ニセコで宿泊・飲食業30年の暮らしを振り返りながら、今をつづっています。
2010/11/30
吹雪の中、除雪機の整備。オイル交換、ファンベルトのたわみ取りなど細かなチェック。故障を未然に防ぐのは、機械全体を見ながら触りながらチェックするのが一番。今のところ不具合はなさそう。春までなにもなければもうけもんとぐらいに考えとかないといけない。一故障10万やからな〜。
今日、今年最初の除雪。除雪し始めて10mでロータリー安全ボルト破損。年に1〜2回のトラブルが一番最初に発生したぁ〜。砂利をかんだみたいだ。すぐ、予備ボルトで修理。この間3分。早ッ!このあとは順調に行き、ロータリー除雪終了。
そのあと、ホイルローダーで雪を運ぶ。この機械、10年前に買った時はエンジンのかかりが恐ろしく悪く、クレーム。燃焼室の圧力が上がってないのかも知れないとエンジンを下ろし、シリンダーとヘッドを新品に交換。バッテリーを1個から2個に強化。始動しやすいようにエアーインテイクにエーテル材を拭き込むパイプを運転席に設置。朝一番エンジンをかける時、エアゾール状のエーテルをシュッと一吹きすると、一発始動。ここまで改良するのに大変だった。
豪雪地帯のニセコで、生活するのに必要なものを揃えるだけでん百万。自家用車はいつも中古・・。合わせたら安いベンツやBMくらいは楽に買えるけど、車は車、こいつらにはかなわない。夏の自転車、冬の除雪機があたしのマブ達でスッ!



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2010/11/28
鉄道に詳しい常連さんが店に来られて、SLが倶知安まで来るのは今日で最後ですとの情報をもらった。ポコの散歩ついでに写真を撮ろうと駅に近づくと、黒い煙が見えてきた。駅裏からパチリッ。そういえば、ターンテーブルがないので小樽から来るときと同じ向きで帰るので、バック状態で走るといっていた。まあ、これはこれで面白いかぁ〜。
なぜSLが人気なのか。僕なりに推測すると、一にレトロ。では、なぜレトロがいいのか。それはアナログ。では燃料こそ違うが、ディーゼル機関車ではだめなのか。それは、石炭、水という身近な素材を使って動く、超アナログの世界。釜で熱せられた水は水蒸気になり、ピストンを動かし、連結棒を介して大きな動輪をゆっくりとそして力強く回す。汽笛が、駅に漂う乗降客の喜怒哀楽を、何十倍にもして黒い煙といっしょに空に向かって叫んでくれる。
人は速さを求めてきた。車、飛行機、パソコン、生活そのもの・・。A地点からB地点までを出来るだけ速く移動することを一番と考えてきた。今年買った自転車であっちこっち走っていると、車速度では見えなかったものがいろいろ見えてくる。これも一つの情報だとすると、人は速く動くことで得る情報と引き換えに、見過ごしてしまっている情報もたくさんあるということになる。ひょっとしたら足元にあるかも知れないヒントや答えを捜しに、今以上に加速度をつけて遠くへ突っ走る。ぜえぜえ息を切らせて到達した場所は、出発した場所だったりするかも。ただ単に、ぐるっと一回りしただけなのかも知れない。


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2010/11/24
若い頃、スキー場の居候を2シーズン、アルバイトを1シーズンやったことがある。
スキーがしたいのならスキー場の近くがいいと、どれもほとんどスキー場内という環境で3シーズン過ごした。
アルバイトは一日働いていくらというもの。居候は給金はないが寝床と3食酒付き?という環境。さて、どちらがいいかというと、居候ほうがよかったと思う。若い頃のアルバイトはほとんど遊ぶ金で消えていき、結局働いた時間が消えていったことになる。その点、居候は必要な時に頑張れば3食食べれてある程度時間も自由に使えたし、雇用関係ではないので、上下関係だけきちんとしておけばお互い同じ立場でお付き合いできる。
24年間、たくさんの半アルバイト半居候の若者に手伝ってもらった。いろいろな人がいて、こちらもいい人生経験になった。自分が居候やアルバイトの立場になったことがない人よりは、その若者の気持ちを分かってあげたように思う。
今年もまた募集しているが、まだ決まっていない。どんな若者がきてくれるのかな。
(応募したい方はこちらへどうぞ。http://www4.ocn.ne.jp/~niseko/)
写真は、去年のお手伝いのI君と15前くらいに手伝ってくれて今は朱鞠内というところで働いているN君のところにわかさぎを釣りに行った時のもの。寒かったなぁ〜。


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2010/11/22
世の中が複雑になると、自分が正しいと思うことも他の人からすれば正しくないと判断されることが多々起こるようになる。大昔は、その集落の長がそれを判断しうまく収めてきたのだろうけど、現代においては相互の話合いで解決つかない場合は、法的な機関に判断をゆだねるということになる。
農耕民族の日本人には田植えや稲刈り、建物の修繕など、人手がいる時はみんなで助け合う相互扶助という考え方があり、お蔭様、お互い様で厳しい生活を乗り越えてきた。それは長い歴史の中で、農村地区特有の考え方というのではなく、漁村や山間部でもその精神は広く受け継がれ、日本人のDNAとなった。獲物を求めて移動する狩猟民族とはちがい、ひとところにずっと住まなければいけない農耕民族の潤滑油的考え方。
物事を荒立てず、お互いうまくいくようにここで生きてきたつもりだけど、どうしても決着をつけないといけないことがあった。長い戦いに、自分の正義が通った。でもそこには、なにか寂しさが漂い、日本人が持っていた相互扶助の精神は微塵もなかった。正義を振りかざすことなく、お互いが気持ちを察知し合う能力がだんだん欠如してきていると感じる。


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2010/11/18
結局、大工さんたちを春まで一日いくらで雇い、僕らも助手のように手伝って建物自体はほぼ完成した。あとは、建築会社に手配してもらった2x4材を使って、テーブルやイス、ベッドなどを序々に作っていけばいい段階まできた。と言っても、集客方法などまったく分からない状態だったけど、なんとかなるかなって気楽に考えていた24年前の春。


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