先月号のミュージック・マガジン紙では「CDはなくなるのか?」という特集をやっていたようです。何人かのお客様から「おもしろかったよ」と聞いたとき、すでに店頭では売り切れ状態のようで僕はまだ読んでおりません。
読んでおりませんが、音楽ファンであってそのものをズバリ扱っているわけですから僕の頭の中は実はいつも「特集なになに」です。それはいつでもミュージック・マガジンへ特集の題材を提供できるような、楽音舎という小さな一店舗の小さな悩みのようでありながら、イコール音楽業界全体を含む「どうしてなんだろう」的不安なのかもしれません。
そんなわけで、僕が素直に正直に思ったことを今日から時々綴ってみようかなと思います。
「ダウンロードへの移行」
よくよく考えてみれば、本来なら喜んでもいいほどの技術的進歩です。
振り返れば、僕が一番聴きたい物がありすぎた中学から高校時代のあの頃を考えればこれほど便利な道具はありません。
自宅にいて好きな音楽が選べるのですから。
レコ屋へ行って遠慮しながら視聴をお願いすることはないのです。
しかも軽量、コンパクト。
その物自体がでかいオーディオで鳴らすことが前提でなければ間違いなく高音質マシン。
しかも音楽は他所から家に飛んでくるのだ。
いやー、ほんとうにありがたいことじゃあないの。
思い出すのはウォークマンが登場したあの瞬間。
高校生の僕はその小さな弁当箱のようなものから一日も離れることはなかった。
当時はテクニカルな音楽が好きでスティーリー・ダンやマンハッタン・トランスファーなどを一日聴いていた。
(カセットのウォークマンってまだ作っているのでしょうか?)
僕は二十数年前、こんなに小さいヘッドフォンなのに低音も出る。
音がいいや!
日本人ってすげ〜
って思ったものです。
ただ・・・音楽ソースだけは今ほど収集が楽ではなかったのです。
レンタル屋の登場はまだ・・・弟子屈町では(今でも無さそうだが)。
そしてその直後
CDが登場したのは81年。
弟子屈町に住む僕は親しくしていた楽器屋さんのご自宅でCDプレイヤーを拝んだ。
縦型でガラス越しに回っているCDが見える。
楽器屋のおじさん、ちゃっかりモニターになっちゃったらしい。
「いやー、おじさん。CDってこんなに早く回るんだね」
だけど「しゅるしゅるしゅるしゅる」というモーターの回る音の方が気になっていた。
「だけどこんな小さな盤に音楽詰め込めるようになったなんて、音楽の将来は楽しみだね」
おじさん笑っていた。
誰もが新しいものはありがたい。偉いと思っていたように思うあの時代。
少なくとも若い僕は古いものの良さを認識する前に技術の効率的進化への憧れがあった。
ギターに夢中になっていたあの頃は丁度楽器の進化もみられた時期だった。
シンセサイザーの普及機の登場を含めてテクノロジーは身近になってきた。
今思えば、未来は夢だらけという実に人間的創造を頭の中で繰り返していた。
将来的に公害になるかもしれない要素を音楽の道具に見出すことを誰がするものか。
多分、今も昔も。
工業製品と同じように、どこかで不可解で不愉快に「それ言わんこっちゃない」と、まるで新しい音楽の道具達が公害を生んでしまったかのように今の音楽を捉えていると今度はどうなるのか。
もとに戻ってみるべきなのか・・・それとも使い方を考えてみるのか。
僕は今日の仕事中もいらつく重低音、金属音のような高音から逃れるようにそれらを迷うことなく特価CDとし、本来在るべきライヴな音に非難場所所を求め、自分の中の娯楽のスタイルを探っていくのだった。グローバルで宇宙的な発想ができればいいのだが、好きなものが心にすっと入ってきているときは他人なんかどうでもいいのだ。
それらの音楽は皆、一途に「俺はこれを一生聴き続けるぞ」という天国のような世界なのだから。
そして楽音舎では、それらをこの場所から配信するという日常を繰り返しているのだ。
遠慮しながら「ちょっとだけ聴かせて」の人もいれば、「これはなんですか?・・・ジャズ・ポリスです!」と昭和なスタイルを普通に過ごしている。

0