嗚呼、わが新制中学校
「人間万事塞翁が馬」
久しぶりに盛岡の街を散歩していた時に、「中学校」時代の「同級生」である「H君」と出合いました。
二人は、「中学校」を卒業して間もなく、盛岡の繁華街にある「酒屋」に勤めていたことがありました。
その時以来の出会いでした。
二人の間には、「何十年」もの「時間」が存在しているのですが、いつしか「二人の心」は「酒屋時代」に帰り、さらには「中学校時代」へと戻って行きました。
二人が「中学校」へ進学したのは、「1947年(昭和22年)」の4月でした。
この年、それまでの「学校教育制度」から、戦後の「新しい学校教育法」が施行された年でした。
この「学校教育法」によって「6・3制」が布かれ、「小学校が6年」、さらに「中学校が3年」が「義務教育」として生まれ変わっております。
二人の「中学校」も、「新制中学校」として新たに発足したものでした。それがまた、全てが「俄か造り」のものでした。
まず「中学校」の校舎ですが、その当時の「盛岡商業学校」の「一角」をお借りしたものでした。「学制」が「変わった」ことによって、「盛岡商業学校」に入学する生徒がなくなっていますから「教室などの施設」が空いてしまったのです。
そして、「中学校」の「校名」ですが、「盛岡商業学校併設中学校」という極めて「曖昧模糊」としたものでした。
「盛岡商業学校」の「施設」を利用しているための「校名」と思われますが、ややもすれば、「商業学校」の組織に組み込まれた「中学校」と「誤解」されかねない「校名」でした。
さらに、この「中学校」の「学区割り」ですが、「城南小学校」と「大慈寺小学校」の「男子卒業生」だけを、そのまま「合併」したものでした。
久しぶりに出会った二人は、時のたつのも忘れて「酒屋時代」のことから、「中学校」のことなど話し込んでしまいました。
そんな話の中で「H君」は、「盛岡商業学校併設中学校」に入学したことが、
「良かったような気がしたンだよな・・・」。
と言うのです。
「H君」は、一緒に働いていた「酒屋」の「店員」から、有名な「時計メーカー」の「工場」に就職しました。
しかし、いかに「一流企業」でも「機械」を相手にした仕事は「性に合わなかった」とのことでした。
親の反対を押し切って「一流企業」を退職し、その当時、新たに出来た「百貨店」に「就職」したとのことでした。
「俺は、人を相手にした仕事が楽しくて」。
機械工場の一員にすえられて仕事をしている時に、「酒屋」で働いている時のことが思い出され、「懐かしく、悲しくて」。
「何度も酒屋に戻ろうと思った」。
とのことでした。
幸い、新しい職場は「H君」に「ピッタリ」でした。「仕事」にに恵まれ、そこで「メキメキ」頭角を現したようでした。
それが「盛岡商業学校併設中学校」と関係がありそうだ、とのことなのです。
「俺のように中学校だけの者にとって『商業』と言う文字の入った学校は、何となく誇りに思えた・・『商業』とは関係がなくてもサ・・・・」。
「百貨店」は「女性の職員」が多い職場だった。
「H君はどこの中学・・」。
先輩の「女性」から良く聞かれることがありました。
「入ったのは『盛岡商業併設中学校』です。ただし、卒業したのは住吉中学校です」。
と答える。
それを聞いた相手は、
「盛岡商業・・・」。
と必ずと言ってもいいほど、聞き返して来ました。
「いいえ盛岡商業学校に併設された中学です・・」
などと答えるのだが、相手には「良く理解できず、『商業』のイメージが残るらしいい・・」のです。
「この所為」で 「何かあれば」まずもって
「H君、H君・・チョット手伝って・・」。
と呼ばれた、と思っていたようでした。
しかし、「H君」は「何かと気が付く、そして動く」。それが「酒屋時代」でも「アタリマエ」のことでした。
ですから、「先輩にも、後輩にも好かれ、頼られる」のが「アタリマエ」なのです。
「それは中学校の所為じゃなくて、お前の人柄だよ・・・酒屋のお客にも喜ばれていたもの・・・」。
「・・・・・」。
「H君」は無言でした。
「ところでお前はどうだった・・・あの中学校・・」。
「H君」が、私に聞き返してきました。
そう聞かれて、私は困ってしまいました。
と言うのは「中学校」を卒業する少し前ですが、ある銀行で「給仕」の募集がありました。
家族の進めもあり、「応募」することになったのです。
「給仕だから試験もないから・・」。
と言うことでした。
その銀行というのが、盛岡に「新たに設立される銀行」でもあり
「銀行員」を採用するついでに、若干の「給仕」も採用するとのことでした。
「とりあえず履歴書を出して置け」。
と言うことで、私は早速、「履歴書」を書きました。
記載する項目も「学歴」の欄だけでした。
「盛岡商業学校併設新制中学校入学」と「記載」し、
「卒業予定」として、「住吉中学校」として提出しました。
ところが「銀行」から来た通知によりますと、「採用試験」を受けるようにとのことでした。
「なんで・・・給仕なのに・・」。
試験は「盛岡商業学校(その当時は「盛岡商業高校かな)」でした。
さてその当日のことです。
配られた試験の問題を見て驚きました。
全ての問題が、「商業簿記」など、「商業の専門」に関するものだったからです。
「何か間違っている・・・これは給仕の採用試験じジャなくて『銀行員の採用試験じゃないか・・」。
愕然としながらも「名前」だけ書いた「テスト用紙」を提出したものでした。
試験の結果はもちろん「不採用」でした。
どこで「誤解」されたのか、はっきりしたことは分りません。がどうやら「履歴書」の「盛岡商業学校併設中学校」の辺りで、「誤解」が起こったとしか思えないのです。
この時の悔しさは「今でも忘れられない」ほどです。
「テスト」が終わった後の、「受験生」の「笑いとざわめき」。その中で「唇を噛み締めて」耐えるしかなかったのです。
しかし、私の「心の中」では、「大きなうねり」が「のたうち廻って」いました。
「高校に進学しよう。高校に進学して勉強でしよう・・」。
この時、初めて「高校進学」を目指す決心がついたのです。
そして、以前に「体育」の「五郎先生」に言われた言葉を思い出していました。
「五郎先生」は、
「高校には、定時制もあるんだし、働きながらでもいいんだから、高校の進学を考えて見なさい」。
と言われていたのです。
その時点では
「そんなことを言われても、とても無理・・・」。
と思っていたのです。
しかし、この時は違っていました。
心の底から熱い「マグマ」が押し上げてくるのです。
そして「五郎先生」に感謝しました。
その当時の「先生」ときたら、「民主化」をどう「曲解」したのか、「自分達の保身だけに」に「身も魂」も捧げていたものでした(そのように見えたから)。
余談になりますが、私の知る「ある先生」は、
「こんな運動ばかりしていても、人々(農民)が飯を食えない。貧乏で飯も食えない子供達を救うのが先だ・・」。
として、「教員」を退職し、「地域の農民活動」に尽力した「教師」もおられました。この「先生」のおかげで、ある地域の「農村経済」が飛躍的に向上したものです。
さて、「高校進学」を決めたものの、困ったことがありました。
「高校の試験科目」に「英語」がありました。
ところが、私は、「英語の授業」をほとんど受けていなかったのです。
と申しますのは、学校の方針によって、「進学」するものと「就職」するものを区別して教育したものです。
「進学希望者」には「英語」の授業を行いますが、「就職希望の生徒」には「英語」の授業に変わって、「職業課程」の「授業」になりました。
ですから「英語」の授業のときには、「就職希望」の生徒達は「コソコソ」と「奥の教室」に移動し、「就職」のためと称して「如何でもいいような授業」が行われていました。
私も当然のことながら、就職する予定ですから、「職業課程」の授業を受けさせられたものでした。
高校受験までまだ「何日」かあります。詳しいことは覚えていないのですが、先生にお願いして「英語の教科書」を「1年生から3年生」まで、「3年分」をお借りしました。それを独学で勉強しました。
「受験」する高校は「定時制」です。
「受験」の結果は、どうにか「合格」することができました。
合格発表の日です。家に帰りますと、
「合格おめでとう」。
と祝福してくれました。
高校の合格発表を「ラジオ」で聞き、「お祝い」を言ってくれたのです。
「H君」は、
「それが『人間万事、塞翁が馬』なんだよナ・・だから人生、おもしれエ・・」。
と呟きました。
私らの「新制中学校」とは、「多くの謎に包まれた中学校」だったのです。
(続く)

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