『弱いロボット』
岡田 美智男(著)
2012年
医学書院
★★★★☆
タイトルに「ロボット」と冠された本だが、医療・看護・福祉関係の本を出版している医学書院の「シリーズ・ケアをひらく」中の1冊。しかし、特に医療や福祉現場のケア従事者を読者として想定している風ではなく、広く一般向けに著者による「ロボットを用いた(人間同士の)コミュニケーション研究」について易しく語っている。著者は異例と言えるほど素人向けの話が上手く、僕自身は「生態心理学(アフォーダンスの心理学)の立場からの、行為・コミュニケーションの意味論・認識論」として非常に面白く読んだ。「コミュニケーション研究にロボットが使えるのではないか」というアイデアが生まれてきた経緯(著者自身の研究史)を時間軸に沿って述べていく雰囲気は、「岩波科学ライブラリー」「東京理科大学・坊ちゃん選書」なんかにも似ている。
本書を開いてすぐに気付いたのだが、安い紙を使って価格を抑えているのではないかと思う。お堅い本ではないが内容的には専門書であり、バカ売れするような本ではない。こういった出版社の姿勢には頭が下がる。
全6章構成。前半では主に、(ロボットの話を交えつつも)人の行為やコミュニケーションの「意味」というものがどのように生まれてくるものなのか、という話をしている。本書の1つの山場は、生態心理学(アフォーダンスの心理学)の観点に立ち、そもそも自己完結していない「オープン・システム」である人の行為やコミュニケーションの本質は相互的な「委ね合い」であると喝破する、第3章「賭けと受け」ということになるだろう。
後半では、そのようなコミュニケーションを活性化させるロボットのデザインについて考えていく。ポイントとなるのは、様々な機能を備え自己完結した「自力本願」型ロボットのデザインではなく、「一人では何もできない」「他力本願」型ロボットと人間との「関係のデザイン」。著者の関心はロボットそのものにではなく、あくまでも「コミュニケーション」に向けられている(著者はもともと、音声認識の分野からコミュニケーション研究の世界に近づいてきた人なのだ)。また、高齢者施設や障害児童施設、等にそうした「弱いロボット」を持ち込んでみると…、という福祉的な応用・実践の可能性についても触れられている(ただし、この部分をメインに考えて読むと、肩透かしを喰らうだろう)。
本屋の理工系の新刊コーナーで目に留まったのが本書。表紙にはユーモラスではあるがガラクタ(良くて「おもちゃ」)としか呼びようのないような「ロボット」の写真と「弱いロボット」のタイトル文字、帯には水色のクレヨンで書かれた子供風の文字で「ひとりでできないもん」とある。曰く、「他力本願なロボットがひらく 弱いという希望、できないという可能性。」
これは!と手に取り、表紙カバーの見返し部分にあった文章を読んでピン!ときた。
「あ、そうか。手足もなく、目の前のモノが取れないのなら、誰かに取ってもらえばいいのか」
あらためて考えてみると、こんな捨て鉢ともいえる発想で作られたロボットは世の中にまだないのではないか。ポイントとなるのは「一人では動こうにも動けない」という、自分の身体に備わる「不完全さ」を悟りつつ他者に委ねる姿勢を持てるかどうかである。
以前、(かつての、挫折した)人工知能研究についての本を読んでいて、不思議に思ったことがある。そこで構想されている「人工知能」があまりに「全知全能」志向で、「わからないことがあったら他者に訊いてみる」という、ほとんどの人間が(問題に直面したときに)まず最初に行う方略について全く考えられていなかったのだ(「人工知能」とは違うが、僕が「わからないことは他者に訊く」型のコンピュータ・システムとして初めて知ったものは、インターネットのDNSの仕組みではないかと思う)。皮肉まじりに「人工知能の研究者は優秀な人たちばかりだから、(そもそもわからないことが存在しないか、あるいは)わからないことを他者に訊ねたりはしないのだろう(そういう意味で、人間モデルが歪んでいるのだろう)」なんて思ったが、「全知全能」型の人工知能を目指したことが、古典的な人工知能研究の失敗の一因であるように僕には思われた。
その後、『
知能の謎』(けいはんな社会的知能発生学研究会(編) 2004年 講談社)、『
予想脳』(藤井直敬(著) 2005年 岩波書店)辺りで、古典的な人工知能研究や知能ロボット研究に欠けていた(あるいは、軽視されていた)ものとして「社会」「発達」「身体」等が挙げられているのを読んでいたので、本書のタイトル、帯、見返しの言葉にピン!ピン!ピン!ときてしまったのだろう。と言うワケで、僕はこの本を人工知能・知能ロボット研究の文脈に位置づけられるものとして読み始めた。
ところが、読んでみるとちょっと違った。本書のテーマは「ロボット」そのものでも、福祉や医療そのものでもない(もちろん、関係はしているが)。著者の狙いは、ロボットという「モノ」でもあり「他者」でもあるような両義的な存在と人間との(人為的・人工的で、やや不自然な)コミュニケーションを通して、人間同士の自然なコミュニケーションの本質を浮かび上がらせることにあるように見える。その際の核となっているのが、生態心理学(アフォーダンスの心理学)の視点。僕がこの本を面白く読んだ理由の1つはこの辺りにある。かつて、ギブソンの生態心理学というものを知ったときに、「これはもの凄く重要な視点だ!」と直感した(僕の中では、フロイトやレヴィ=ストロースに匹敵するものなのだが…)。ところが、生態心理学の日本における第一人者である佐々木正人氏の本を読んでみても、彼の叙述スタイルはどうにも僕にはピン!とこないのだ。
生態心理学のモノの見方は、自らを「観察者」の立場に置く素朴な科学的認識観を相対化するもののように思う(そういう「モノの見方の『コペルニクス的転回』」をもたらすものとして、僕の中では上述のフロイト、レヴィ=ストロース、等と並ぶものなのだが…)。例えば、人間を環境の中に置かれた「情報処理マシン」としてとらえる、認知科学の基本的な認識枠組み(今どきこんな素朴な見方を後生大事に採用し続けている研究者はいないのかも知れないが…)に僕自身は「何か違うような気がするんだけどな〜」という違和感をずっと抱いていて、生態心理学の視点がそういったモノの見方を上手い具合に逆転してくれないものだろうか、と神頼み的に期待してしまっているところがある。
科学というものは、行為者の視点ではなく観察者の視点に立つことによって行為者には見えないものを見てきたわけだが、行為者には見えて観察者には見えないものも当然あるワケで、もう1度行為者の視点に立ってみると、(僕の言う)認知科学的な観点からは必然的に見落とされてしまうものが見えてくるのではないか…、という直感をもっている(もちろん、認知科学的なモノの見方と生態心理学的なモノの見方は必ずしも対立するものではなく、むしろ相補的なものなのだろうと思うが)。それなのに…、その視点を身に付けられそうな気がしないのだ(涙)。
そんな僕にとって本書は、生態心理学的視点の優れた適用事例、という感じがする。「あ、わかる!」と思ったのはこれが初めて(実際、本書には「示唆に富む名言」が満載である)。本書に記されている、著者自身の「発想の転換・視点の逆転」にたぶん意味がある(僕自身がこれまで生態心理学的な視点を身に付けられなかったのは、「行為主体」と「環境」との関係を「行為主体」側からではなく「環境」の側から見る、というような見方(この見方そのものは、「観察者」の視点に立っている)に変に足をとられていたせいなのかもしれない。「行為主体の視点」と「観察者の視点」を自在に行き来する、という具合に軽く考えれば良かったのかもしれない)。
「ロボットを用いた、人間同士のコミュニケーション研究」と言われてもピン!とこないかもしれないが、要するにこういうことだろうと思う。道を歩いていたら「助けて〜!」と悲鳴が聞こえてきた。見ると、引っ繰り返って起き上がれなくなってしまったロボットが助けを求めている(著者の創る「ゴミ箱ロボット」は引っ繰り返ると自力では起き上がれない)。このとき、人に「どうしよう! 助けなきゃ!」という気持ちにさせてしまうような、そんなロボットが備えている条件はいったい何なのか? 逆に言うと、人はどんなときに「助けなきゃ!」とつい思ってしまうのか? その条件をロボットの側に一方的に求めるのでもなく、人間の側に一方的に求めるのでもなく、人間と環境(他者やロボットを含む)とのコミュニケーションのあり方をジックリ観察してみることで明らかにしよう、というワケだ。
ちなみに僕自身は、上の文章を書いていて「亀ロボット」を思い浮かべた。亀が裏返しになって「助けて〜!」と脚をバタバタさせていたら、僕は拾い上げて元に戻してやるだろう。「ありがとう」と言われたら、「いやいや」と手を振りつつ「今日は良いことしたな」なんて内心ほくそ笑むことだろう。実際に著者が創るのは、このような「一人では何もできない」「無力な」「弱いロボット」なのである。「赤ちゃんロボット」でもいい。赤ちゃん自身は自力では多くをなし得ないが、周囲の人間のサポートを上手に引き出して、実に多くのことをなし遂げる。第5章のタイトルは、ズバリ「弱さをちからに」だ(ケアの現場にいる読者は、この辺りの話に共感しているのではないかと思う。僕も、1人の筋ジストロフィー患者と彼を支えるボランティアたちの関係を描いたドキュメンタリー『
こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史(著) 2003年 北海道新聞社)をチラリと思い出した)。
かつて、著者の開発した「む〜」というロボットについてインターネット上のニュースか何かで見たことがあるような気がする。正直言えば、そのときはほとんど興味が湧かなかった。何だかただの「癒しロボット」のように見えたのだ(そうだとすれば、ぬいぐるみで充分じゃないか、と)。本書と偶然出会えて良かったと思う。可愛いロボットそのものよりも、(一見「癒しロボット」にしか見えない、無力な)ロボットを生み出すに至った著者のアイデアの方がずっと面白い。と言うワケで、大変面白う御座いました。
…と褒めっ放しで来たが、(一般向けとは言え)研究書・学術専門書として考えると、文章はやや冗長で、相互に関連する多様な論点が未整理なまま、という印象も受ける(僕自身が本書を読む上でのキーワードだと考えたのは、例えば「なにげない行為」「地面・足場・場」「グラウンディング」「応答責任」「ソーシャル・メディエーター」等々)。著者の研究は現在も進行中であり、何か結論めいたものが導き出されるワケでもない。一般向けのお話としてうまく構成されているのであまり気にならないが、耳に心地よい決め台詞がバンバン出てくる反面、それがマジックワードとなっていて曖昧な表現になってしまっているところもある。例えば、僕には著者の用いる「身体」という言葉の意味の輪郭がボヤけて見える。
語りかけに対して私たちが無意識に応答責任を感じてしまうのはなぜだろうか。その発話が「誰かの支えを予定しつつ繰り出されたこと」を自分の身体を介して知っているためである。つまり、同じ「不定さ」を備えているという点で、他者の身体が私の身体から共同性を引き出している。こうした拮抗した関係性が一つの「場」を生み出している。(94ページ)
この文章で著者が言わんすることは大雑把にはわかるのだが、精確に理解できているかと言うと…、僕には自信がない。ここを更に突っ込んで考えてみると、思わぬ眺望が開けてくるのではないか、と言う気がするのだが…。
ところで考えてみると、本書に記されている著者の研究の進め方は、まさに「動歩行モード」である。身体の重心を前方に倒し、ひょっとするとそのまま倒れるかもしれないという一抹の不安を感じつつも、「取り敢えず」一歩前へ踏み出してみる。そのことによって、次の一歩を踏み出す「土台」ができる。
ここで大切なのは、とりあえず歩き出してみることだ。なにげなく繰り出した一歩に伴う「見え」(視覚)の変化から、次の行為をナビゲートする情報がピックアップされる。その情報に導かれるかのように、次の一歩がまた繰り出され、その一歩は次の行動をナビゲートする情報をピックアップすることを繰り返す。(68ページ)
本の内容と研究のアプローチ(著者の生き方)が一貫しているという点で、『
働かないアリに意義がある』(長谷川英祐(著) 2010年 メディアファクトリー)にも通ずるものがある(とは普通言わないか!?)。
ちなみに、第3章と第4章の間に挟まれている約15ページのインタビュー(初出は隔月刊誌『精神看護』2009年5月号(医学書院))は、本書全体の内容を先取りしたものであるため、最後まで一通りを読んでから読み直した方がいいかもしれない。
あ、そうだ、これは自分へのメモ。人の行動は、人が「心の理論」を持っているからこそ、現にそうあるようなものとなるのだが、研究者が人の行動の理論を作る際には、研究者自身が人として持つ「心の理論」の作用に充分に自覚的でなければならない。そうでないと、本質的に「素人理論」と同じものになってしまう。
本文200ページ程度。
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Kota's Book Review

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