<日本語版“Tourne La Page”> ルネ・シマールは指を組んだ。彼が1974年における成功と同じように成功するというのは、おそらく彼が、日本語で“Tourne La Page”を録音するであろうからだ。それはナタリーにとっても同様に大きな出発点となる時であろう。確かにこの日本の取り引きを無視するべきではない。人々は、彼が、1974年に歌った“Non Ne Pleure Pas”の日本語版「ミドリ色の屋根」で、百万枚以上のレコードを売り上げた歌手であることをすぐに思い出すだろう。ルネとナタリーのビデオ・クリップを、日本での重大な取り引きの場で示す時なのだ。
より大きな発展を目指し、ルネは日曜日の番組出演に向けて集中した。彼は1974年の成功について、他の理由から話す予定である。その特別番組を観るテレビ視聴者は30万人になることだろう。
ルネは、日本に8日間滞在する予定である。彼の傍らで彼自身の経歴と共に、成功を知っているマリー=ジョゼは、その間、彼に同行しない。それは、夫婦は別個という最初の約束だからである。彼女は、彼のためにとても幸福であり、彼の帰りを待ちかねている。
1987年8月8日に結婚したばかりの新妻マリー=ジョゼは、2人の結婚の最初の約束で、同行しなかったとのこと。また、この番組のプロデューサーかディレクターと思われるKato Hudjuとは誰なのか? 日本のショー・ビジネスの重要人物とありますが、少なくともフジテレビの社長ではないようです。「フジテレビ系番組製作会社の加藤氏」といったところでしょうか?
この記事は、「ミドリ色の屋根」を作曲した村井邦彦氏の招きにより、ルネが日本での活動を再開させると信じている書き方でした。しかし、この来日で、私が知る限りでは、ルネのカナダの歌が紹介されることは無かったし、これ以外の番組に出演することも無かったと思います。もちろん、ルネとナタリーの“Tourne La Page”が日本語に訳されたり、日本でリリースされたりした事実はありません。また、クルティエ氏が村井邦彦氏と偶然会ったというカンヌ・グランドホテルが、国際音楽見本市の会場だったと推測すれば納得出来ます。1975年の3回目の来日の帰りに、ルネはこの見本市に行っていました。
この記事から推察すると、ルネは、日本でナタリーと一緒に活動を再開し、ALFAレコードから日本語で“Tourne La Page”をリリースする計画でビデオ・クリップを持参して、その取り引きをするために来日したのだと思います。前出の番組はそのデモンストレーションとして出演したのでしょう。しかしながら、日本側とカナダのギー・クルティエ・プロダクションとの間には考えの行き違いが有ったのだと思います。また、1987年当時、もちろん今現在でも、日本では男女のデュエットはあまり見かけません。「夢をもう一度」企画だったナタリーの日本デビューが空振りだったこともあり、ルネとナタリーのデュエットは、日本でヒットが見込めないと判断され、実現には至らなかったのではないかと思います。これは私の憶測でしかありませんが…。ちなみに、この番組は夜7時からの2時間番組でした。
ルネ友のみなさまは、この新聞記事を読んでどう思われましたか? 私は、ルネとナタリーが日本語で歌う“Tourne La Page”を是非聴いてみたかったです。
<追記> ルネからのイースターのメッセージ(原文と画像) Joyeuses Pâques à vous chers amis!
Je vous souhaite une belle journée pleine d'amour... et quelques gâteries spéciales pour les gourmands comme moi!
親愛なる友人たち、幸せなイースターをお過ごしください!
私はみなさまに愛に満ちた美しい1日と…私のような美食家(食いしん坊)のための特別なお菓子を望みます。(直訳)
Joyeux anniversaire!
Je vous souhaite beaucoup de bonheur.xoxox
3月9日はルネの兄レジス・シマールの56歳の誕生日です。
現在レジスは、妹ナタリーが経営する砂糖小屋Cabane chez Nathalieのステージで、歌ったりギター演奏をしたりしています。ナタリーが「家族の夢」と言っていたこの砂糖小屋は、今のところ経営も順調のようです。ナタリーが経営に失敗したブティックのイベントのステージでは、ルネとナタリーの娘エーヴの4人で歌っていたのですが、この「家族の夢」の家族の中に、ルネがまだ含まれていないのはちょっと寂しいです。早く兄妹で同じステージに立てるようになると良いですね。