百一物語
「隣の雄牛が夜這いした話し」
「百一じいさん」から連絡があり、本村の「立花じいさんのところの和牛が難産だ、すぐ行って見てやれ」との連絡が入っりました。
本村は「百一じいさん」の出た村であり、「百一じいさん」はこの村から開拓に入ったものです。
「百一じいさん」からの頼みでもあり、急いで駆け付けました。見ると、小柄な和牛がお産の途中であり、しかも、疲労のために横になったまま動かない状態でした。胎児を包んでいた胎膜もかなり前に破れたと見え、陣痛もなく産道が萎縮し、乾いた感じに見えました。
取りあえず手探りでの胎児の触診を行う、胎児はすでに死亡していました。「それにしても胎児が大きい」のです。
「胎児は死亡しています。それにしても大きな胎児だな」。
「そんだべ」。
「立花じいさん」は何か覚えがあるらしい。
「ホルスタインの子だから」と言うのです。
しかし、今は、そのような議論の暇がありません。
取りあえず胎児を取り出し母体を助けないと。母体を助けるためには「載胎術]しかないと判断しました。母体に入った状態で胎児を分割する手術です。
指にメスを装着し、胎児の肩から皮膚を開き、前足を肩から外しました。母体の子宮も萎縮の状態でメスを持った手を強く締め付け、手が疲労で動きが悪くなる。胎児の前脚を外し、母体を傷付けないよう、胎児の切断部位を皮膚で包み、静かに胎児を取り出します。胎児の処置が完了し、母体には「補液」の静脈注射を完了しました。母牛は静かに立ち上がり、「立花じいさん」の奥さんが作った「味噌湯」を静かに飲んでいました。本来であれば、お産の後は母牛に「味噌湯」、子牛はオッパイを、ともに飲むのがこの地域の習わしなのです。
「立花じいさん」は、
「はだ(母牛)が助かっただけでもありがたい」。
と言ってくれました。次には、親子で「味噌湯」を飲めるはずです。
さて、この話しは、1955年頃のことです。
この頃の畜産は、「畑の堆肥のために牛を飼う」農家が多かったものです。いい言葉では「有畜農業」と言い、家畜と畑作農業を結びつけたものでした。そうした反面、「糞畜」などの呼び名もありました。
牛だけでは儲からないための苦肉の策にも見えたものでした。
このような訳で本村のような畑作地帯の農家では、1・2頭の牛を飼育していたものです。
しかも、その牛は、なぜか「ホルスタインや短角種」の「雄牛」でした。
雄牛は、若牛の頃までは良いとして、成熟しますと「肉に雄牛の匂い」がしてきます、また、「肉の繊維も荒く」なり、取引価格もとんでもなく安くなります。このために幼い頃に「去勢」によって「睾丸」を摘出します。
しかし、当時のこの地域の農家では、去勢をすると「肩肉が付かない、発育が悪くて面白くない」と言って去勢をしないで飼育する農家がほとんどでした。
たしかに、フランスなどでは、効率的な肥育技術として、「去勢をしないで肥育する」、「タマツキ肥育」方式が行われています。「雄の匂いが出る直前に肉として利用する方式」です。発育が早いので、肥育の効率はいいのですが、日本では、肉質への拘りが強く、この方式での生産はほとんど行われていないと思われます。
後で分かったことですが、去勢をしないもう一つの理由として、「闘牛」の盛んな新潟県などから、闘牛用の雄牛が欲しくて業者が買いに来ていました。どうやらその牛の価格が「法外の価格」で取引されるために、それも大きな魅力のようでした。
しかし、闘牛用の牛の取引はほんの僅かですから、去勢して、本来の肉牛生産を行うのが本筋ですが、高く売れることもある方を選択していたようです。
そんな折、「立花じいさん」は、和牛に目を付けました。
わざわざ和牛の産地から、雌の若牛を導入したのです。
その当時の「和牛」は改良も進んでいなっかったため、極めて小型な体型でした。
ところが、その若い雌牛を狙って、隣の「タマツキのホルスタイン種」が乗っかってしまったのです。
しかも、これ「イッパツ」で「妊娠」するなど「立花じいさん」もウッカリでした。 何しろ「250対650キロ」ですから。
炉辺に案内され、差し出されたのは、
「甘酒でがんす」。
一口すすると「甘く、酸っぱく」口当たりの良い飲み物でした。
「ははァ、これがあ・ま・ざ・け、効きそうだな」。
ただし、
「有線で、軍艦マーチが鳴ったら、みんな捨てやンス」。
「立花じいさん」の奥さんが小声で呟いていました。
幸いなことに、この日は、有線で「軍艦マーチ」が鳴り響きませんでした。そして、いつの間にか「百一じいさん」も甘酒飲みに加わっていました。

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