「ぶす」だとは夢にも思っていなかったのです。

そんなきりこも、様々な出来事や、周囲の空気から、段々と自分がぶすである事を知ります。きりこは十数年かけて自分がぶすである事を知り、さらに数年かけてそれを理解します。「自分はぶすである」という表層的な認識と、「自分はぶすである」という存在の本質の整合を取るのに彼女は数年を要し、その間、高校にも通わずに家に引きこもります。

彼女が「自分はぶすである」という存在的本質を理解し、そしてそれを受け入れた時から、彼女の人生の歯車が力強く回り始めます。

■ ありのままの自分を理解する事 ■

「ぶす」という自分の存在の本質を理解したきりこは、周囲の人達に影響を与え始めます。

人は表層で判断されます。セックスが好きな近所の年上のお姉さんの「ちせちゃん」は周囲には淫乱の烙印を貼られます。彼女は自分の本質が「セックスが好き」である事を知っていますが、それを理解してはいません。彼女は自分の本質を世間の目を通して見ているからです。そんな近所の年上のお姉さんの為にきりこはAVのプロダクションを立ち上げます。

「セックスが好き」ならば、気持ち良いセックスをとことん追求すれば良いときりこは思ったからです。但し、セックスは強要されるものでは無い事を主張します。ちせちゅんのAV作品は大ヒットを連発します。

こうしてきりこの会社は彼女の周囲の、世間に理解されない人達に、自分を解放する場所を与えて行き、そして成功を収めて行きます。

■ 自分を理解する事と、それを受け入れる事は違う ■

荒唐無稽で不思議な作品ですが、この作品のテーマは非常に興味深いものがあります。

誰でも自分を知ろうと努力します。自分の性格を知り、長所を伸ばし、短所を克服しようと試みます。これは良い事とされています。

一方で、多くの人達がこの試みに挫折します。自分はそう簡単には変える事が出来ないからです。その結果、「オレってこんな人間なんだよな」と中途半端に自分を理解し、可能性の限界を自分で引いてしまいます。

ところが、きりこの「ぶす」は、ちょっとやそっとの自己欺瞞で解決できるレベルではありません。彼女は元々、リーダーシップの取れる性格でしたが、自分が「ぶす」である事によって彼女のオーラは喪失します。普通なら「気づき」で終わってしまい、ひきこもり続けるか、あるいは地味で暗い性格になって行きます。

きりこの凄い所は、「自分がぶすである」という表層の認識を、「ぶすが自分の本質である」という存在の根源まで突き詰めた事です。「ぶす」がきりこの本質であるならば、「ぶす」は外界からの表層的評価を失い、「ぶす」こそがきりごのアイデンティティーになって行きます。要は「きりこ=ぶす」という根源的合一によって、「ぶす」の客観性が消滅するのです。

「自分のありのままを受け入れる」という生易しい言葉では無く、真理に到達するレベルで「ぶす」と合一したきりこは無敵の存在です。そして、彼女の影響は周囲の人にまで及びます。

■ ニーチェの「超人」は、「ジョナサン」になり、そして「きりこ」になった ■

ニーチェの実存主義が生み出した「超人」は、アメリカのカウンタカルチャーにおいてリチャード・バックの『かもめのジョナサン』に姿を変えます。ひたすらスピードを追い求めたジョナサンは、食べる為に飛ぶのでは無く、早く飛ぶ事こそが自分の本質だと信じて疑いません。「かもめは飛ぶもの」という表層と自己の合一を試みているのです。リチャード・バックはニーチェの「超人」を「超カモメ」に置き換えて見せたのです。(大変安っぽくなっていますが・・・)

一方、西加奈子は「超ぶす」というきりこを描く事で、ニーチェの「超人」を一介の女子のレベルまで引きずり下ろします。もはや、「超人」は空からも隔てられ、夜の公園を猫と徘徊するレベルまで凋落します。

マンガやアニメの中でルフィーや悟空の様な「超人」が活躍する日本文化ですが、とうとう「ぶす」が最強の属性になった作品まで現れたという意味において、ニーチェ的な「超人」のインフレーションは日本文化においては留まる所を知りません。そして、その最たる物が涼宮ハルヒの存在えす。彼女こそが世界であり、宇宙なのですから。

■ 強靭な思考の産物である「超人」がアメリカや日本でインフレーションする訳 ■

ヨーロッパ哲学の本流は形至上学ですが、アリストテレスやデカルトは神の存在の証明として哲学を利用しました。世の中には神の真理が存在し、それに則って作られた現実の世界の体系を理解する事は、神の世界の体系を理解するものだと考えたのです。

科学が「フィロソフィー=哲学」と呼ばれるのは、神の存在を証明するという目的がギリシャにおいては共通していたからです。

一方で科学の急激な進歩は近代において神の存在を揺らがせる事になります。自然は神の作りし物では無く、宇宙の真理に則って形作られている事が判明して来たからです。そこで、哲学は神に変わるものを模索し始めます。

西洋において人間の存在は「神の写身」として安定していましたが、神の存在が揺らげば、人間の存在すらも揺らいでしまいます。

そこで登場したのがニーチェを始めとする「実存主義」です。存在の主体を神から人間い移す事で、人間の存在理由を補強しようとしたのです。その過程で「神は死んだ」とされ、神に変わるものとして「超人」が提示されます。

ニーチェは人間としての自分の弱さを克服しうる、強さ、高貴さを持った人間を、「超人」と呼びました。

形至上学的な神に対抗する存在であった「超人」ですが、近代化の進行と共に神の存在意義が薄れれば、超人の存在意義も薄れてしまいます。「超人など仮定しなくとも、人は普通に人でいいんじゃね?」的な変換が起こるのです。

特に自由の国アメリカでは、宗教的縛りが弱いだけに「超人」の存在意義も希薄です。一方、極度に近代化が進んだアメリカでは、新たな哲学が希求される様になります。60年代のサブカルチャは、それを東洋思想に求めました。

キリスト教的神とそれに対抗する超人が否定される一方で、「自然と一体になってこの世を司る何か」の存在が求められる様になったのです。キリスト教的な神は、あまりにも人間的である為に退けられ、東洋の自然と渾然一体となった神や仏が、新しい時代の神として受け入れられてゆきます。

リチャード・バックの『かもめのジョナサン』は、この様な時代の空気を背景にして発表されています。ニーチェの影響と東洋仏教思想の影響を強く受けた事で、「超人」を「超カモメ」とする事で、「人間=神」という呪縛を解いて「自然=神」という構造を作ろうと試みている様です。(多分)

この様に「神や超人」が一旦人から離れると、「超人」はインフレーションを起します。宇宙から来た超人(スーパーマン)や、異形の神々が次々に現れました。いわゆるアメリカンヒーロー達です。

アメリカは移民国家で思想的にも宗教的にも多様性に満ちています。そんなアメリカ人達は、共通のヒーロを祭り上げる事で、国民の統一性を確認する必要がありるのでしょう。その最たる物が大統領の存在です。彼らこそアメリカにおける「超人=ヒーロー」の役割を担って来ました。

一方、元々西洋思想お影響外にある日本においては形至上主義的「神」も、実存主義的「超人」も元々理解し難いものでした。反面、アメリカンカルチャーを経由した東洋思想はどこか陳腐な感じがして偽物クサイ。

そんな日本にあっても「超人」のニーズが無い訳ではありません。特に日本においては「均質化」の「同調圧力」が強く働く社会なので、子供達は学校や友人関係においてストレスが溜まります。そして、イジメという形で同調圧力は暴力的になります。

子供達が読むマンガに描かれるヒーロー像の多くは、最初は同調圧力に屈していますが、自己鍛錬の結果、自分を解放して行き、周囲にも影響を及ぼす様になります。

アメリカにおいては多様性が統一の象徴としての「超人=ヒーロー」を求めるのに対して、日本は同調圧力からの解放の手段としてヒーローを求めたのかも知れません。日本のマンガやアニメの中でヒーローがインフレーションします。

■ ヒーローのアイデンティティーを「ぶす」に求めた ■

『きりこについて』の面白い所は、ヒーローのアイデンティテーを「ぶす」に求めた事でしょう。本来は「欠点」である「ぶす」も開き直ればヒーローの要因になると強引に押し通した所が面白い。

ただ、世間一般には「ぶす」は欠点意外の何物でも無いので、人間とは価値観を異にする猫の視点を通してきりこの「ぶす」を賛美し、きりこの覚醒を促しt下います。

■ マジックリアリズム ■

私は『きりこについて』を読んで強烈な既読刊を覚えました。

アメリカのマジック・リアリズムの大家の一人、スティーブン・ミルハウザーの1972年のデビュー作、『エドウィン・マルハウス』に良く似ているのです。

11才にして夭折した天才作家の伝記を、彼の崇拝者であった友人が書くという内要ですが、天才と思い込んでいた友人が書いていたのがツマラナイ漫画である事に、観察者は成長と共に気づいて行きます。そして、エドウィンが11才になった時、この友人の少年はエドウィンを射殺します。彼の信じる天才性との乖離が決定的になる前に、エドウィンを夭折した天才にする為に・・・。

何とも歪んだ小説ですが、一貫して観察者の少年の視点で書かれ、彼はエドウィンの行動を称賛し続けます。この観察者の少年をラムセスU世という猫に置き換えると、『きりこについて』は非常に良く似た構造を持っています。

西加奈子の作品は「マジック・リアリズム」と評される事が多く、南米やアメリカのマジックリアリズムの影響を強く感じます。クレヨンで書きなぐった様な線が太くカラフルな印象は彼女の本の表紙の通りで、彼女の最大の個性とも言えます。

日本のマジックリアリズムの作家としては、古くは安倍公房から始まり、最近では小川よう子やは森見登美彦や桜庭一樹の名前が上げられそうですが、読みやすさという点では初期の桜庭一樹作品と西加奈子は若い方にもお勧めです。

一度、こういう作品に慣れてしまうと、海外にはこの分野の優れた作家が沢山居るので、読書の幅が一気に広がります。

■ 『きりこについて』で読書感想文を書いたら先生に怒られる? ■


『きりこについて』はとても素敵な作品ですが、「AV女優」とか「セックス」などという言葉が度々登場するだけに、頭の固い国語の先生には受け入れられない小説かも知れません。

そこで、今回は「ニーチェ」という大上段から、国語の先生をねじ伏せる感想を書いてみました。これを「コピペ」して提出したら・・・・親が学校に呼び出されますね。多分。


■ お詫びに過去の真面目な作品紹介を ■

夏休みの読書感想文の本が決まらない君に・・・有川浩「レインツリーの国」 

夏休みの読書感想文が終わらないお子様に・・・カラフル

夏休みの読書感想文が終わらない君たちに No.3 ・・・ 『NHKにようこそ』

自分が演じるキャラクターとは自分自身では無いのか?・・・庵田定夏「ココロコネクト」 

小説というバーチャルリアリティー・・恩田陸「夜のピクニック」

ここら辺がお勧めかな。
4

2013/8/23

夏休みの読書感想文が終わらない君たちに No.3 ・・・ 『NHKにようこそ』  
 

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■ 今年もやって来ました、「人力でGO」最強企画 ■

部活にでも入っていなければ、夏休みは基本的に暇である。

塾や予備校に通っていなければ、その暇さは尋常ではありません。
特に今年の夏などは、クラーの効いた部屋から、猛暑の外に出るのには勇気が要ります。

部屋でゲームをしたり、たまに友達と誘い合ってショッピングモールを徘徊したり、
そんな極々当たり前の夏休みを過ごして、そろそろ夏休みにも飽きてきた頃
多くの方が、ある事実に気付きます。

「あ! 読書感想文の本、決めてねぇーー」

そんな君たちに今年もお送りします、このブログの最強企画。
「夏休みの読書感想文が終わらない君たちに」第三弾。

今回は滝本竜彦の『NHKにようこそ』を取上げます。


■ 『NHKにようこそ』を読んだ中学生男子の気持を想定する ■

『NHKにようこそ』・・なんなんだ、このタイトルは?
誰なんだ?この表紙で微笑む、アニメ調の少女は?
どうして、いつも本屋で平積みになっているの?
何で角川文庫の100冊に入っていたの?
・・ここ数年、気になってました。

思い切って読んでみました。

『NHKにようこそ』・・・中学の課題図書にすべきです。


主人公は地方から東京の大学に進学します。
しかし「彼は引きこもり」になってしまいます。
誰かが彼の噂をしている様な気がして、外出する事が出来なくなります。

大学も中退して「マスター・オブ・ひきこもり」を自称する彼か現在22歳。
親からの仕送りで、どうにか生きています。
全く外出できないのでは無く、必要に迫られて食料品を買出しに出かける程度の都合の良い引きこもりです。

最近では、自分の引き篭もりは世界を支配する秘密結社の陰謀の結果と思えてきます。
集金にやって来るNHKもきっと秘密結社に違いない。
そう、NHKとは「日本・ひきこもり・協会」の略に違いない。
自分が引きこもっているのは、NHKの陰謀の結果なのだ。
自分はNHKの陰謀を暴いて、世に知らしめなければいけない・・・と。

そんなある日、宗教の勧誘で佐藤の部屋を一人の少女が訪れます。
彼女、中原岬の目的は、新興宗教の勧誘などではありませんでした。
彼女の目的は、佐藤の引きこもりを解決する事。
夜の公園に佐藤を呼び出した岬は、「佐藤の引きこもりを解決するプロジェクト」の契約書を佐藤に手渡します。

突飛な行動をする少女の出現に佐藤は戸惑いますが、困った事に岬ちゃんはカワイイ。
とってもカワイイ。

引きこもりでも意地はあります。
佐藤は岬に自分は引きこもりでは無い、ゲームクリエーターだと主張します。
昼間、部屋に居るのは在宅勤務なのだ・・・と。

佐藤の部屋の隣からは日夜、美少女アニメのテーマソングが聞こえて来ます。
あまりの煩さに、佐藤は意を決して隣の部屋に怒鳴り込みます。
そこで佐藤が会ったのは、高校の後輩の山崎。
彼はアニメの専門学校に進学していますが、最近は引きこもり気味。

久しぶりの再会に意気投合した二人は、エロゲーの制作を決意します。
岬に自分が単なる引きこもりで無い所を見せつけようというのです。

だけど、次第に二人はあらぬ方向に暴走して、
ロリコンにはまったり、合法ドラックでラリッタリする。

一方、一見まともに見える岬の行動はカナリ怪しい。
佐藤に夜の公園で引き篭もり脱出のレクチャーをしますが、
どうもその手の本を読みあさっている様子。
どうも岬ちゃん自身が引きこもりだった様で、
佐藤の救済は、ある意味において彼女自信の救済を目的としているうように思えます。

そんな、世界からドロップアウトした若者達の、相当に痛い日常が次々に描かれます。
自己中心的で、無駄ににプライドが高く、そして傷つき易い若者達は、
七転八倒を繰り返しながらも、お互いの存在の大切さを知り、恋とは何かを知って行くのです。
この小説を読むと、青春とは「恥ずかしい事」の代名詞ではないかと思えて来ます。
きっと誰の青春でも、大人になって振り返ると、「黒歴史」の塊なのでしょう。
でも、青春の最中では、どんな些細な事でも重大事件だ。

僕らはちょっとした事で悩む。
身長が他人より低いとか、あそこの長さがどうとか・・・
模試の成績が思わしくないとか、好きなあの子に彼氏が出来たとか。

特に、「自分なんて大したやつじゃない」と知っていながら、
だけどスゲーやつだと認められたくて、いろいろとヤラカシテしまいます。

両手離しの自転車で田んぼに突っ込んだり、
駄菓子やでガムをかっぱらって、友達に自慢したり・・・
けっこー、青春ってイタイ。・・・痛すぎる。

でもこの本の佐藤や山崎、岬を見ていると、自分よりイタイやつが居ることにホットします。
ああ、「こんなんでもいいんだ・・」そう思ってホットします。


歩行者天国で見知らぬ人にナイフを人に突き立てた若者がこの本を読んでいれば
彼はきっとそんな事はしなかったでしょう。

ビルから身を投げた若者だって、もしこの本を読んでいたら
プールの飛び込み台に変更したかもしれない。

青春って、辛くて、ショボくって、情けなくて、行き場が無くて、
カッコ悪くって、・・・でも、なんて愛らしいんだろう。

そう気付かせてくれただけで、この本に出合えて良かったと思います。

表紙がアニメ調だろうが、主人公がロリコンだろうが、合法ドラックでラリッたりしても
この本は中学の課題図書にすべきです。

多くの若者がこの本を読めば、世の中、少しは楽しくなるかも知れない。
人生はほんの少し、変わるかも知れない。


■ 青春小説の名作であり、日本版のロストジェネレーション ■


ここからは真剣に評論。


『NHKにようこそ』このカッコ悪さ・・・どこかで読んだような・・・。
そうだ、ジャック・ケルアックの『路上』じゃないか。
あるいは、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』だろうか?
行き場の無いエネルギーが、文字に姿を変えて
本の中でグツグツと煮えたぎる感じ・・・。

そうだ、これは「パンク」だ!!

若者はいつでも、処理しきれないモヤモヤエネルギーをたぎらせています。
引きこもりや、オタクなら、モヤモヤレベルは相当のものです。
それが、表現手段を得て外界に噴出する現象が「パンク」なんです。

「パンク」とはセックス・ピストルズに代表される商品化された「パンク」とは別物です。

あるときは、「ロスト・ジェネレーション」を呼ばれたり、
あるときは「ヌーベル・バーグ」と呼ばれたり、
あるときは「ニュー・ウェーブ」と呼ばれたり・・・。
あるいは「オルタナティブ」と呼ばれたり・・・。
要は、モヤモヤエネルギーが映画や音楽や文学に姿を変えた時、
そこに「パンク」が生まれるのではないでしょうか?

中年の元パンクロッカーが小説を書いたからって
そこにパンクは存在しません。

「パンク」は辺境(オルタナティブ)から生まれます。
社会の辺境、文化の辺境、
・・・都会の辺境としてのアパートの一室からも。

「パンク」は永続ではありません。
モヤモヤエネルギーの噴出と共に、燃え尽きるものです。
『NHKにようこそ』の滝本竜彦は「パンク」です。
綺麗に燃え尽きて、もう小説を書けません。
『涼宮ハルヒ』の谷川流も、多分、綺麗に燃え尽きています。新作が出てきません。
「ハルヒ」の存在自体が、既に「パンク」です。

「パンク」は、年齢を問いません。
フェリーニは一生「パンク」でしたし、
宮崎駿や富野も、モヤモヤレベルと反骨精神において生涯パンクです。
『勝手にシンドバト』のサザンは充分パンクでしたが、今はただのオヤジです。

「パンク」は破壊します。
既存の概念や、社会の仕組みや、表現の技法を。
東野圭吾や、伊坂幸太郎や、福井晴敏は「パンク」ではありません。
彼らは、充分賢くて、永続的で、生産的です。

私は「パンク」が好きです。

そして、ライトノベルと呼ばれるジャンルには、「パンク」があります。
・・・その多くは、花火のように一瞬で消えてしまうのでしょうが・・。




今回は2008年9月6日の記事をREMIXしてお送りしました。

NNKにようこそ・・・文学におけるパンクとは  

実はこの本、数年前に娘の中学に寄贈してしまいました。
学級文庫に『キノの旅』を置いていた英語教師ならば、桜庭一樹の初期の作品や、『空の境界』や『NHKにようこそ』を図書室に置いてくれるのではないかという淡い期待を込めて、Book Offよりも中学の図書館を選びました。
はたして、『NHKにようこそ』は図書館の書棚に並んでいるのでしょうか?

そんな訳で、本日の記事は随分といい加減な記憶によって書かれています。
ですから、もし万が一、上の「感想文」をパクって提出しようという方がいらしたら、是非、この本を買って、ざっと目を通しておいて下さい。

尤も、面白いので、ついつい読みふける事になるとは思うのですが。


本日は、中学生に戻った気分になって、読書感想文などを書いてみました。
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