ここ1カ月くらいかな、妙に「気が楽になった」という話。
今からもう10年以上前、30代前半の頃に「双極性気分(感情)障害」と診断されたことがある。いわゆる「躁鬱病」だ。このテの病気の困った点はいろいろあるが、そのうちの1つに「診断名がつくことによって、ますます病状が悪化する」という現象がある。ヒドい時には随分ヒドい状態だった。
人によっては数カ月で治るものらしいが、何年経っても(主観的には)よくならなかった。考えてみると、自分としては中学3年生辺りから躁鬱病の症状が出始めていたのではないかと思う。僕の場合、一時的なものではないのだろう(母も気分の浮き沈みがもの凄く大きいタイプなので、遺伝的な何かがあるのだろうと思う)。
一番ヒドかった時期は…、30代半ば頃だったろうか? 毎日朝からお酒を飲んで「死にたい死にたい」と思っていた(これは本当は逆で、起きていると(意識があると)「死にたい気分」に苛まれるので、とにかく酒を飲んで寝てしまおう(意識を失くそう)、としていたのである)。
その後、「あれ? 治ったんじゃないか?」と思ったこともあるにはあるのだが…、今でも1〜2年に1回くらいは猛烈な鬱状態に陥ることがある。そのたびに「これは明らかに病気だ。まだ治ってない」と再確認させられる(だって、理由もないのに死にたくなるんだから!)。
その一番ヒドかった時期、とにかく起きている(意識がある)間中ずっと「死にたい死にたい」、しかも毎日そういう気分なのだから、何とか「生きる理由」「生きるに値する人生の喜び」を探そうとモガいていた。そうして見つけたのが、僕の場合は「(何かを)理解する喜び」だった。
これは誰でもそうだろうと思うのだが、ナゾナゾの答えを思いついて「わかった!」となったとき、それまでのモヤモヤが晴れてスッキリ爽やかな気分になるだろう。僕の場合、これが「生きる喜び」なのである。逆に言うと、それは僕にとって「唯一の生きる喜び」なのだから、もしそれが感じられなくなってしまったら、もう僕には「生きていく理由」は何もない、ということになる。
僕が本当に不幸だと思うのは、僕はこんなにも「(何かを)理解する喜び」に価値を見出している人間なのに、僕の理解力自体はかなり乏しい、ということだ。「理解したい」のに「理解できない」のである(「眠い」のに「眠れない」に似ているかもしれない)。こんなにツラいことはない。
その、ただでさえ人並み以下の僕の理解力は…、年齢を重ねるごとに落ちていった。ここ数年は本当に情けないくらいで、一般向けの新書、しかも比較的よく知っている分野の本を読んでいても、書いてあることを理解し、適切に位置付けて記憶する、ということができなくなってきたため、前日に読んだ本の内容すら全く憶えていない、という事態すら起こるようになってきた。前日の続きを読もうとして、前夜読んだ章を読み返してみると、内容にまるで見覚えがないのである。まるで、今日初めて読むように。
そういうことが去年くらいから頻繁に起こるようになって、そうか、俺はもう何も理解することはできなくなってしまったのか、「(何かを)理解する喜び」はもう一生味わえないのか、と諦めなければならなかったのが、だいたいこの1カ月間の話なのである。
それで…、「唯一の生きる理由」がなくなって、いよいよ絶望、これでもうこの世に未練も何もない、はいさようなら、という気分になったのか、と言うと…、全然違うのだ。極めて「楽」なのである(笑)。
もう何も理解できない、ということは、逆に言えば、もう何も理解しなくてもよい、ということだ。もちろんこれは論理的にはオカシいけれど、僕の場合、「もう何も理解できない」という事実を受け容れたら(それは、もう受け容れるしかなかった)、開き直ってしまったのである。
そうしたら、これがもう、無茶苦茶楽なのだ(笑)。もう俺は何も理解しなくていい。たったそれだけのことがこんなに楽だとは! 逆に言うと、ここ10年間くらい「『(何かを)理解する喜び』だけが、自分にとって『唯一の生きる理由』だ」と思っていたことが、自分自身に「(何かを)理解しなければ」という猛烈なプレッシャーを与え続けていたのかもしれない。普通に生きていけないくらいに。
と言うワケで、これは9月に入ってからかなぁ、無茶苦茶気が楽になった。そして、(オカシな話なのだが)人生について少し前向きな気分になってきたような気がする。自分で自分を縛りつけていたある種の呪縛から逃れられたのかもしれない。
世間一般的には、「『僕はもう何も理解しない』、そう開き直ったら、生きていく希望が見えてきた」というのは、何か納得のいかない話だろうし、「『もう何も憶えなくていい』と思ったら、『普通に生きる』気力が湧いてきた」と言えば、「普通に生き」てきた人たちは「人生ナメんなよ」と憤るのかもしれない。
そりゃそうだろうとは思う。そうだろうとは思うけれども、僕の場合、「もう何も理解しなくてもいいのだ」と思ったら、もの凄く気が楽になって、「生きていく理由」「生きていく喜び」がなくても構わないような気分になってきた。実際のところ、それがここ1カ月ほどの僕の身に起きていることなのである。

0