昔は指導している大学院生の研究に関して、かなり細かいこと(質問紙の表紙のフォント等)にまで口を出していた某教授、最近は本番用の実験プログラムを見もしないのだろうか?と
疑問に思ったのが数ヶ月前。
最近その教授の指導する大学院生の行う社会心理学実験のコンピュータ・プログラムを書いていて、先日、年度末に駆け込みで実験を実施したのだけど、確かに結局、本番用のプログラムを見せないまま実験を行った。大学院生の仕事振りを信頼しているのか、単に時間がないだけなのか…。
ひょっとすると、退官間近でもう新しい修士の院生をガンガンとっていない、ということと関係しているのかなぁ。考えてみると、今いる院生は博士課程のそれなりに経験のある院生ばかりだし…。昔と比べて、大学院生の責任でやらせる度合いが強まっているのかもしれない(そういう方針にはそれなりのポジティブな効果もあるだろう)。
僕は大学院ゼミの様子までは見ていないので実際のところどうなのかわからないが、ハタから話だけ聞いていると、数年前と大学院生の性質が微妙に異なってきているような気がする。2000年代前半の大学院生は「学ぶ存在」という感じ。2000年代の半ばは「働く存在」(これは事務仕事が大幅に増えたため)。それが最近は「研究する存在」になっているように見える。この変化がどのようにして生じたのかはよくわからないし、本当にそういう変化が生じたのかどうかもよくわからない。ただ、数年振りに研究室を訪れてみると、そういう変化が起きているような気がする。
それはさておき、本当にいいのか? プログラム見なくて。僕は以前は大学院生だったから、まだ研究の文脈をわかった上でプログラムを作っていたけれど、今はもう研究の文脈なんて(説明されても)わからんぞ。もちろん、僕と某教授の間にはこの実験を自分の研究として進めている大学院生がいるのだが、この人がまた普段は東京にいて、他の仕事も並行して行っている人なので、僕とのコミュニケーションも必ずしもスムーズには行われていない。某教授もとっさの自分の思いつきを即座に誰にでもわかるように言語化できる人ではないので、後で「こういうことですよね?」と確認してみて「全然違う」という反応が返ってきた経験を僕は何度もしている。何だか不安だー。

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