『比較制度分析序説――経済システムの進化と多元性――』
青木 昌彦(著)
2008年
講談社
★★★★★
講談社学術文庫の「1930」。サブタイトルは「経済システムの進化と多元性」。1995年に東洋経済新報社から刊行された『経済システムの進化と多元性――比較制度分析序説――』を文庫化したもの(タイトルとサブタイトルが入れ替わっている!?)。文庫化に際しての加筆・修正は最小限のものにとどめられているが、『移りゆくこの十年 動かぬ視点』(青木(著) 2002年 日本経済新聞社)所収の「制度とは何か、どう変わるか、そして日本は?」がオリジナルにはない第8章として付け加えられている。内容的には、専門家向けに発表されていたいくつかの論文の中身を一般読者向けに再構成したもので、1994年に行われた東京大学経済学部での講義「日本経済の比較制度分析」が下敷きとなっている、とのこと。
「今最もノーベル経済学賞に近い日本人」として著者の名を知ったのはおそらく2000年代初頭だったと思うが、大著『比較制度分析に向けて』(青木(著) 瀧澤・谷口(訳) 2001年 NTT出版)の分厚さに気後れし、手に取るのを躊躇していた。意を決して読み始めてみたものの、早くも第1章の途中で挫折してしまい、著者が初めから日本語で書いた同じテーマの本を探したところ、本書に目が留まった。一般読者を対象に書かれた本だということもあり、アメリカの一流大学・大学院での教科書として執筆された『比較制度分析に向けて』よりもはるかに読みやすい。著者は高名な学者さんだが、一般向けに書かれた文章が大変読みやすいことに驚いた。内容自体は決して易しくはないが、論旨は明快なので、2度読めばかなりわかる(『比較制度分析に向けて』は2度読んでもよくわからない…)。そして、内容がわかってくると…、すこぶる面白い! 「比較制度分析っていったい何だ!?」と身構える必要はないのである。『比較制度分析に向けて』に向けて、まず本書に一通り目を通しておくことをオススメする。
本書のテーマは「何故、世界の様々な経済システムは唯一最適なかたちに収束していかないのか?」ということなのだろうと思う。そういう意味で、比較制度分析のテーマは、「世界の様々な社会や文化はやがて一元化してしまうのか?」という問いにつながっているのだろう。著者が経済学だけでなく広く社会科学分野全般から注目されている理由がわかるような気がする(ただし本書では、『比較制度分析に向けて』とは異なり、政治・社会的交換・共用財ドメインについてはほとんど触れられていない。この点は、政治学、社会学、文化人類学、心理学、等からの関心を満たしたい読者の視点から見ると、もの足りないかもしれない)。
一般に、新しく誕生した学問分野に関する最初の教科書が書かれた時点をもって、その分野がそれなりに完成したと見なして良いのではないかと思う。そういう意味では、『比較制度分析に向けて』の6年前に刊行されている本書は、比較制度分析の完成直前の過渡的な姿を記したものなのかもしれない(著者自身、「原本はしがき」に「現状に関するとりあえずの中間報告」と書いている)。しかし、「学術文庫版へのまえがき」で述べられているように、新古典派経済学との考え方・視点の取り方の対比を通して、比較制度分析という経済学における新しいアプローチの特徴を示そう、という意図がより明確に感じられる(特に前半に顕著)。
具体的な内容に関しては、全体の要約となっている第1章と元々別の本に収められていた第8章を除いて、大きく二部構成的に分かれているように感じた。「情報処理システムとしての企業組織の多型性」「複数均衡の存在による多元的経済システム」「状態依存的ガバナンスの制度化」といった概念を用いて、論理によって「世界の様々な経済システムが唯一最適なかたちに収束していかない理由」を述べていく第2〜4章に対して、第5〜7章では、比較制度分析での「制度」観に基づき、日本経済の高度成長期に最も有効に機能していた「メインバンク制度」、1990年代前半のソ連・東欧・中国等「移行経済」における「コーポレート・ガバナンス」の問題、バブル崩壊後の日本経済における「規制緩和・構造改革」等の、現実の「制度」についてメスを入れていく(第8章は両方の要素を含んでいる)。私としては、理論編と応用編の鋭い切り替えに若干戸惑ったが、理屈だけでなく、同時代的に進行する日本経済や世界経済の諸現象を念頭に置いて書かれていることが、本書の内容を一層魅力的なものにしていると言って良いだろう(ただし、「近年の説明すべき経済現象」は当然執筆された時代の制約を受ける。本書は1990年代前半の政治・経済状況を背景に書かれているので、その後20年が経過した現在の視点から読むと、ややピンときづらい面もあった。こうなるとやはり、『比較制度分析に向けて』や『コーポレーションの進化多様性』(青木(著) 谷口(訳) 2011年 NTT出版)も是非読んでみたいところ…)。
私自身は上述の通り、「『比較制度分析に向けて』に向けて」のつもりで読んだ。私の興味は、著者が、小は2者関係から大は国家関係まで、多くの要素が複雑に絡み合った人間社会の網の目をどのような視点から、またどのような手法を用いて解きほぐしていくのか、に向けられていた。そういう意味では、著者が「個人」にはあまりウェイトを置いていないこと(著者は「個人」を、「社会」をボトムアップ的に構成している最小単位としてしか見ていないように思う。つまり、「社会」が「個人」を形成する可能性については考えていないように見える)、「経済的交換」と「組織」のドメインしか(本書では)分析対象としていないこと、等についてもの足りなくも感じた。しかし、ここに例えば「文化」であるとか、あるいはそれを個々人が内面化したものとしての「国民性」といった概念を(説明変数としてであれ被説明変数としてであれ)曖昧に組み込まれたりしたら台無しである。そう考えると、無闇に何もかもを論じようとしたりしない本書のコンセプトに、経済学研究者としての潔さも感じた。
私自身は、現実の経済社会にも、大学で習うような「経済学」の世界にも、「興味がないワケではないが、理解できない」タイプである。そんな私が本書から学ぶことは、本来著者が伝えようと意図していたものとはかけ離れた「おバカ」な事柄だろう。私が学んだことは、例えば次のようなことだ。高度成長期に日本経済が大いに発展を遂げたのは、当時の日本人が「心を一つにして、死にもの狂いで頑張った」からではない。それは、日本企業がその歴史的経路に依存して発達させてきた組織形態が、当時の製造業を取り巻いていた情報環境を処理するのにたまたま適したかたちであったに過ぎない(著者は「たまたま」だなんて決して言わないが)。
逆に言えば、バブル崩壊後20年に渡って日本経済が元気を取り戻せないでいるのも、現在の日本人がハングリー精神を失って怠惰になったせいではなく、現在の経済・社会的環境の情報的側面に対して効率的な情報処理を行うのに適した組織形態を日本の制度体系が生み出せないことに原因がある(それを生み出せないのも、個々人に原因があるというより、本来「制度」は自己維持的なものだからである。だからこそ著者は、本書執筆時には禁じられていた「純粋持株会社の解禁」という法改正を第7章において主張している)。
今再び「心を一つに」すれば難局を乗り切ることができる、というものでは決してない。ある産業の置かれている環境の情報的特性によっては、むしろ「心を一つに」すると情報処理の効率が低下してしまう場合すらあるのだ(逆に、「心を一つに」しない分散的な情報処理によって、そのような環境における効率化を実現しようというのが、アメリカ型企業が発達させてきた組織形態である)。「全員一丸となって事に当たれば、仕事がはかどる」のは、そうすることが効率的な情報処理のやり方であるような環境においてだけなのだ。そういうことに気付かせてくれることが、私にとって経済学を(ひいては、学問を)学ぶ意義である。
本文300ページ程度(「学術文庫版へのまえがき」「原本はしがき」を含む)。
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Kota's Book Review

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