昨年2011年10月分の日本経済新聞「大機小機」(マーケット総合欄コラム)を一気に読んだ。
僕の評価は○△×の3段階。「○」が「優」「良」、「△」が「良」「可」。「×」が「不可」といったところ。判断が難しいのが「良」で、「○」にするか「△」にするかいつも迷う。この月は「×」はなかった。
2011/10/01(土) ○ 「太平洋通貨協定を目指せ」(富民)
2011/10/04(火) ○ 「『市場の時間』と『政治の時間』」(横風)
2011/10/05(水) ○ 「中国経済はアンカーになれるか」(一直)
2011/10/06(木) ○ 「価値破壊企業はどこだ」(癸亥)
2011/10/07(金) ○ 「円高を恐れるな」(越渓)
2011/10/08(土) △ 「もはや限界の公的債務」(陰陽)
2011/10/12(水) △ 「復活したケインズの不確実性」(文鳥)
2011/10/13(木) △ 「教育と経済」(与次郎)
2011/10/14(金) ○ 「消費者被害の救済制度と企業」(腹鼓)
2011/10/15(土) ○ 「政治における『不可能な三位一体』」(隅田川)
2011/10/18(火) ○ 「『円高性善説』への疑問」(カトー)
2011/10/19(水) ○ 「残された地域独占体制」(パピ)
2011/10/20(木) ○ 「BRIICsなのでは」(手毬)
2011/10/21(金) ○ 「『TPPおばけ』の正体」(追分)
2011/10/22(土) ○ 「資本主義の歴史的転換期」(渾沌)
2011/10/25(火) ○ 「TPPと日中韓の結合を」(無垢)
2011/10/26(水) ○ 「長期投資家と証券市場」(猪突)
2011/10/27(木) ○ 「ユーロの政治的試練」(喬木)
2011/10/28(金) △ 「パックス・いずこにもあらず」(一礫)
2011/10/29(土) △ 「財政・金融の21世紀型協調」(恵海)
2011年10月分の「大機小機」20回全体の印象は、「粒揃いだが、どれも小粒」というもの。「ダメだこりゃ」というものはなかったが、「これは!」と思うようなものもあまりなかった。テーマとしては、「ユーロ危機」が3回、「超円高」「TPP」が2回ずつ取り上げられていたが、あとは、世界経済、新興国経済、政策運営、財政問題、金融・証券市場、企業経営、電力業界、消費者訴訟、秋入学、と広く散らばっており、何と言うか、無難な論述が連日続いていた。
逆に言うと、11月以降、皆同じようなテーマで書いていた、とも言えるのかもしれない。11〜12月は「ユーロ危機」、今年に入ってからは「貿易赤字」「財政問題」「社会保障と税の一体改革」辺りが繰り返し取り上げられている印象。似たようなテーマが続いた方が、ピリッとした論述と紋切り型の論述との差が出やすいように思う。
この月で面白かったのは、10月18日分の「カトー」氏による「『円高性善説』への疑問」が、10月07日分の「越渓」氏による「円高を恐れるな」に対する反論、それも真っ向からの反論になっていたこと。直接引用・言及こそしていないものの、「カトー」氏による論述は「越渓」氏の論述を念頭に置いて書かれたものだと思われる。まるでディベートのように、論点を1つ1つ覆しているのだ。
残念ながら、「越渓」氏のこの次の記事(2011年12月07日「経済復興のマクロ的条件」)は「カトー」氏に対する再反論とはなっていないため、「誌上討論」には発展していない。また、「カトー」氏による次の記事(2011年12月15日「ユーロの選択肢と日本への教訓」)も「越渓」氏とはテーマを変えている。
僕がまとめて読んだ2011年10月01日から2012年03月17日までの「大機小機」では、「カトー」氏は3回、「越渓」氏は2回しか執筆していない。この5回分の記事に対する僕の評価は全て「○」で、2人ともシッカリした論述をする人、という印象を抱いている。
政治・経済問題に関して難しいのは、今回のように真っ向から対立しているように見える意見であるにも関わらず、僕にはどちらの意見にも一理あるように思われることだ。どちらも正しいのかもしれないし、どちらかが正しくてどちらかは間違っているのかもしれない(あるいは、両方間違っているのかもしれない!)。僕にはその判断もつかない。
「越渓」氏による「円高を恐れるな」の主旨は要するに「円高が常に悪いとは言えない」ということだと思う。それに対して、「カトー」氏による「『円高性善説』への疑問」の主旨は「だからと言って『円高が良い』とは言えない」ということだろう。これはどちらも正しい。しかし、これは僕が無理やりこうまとめてしまったからどちらも正しいのであって、それぞれの記事で述べられている個々の論点について言えば、やはりどちらかの意見が正しくてどちらかの意見は間違っている(そこまでハッキリ白黒つけられないにせよ、やはりどちらかに「軍配を上げる」ことはできる)のだろう。難しい…。難しいよ、ワトソン君!
以下は「ついで」の話だが、「『円高性善説』への疑問」を読んでいて
、「ストローマン論法」という言葉を思い出した。「ストローマン論法」とは、相手の意見を歪めて(矮小化して)引用し反論するような論法で、要するに「言ってもいないことに反論する」というやり方だ(上のリンク先に典型的な例が出ている)。両者の意見を両方聞くことができるのであれば、ストローマン論法を用いている方が論点をすり替えていることは明白であり、評価が下がるだろう。ところが、相手がその場にいないような場合、ストローマン論法は非常に有効だ(だから、政治家の講演などでは非常によく使われている)。何しろ反論自体は正しいのだから(間違っているのは引用の仕方だが、相手がいない以上そのことはわからない)、卑怯な論法を用いていることに誰も気づかない。
「カトー」氏がストローマン論法を用いている、という意味では決してないのだが、僕は「『円高性善説』への疑問」を読んだとき、この著者の言っていることはモットモだと感じ、明らかに間違っているハズの「円高を恐れるな」を読んだときに何故自分がそれをオカしいと感じなかったのか不思議に思った。そこで、「円高を恐れるな」を読み返してみると、「カトー」氏による「円高性善説論者の言い分」は「円高を恐れるな」の論点を少しずつズラしたものであることに気がついた。だから、「『円高性善説』への疑問」を読んだ後で「円高を恐れるな」を読み直してみても、やはりオカしいとは少しも感じなかった。
「ストローマン論法」を用いない、ということは非常に難しい。これはこの言葉を知ったときからそう思っていたのだけど、他者の意見を自分なりに理解しようとするとき、その意見そのものを自分の中に取り込むことはできない。多かれ少なかれ歪めて(単純化して)取り入れるしかない(複雑なものを(自分の世界観に沿うような形に)単純化するというのは、「理解」の本質だと思う)。だから、何かを理解してそれに言及しようとするとき、それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、必然的に「ストローマン論法」の色合いを含んだものにならざるを得ないのだと思う(「やり込めてやろう」という意図とは無関係に)。
ちなみに、「ストローマン」とはワラで作った人形(藁人形!?)、たぶん「カカシ」のことだろうと思う。正当な反論に聞こえるが、実は本物の相手ではなく、都合良く仕立て上げられた架空の相手に対する反論に過ぎない、というニュアンスなのだろう。
さて、恒例の執筆者ランキング、相変わらず僕の中では「隅田川」「一直」「追分」「渾沌」「富民」といった執筆者の評価が高い。この先頭集団の後に控えているのが、「カトー」「癸亥」「逗子」「六光星」、更には「横風」「手毬」「喬木」「無垢」「吾妻橋」「花山裏」といった面々。ただ、先頭集団は執筆機会が与えられる頻度も多く、「The rich get richer.」じゃないけど、読めば読むほど後続集団との差が開いていく傾向がある。次に誰がこの第2集団の中から抜け出してくるのか…、楽しみにしている。

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