昨日、大学・大学院時代の指導教官の「最終講義」があるというので、無職の強みを最大限に活かし、近所の大学に聞きに行ってきた。
会場(大学の教室)を見渡すと、わざわざこのために首都圏から駆けつけたかつての卒業生も数名おり、その律儀さに感心したが…、わざわざ飛行機に乗って見に来るほどの内容ではなかったと思う。別に面白いものではなかった。
事前に聞いていた講義のタイトルを見ると、これまでの40年間の研究を振り返る内容になるようだったのだが(と言うか、最終講義って普通そういうものなのだろうが)、この先生の性格を考えると、「振り返る」なんてことはできずに、「現段階の構想」「これからの話」をするのではないか、と密かに期待していた。僕にとってはそちらの方が面白い。ところが、意外と無難に「振り返って」いた。そこがまぁ、僕にとっては面白くなかった。少なくとも、ワクワクするものではなかった(しかし、この先生から「ワクワク感」を取り去ったら、いったい何が残るのか、と。3月にも似たような企画があると聞いたが、この内容では聴衆をうならすことはできないと思う)。それが、何と言うか…、悲しかった。
あと、タイトルに「マイクロ・マクロ」とあったんだけど、聞いていると、話が進めば進むほど、どんどん話から「マクロ(社会)」の要素が抜け落ちていくように感じた。「マイクロ・マクロ」の話の面白さは、「マイクロ→マクロ」と「マクロ→マイクロ」の双方向の矢印が環になっているところにあるワケだけど、少なくとも「マイクロ→マクロ」に関する具体的な話は全くないし、驚いたことに「マクロ→マイクロ」の話すらどんどん薄まっているように感じる(例えば、具体的にどんなマクロ状況(社会・社会状況)を想定しているのか全然わからない)。
特に最後の30分に関しては、「これ、本当に『マイクロ・マクロ』の話なのかなぁ…?」というのが正直なところ。実験経済学的な人間観や文化心理学的な人間観と自身の人間観との対比が「マイクロ・マクロの40年」の中にどう位置づけられるのか、それがわからない。何か、こう…、消化不良気味。40年の「マイクロ・マクロ」研究の末に、今、彼に見えているものがどういうものなのか、僕にはよくわからなかった。まぁ、単に僕が「研究者の視点」に立つことができない(僕は研究者ではないから)、というそれだけの話なのかもしれないけれど。
考えてみれば、彼にとって自分の「最終講義」にエネルギーを費やす理由は何もないのかもしれない(あるいは、これに費やすことのできるエネルギーと時間があるなら、それを振り向けるべきもっと重要なタスクが山ほどあるのだろう)。だけど…、「40年かかって、辿り着いた(現段階の)到達点はここ!」という高みから見える風景を…、見せて欲しかったなぁ…! (面白い講演をしない先生のところの大学院生が面白い学会発表をしなくなっていくのは…、ある意味当然のことだと思う。)
夕方6時からは研究室で「お別れパーティー」(まだ、本当の「お別れ」ではないが)も開催された。ごくごく内輪のパーティーという雰囲気だった。これまた事前に密かに入手していた情報により会費をとられるのではないかと危惧し(笑)参加しないつもりだったのだけど、夕方まで研究室でダラダラ過ごしている間に会費を徴収されずに済みそうなことが判明、急遽参加決定(これぞケチケチ作戦!)。10カ月振りに完全ノンアルコールのビール風味飲料を飲み(随分飲んでしまった)、たくさん用意されていたパーティー料理に舌鼓を打った。
研究室の他の先生方と話す機会もあり、研究室の今後の方向性なんかについての話もチラリと聞けたのは思わぬ収穫。一晩で体重1.5kg増えたのは、更に予想外の収穫…。

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