『日本の憑きもの』
吉田 禎吾(著)
1972年(初版)
1999年(復刻版)
中央公論新社
★★★★★
中公新書の299。サブタイトルは「社会人類学的考察」。
知り合いの木公さんが「
夏休みの読書感想文大会:賞金総額5千円」という企画をやっていて、僕もセッセと本を読んでは投稿しているのだが、正直だいぶ息が切れてきた。先月末に突如目覚めた北海道日本ハムファイターズの若き怪物・中田翔選手のホームラン量産ペースに負けじと来る日も来る日も本を読み続けて、(そろそろ老眼が始まっているのかもしれないが)目は異様にショボつき、台所の弱い蛍光灯の灯りですら眩しいと感じるようになってきた。8月前半、久し振りに躁気味だったのかもしれない。その反動が出てきたか。「大事なことは(大事であるが故に)後回しにする」という僕の悪いクセも災いした。興味のない本を無理に読んでいるわけではないが、「すぐ読めそうな本」を優先的に読み始めてしまい、本当に読みたいと思っていた本を後回しにしていた。「これは!」と思っている本がまだ5〜6冊あるのだが、今月中に読めそうもない(と言うわけで、木公さんには期間を限定しない「木公賞」の創設をお願いした)。
実は木公さんの読書感想文大会の企画に関して、僕には切り札があった。この企画を最初に知ったときから「大賞(彼はそんな賞は用意していないが…)を獲るのはこの本だろう」と直感していた本があった(読んでもいないのに)。その本の名を『日本の憑きもの』という。1972年に刊行された古い本だ。1960年代、日本経済の高度成長期の真っ只中、激変していく社会において、その社会・経済的基盤を失い消えていった「日本の憑きもの」についてフィールドワークを行い、記述・考察した、社会人類学・文化人類学の本である。
この本のことは、先月、民間の研究所に勤める某色白ベビーフェイス人妻研究員(巨乳)に紹介されて知った。僕は彼女がこの本のことを教えてくれたことを本当に嬉しく思う。こんな本を面白がる知人をもっていることも誇らしいが、この本の面白さを共有できる人間だと彼女に認識されていること自体が嬉しいのだ(上のような紹介のされ方をしてしまって、彼女は僕と付き合いのあることを今頃激しく悔いているだろうが…)。
出だしはまるで小説のようである。「戦後のまだ食糧事情の悪い、一九五一年の夏、私は苦労して汽車の切符を手にいれ、東京から山口県田布施町に向かった。――――」たった1行で胸倉をグイと掴まれたように惹き込まれた。そのまま一気に読んで、予感が間違っていなかったことを確認した。僕にはまだ面白い本を嗅ぎ分ける嗅覚が残っていたようだ。
山陰・四国・東九州にはキツネ持ち・イヌガミ持ちが、関東にはオサキ持ちという、動物霊の持ち筋(とされている家筋)があるという。これらの家筋の者に恨まれたり妬まれたりすると、これらキツネ・イヌガミ・オサキ等に取り憑かれ、心的分離を伴う錯乱状態に陥ったり(いわゆる「キツネ憑き」現象)、不幸が続いたりする(と信じられている)。本書では、そういったキツネ・イヌガミ・オサキ等の霊的存在がその社会の人々にどのようなものと考えられているか、その信念に基づき、(日常生活において、また実際に取り憑かれた際に)どのような行動をとるか、持ち筋とされる家筋がどのような経緯を経て生まれてきたのか、憑く・憑かれるの現象がどのような社会関係・人間関係において見られるか、この信念の存在が当該社会においてどのような機能を果たしていると考えられるか、等々について、日本の他地域や外国(アフリカ、インド、東南アジア、ヨーロッパ…)との比較も交えて、ゆっくりと議論していく。
僕が最後に参加した日本社会心理学会の年次大会は2006年に行われた東北大学でのものだったのだが、そのとき(シンポジウムかワークショップで)文化人類学(?)の先生の講演を聞く機会があった。アフリカのある部族に存在する「サンダル占い師」の話だった。この部族では、人々は幾重にも織りなされた多種多様な貸し借り関係に捕らわれており、日常的に「交渉」を繰り返している。この社会で最も嫌われる態度は「交渉を拒絶する門前払い」だそうである。ここでは、何か原因不明の災いが起こると、人々は自分は誰かの交渉を拒否し恨まれているのではないか、と危惧する。そこでサンダル占い師に相談に行くのだが、このサンダル占い師(普段は他に仕事があり、頼まれるとサンダル占いを行う)、何ともいい加減にサンダルを放るのである! 何度か放って、そのサンダルの先の向いた方向に恨み主がいると相談者に告げる。相談者には恨み主の見当が即座につくらしく、交渉をやり直しに行くのである。この話を聞いたときには「そんな社会もあるんだなぁ」と遠い世界の話としてしか思っていなかったのだが…、ほとんど同じようなことがこの日本で、それも僕が生まれた頃まで行われていたのである!
本書は1972年に刊行された古い本で、最近の現代的な新書テイストに慣れてしまった身には読みづらく感じられるかもしれない。40年経つと、新書の文章の書き方は大きく変わっている。例えば最近の本では、内容的に一文に要約できるような範囲を一段落とし、それを英語的に接続詞でつないでいくような文章スタイルが用いられていることが多い。だから、接続詞を意識しながら段落単位で読んでいけば、スイスイと読める(これが「パラグラフ・リーディング」?)。ところが、本書の文章はそういうスタイルでは書かれていなくて、(これは時代の問題だけでなく、人文・社会科学系の本に典型的なスタイルなのかもしれないが)一段落の内容を抽出して一文に要約できない場合も多いし、数ページに渡って部分的に話がズレていくような形で論理展開していくように感じられる。接続詞も、その使われ方や意味合いそのものが、最近の本で読む日本語表現とは微妙に異なっているように思う。そういう意味でちょっと読みづらい。
また、最近の新書は、「売れる商品」を意識してか、過度に単純化された内容の本が多いように思う。極端なことを言えば、タイトルだけ読めばそれで充分な本もある。理解しやすいように1冊1テーマとし、そのテーマに沿って構成した(過度に)明解なストーリーを提示してくれる。本書では、(これも書かれた時代だけでなく、本書の学術寄りという性格も影響しているのだろうが)「読者にわかりやすいストーリーを提示し、わかった気にさせて満足させる」という雰囲気がほとんどない。おそらくそれをやってしまうと、学問的な精度を失ってしまうからなのだろう。繰り返し述べられる各地のエピソードは強引に一般化されることなくそのまま収められているので、最近の本に慣れてしまった目には、論旨が不明瞭に見えたり、場合によっては矛盾しているように見えてしまうかもしれない。また、各地のエピソードや考察が地域ごとにまとまった形で記述されるのではなく、そのときのテーマに沿って繰り返し記されているので、話が前後する嫌いがある。これらの問題は本書を一度通して読んでからもう一度最初から読み直すことでかなり対応できる。一度目には矛盾して見えたような箇所も二度目にはそうは見えないであろうし、一度目には情報がまとまっていなかったように見えた箇所が二度目には漏れずに頭の中に入ってくるだろう。
憑く・憑かれるという現象は、小集団内のかなり具体的な葛藤を原因として生じている。「憑かれるかもしれない」という可能性は、生産性の低い小さな閉ざされた農村内で、制度的に役割関係が規定されていない家族集団間の葛藤抑止機能を果たしている。ところが、そうした機能を果たしているにも関わらず、「憑く」側は「憑かれた」側以上にネガティブに評価される。「憑く」側を特定の家筋として固定化してしまうことで、「集団の役に立つ嫌われ者」の役割を「持ち筋」の家系に押し付けることができるのである。本書の結論としては、「憑きもの」現象というものが単に迷信・俗信の問題ではなく、そういった社会的な機能を有しているが故に200〜300年にも渡って(「持ち筋」が発生・固定化するのは江戸時代中期と考えられる)存続し得ているのではないか、という点を強調している。
おそらく木公さん的には、「憑きもの」現象(ないしそれを生み出す信念)が存在し得た背景、また消えていった背景をゲーム理論や(「これも経済学だ!」みたいな)広い意味での経済学的に解明するような趣旨の本であれば最高であったろうが(そして、それは僕にとっても最高なのだが)、残念ながら本書はあくまでも「憑きもの」現象に社会人類学的に迫ってみようという本である。本書全体を通ずる観点として「一見不合理と思われる迷信・俗信も、実は社会的な機能を果たしている」という発想が色濃いように思うが、あるとき機能を果たしていた信念に基づいて人々が行動するようになったとき、その信念が機能を果たさなくなった後もその行動だけは持続することがあり得ることを考えると、本書の結論には完全には満足できないし、まだまだもの足りなさも感じる。しかし、何事も求め過ぎは禁物。偶然知った1冊の本に自分の欲しい解答の全てを求めるのは無理というもの。この本を読んでいると、日本社会での「協力の問題」「集団の問題」「自治の問題」の解かれ方を理解しようと思ったら、やはり「家制度」というものについて一度ちゃんと知っておかなければならないということを痛感する(日本社会のベースとなっているのは水田耕作を行う緊密な農村社会であり、そこでの関係性の単位は「個人」ではなく「家」なのである)。そうした上で再度この本を読めば、今回見逃したものがまたいろいろ見えてくるだろう。
先日、6歳になる甥と算数ゴッコをしていたところ、僕が小学校の1〜2年生の頃「学校の算数の授業がつまらない」と言い出したので慌てた、という話を僕の母がしだした。何故つまらないのかと訊くと、「簡単過ぎてつまらない」と答えたそうである。母は教育大出で、数年だけだが小学校の代用教員(?)をしていた人間でもある。当然教育ママ的な性質を多分に有していた母は小学校に出かけて行って(電話をかけただけかもしれない)、「1回の授業中に1〜2問でいいので、もう少し難しい問題を出して欲しい」と担任の先生に頼んだのだそうだ。そんな話は僕は知らなかったが(あるいは憶えていなかっただけかもしれないが)、なるほど確かに小学生のときは算数が得意だった(僕が数学が出来なくなるのは高校1年のときからである)。最近自分の人生を振り返り、元々算数・理科好きの子供だったのに文系方向に大きく偏向したのは何故だったのだろう?と考えていたのだが、本書を読んでいて、大学1〜2年の教養部時代、最も面白く感じていたのは文化人類学の授業だったことを思い出した。「面白いのはこっちだ」とあの頃思っていたように思うし、もしもう一度人生をやり直したとしても途中でそう思うのではないかと思う。やはり面白いのはこっち、社会科学である。人間の社会が一番面白い。
本文190ページ程度。
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Kota's Book Review
※ 木公さんが「
夏の読書感想文大会: 商品総額5千円」という企画を実施しているので、応募してみることにしました(〆切は2010年8月31日(火)まで)。「自由図書部門」に第12弾!

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