百一物語
「狐と狸の化かし合い、熾烈な集乳合戦の話」
先日までは「牛乳の過剰生産」で牛乳を捨てるニュースが報じられていたのですが、4月9日(今日)のニュースでは、バターが足りなくなったとのこと、「生産調整」で牛を淘汰しすぎたためのようです。バターを原料にしている「パンなど、食品の業界」では困っているようです。
このような話は、昔からあったものです。
まだ繰り返されているのか,とあきれています。その度に「酪農家」は苦しめられているのです。
さて、この話は、1961年頃の話しです。
ようやく「酪農」も定着しかかって来たのですが、それとともに「今までになかった、いろいろな問題」も吹き出してきました。
まず、牛乳の「生産過剰」と「牛乳の不足」と言った問題が起こり始めました。と言いますのは、この当時の牛乳は、「飲料水」とか「嗜好品的」な存在であり、気温とか天候によって「牛乳の消費」が大きく左右されました。
暑い夏には、牛乳が不足し、「寒さ」が来ると消費が「減少」します。
その「需要と供給」のバランスは、「ほんの数パーセント(その当時は、2から3パーセントの変化とのことであった)」でした。これによって「過剰」だから「生産調整」とか、「不足だから生産拡大」と言ったことが「酪農家」の責任のように言われたものです。
特に、この当時の特徴として夏場の「アイスクリーム」の消費が伸びて来た頃であり、夏場には牛乳がいくらあっても不足するのです。しかし、冬場には大量の牛乳が余ってしまうのです。この結果、時には牛乳を捨てたりしました。
さらに「酪農家」を苦しめたのは、「牛乳の価格(生産者の手取りの価格)」が安いことでした。
これで、経営がうまく行かない酪農家も出始めたのもこの頃からです。苦労して開拓した農地を手放して「出稼ぎ」に出る人々もいたものです。
ですから、各乳業会社は、夏場の牛乳を求めて、「酪農家の牛乳」をめぐって熾烈な戦いが展開されたものです。
これによって、一部の人間でしょうが、「地域のボス的存在の人」が「しこたまふところ具合を肥やした」との噂も出ていたものです。
いつの時代も「農民」には、「生かさず殺さず」の政治であり、「犠牲」は農民に押し付けられていたように思われます。
ここに昭和37年4月13日の「第40回国会農林水産委員会」の議事録から、「集乳合戦」の一部を抜粋しました。「夏場の問題ですが、牛乳が足りない足りないと言って各メーカーが自分のナワ張り争いをやっている。メーカー間の紛争、その間に酪農協同組合のボスがしこたま懐具合いを肥やしている(省略)」。
とこんな按配でした。
さて、しばらくぶりで「百一さん」を尋ねました。
「いや、よぐ来た、まず入れ、キツネの話を聞かせるからよ」。
とのことでした。キツネの話しをしたくてウズウズしていた処のようでした。
そしてまた、この当時は、「キツネに化かされた話」はどこにでもはゴロゴロ在ったもので、山里に暮らす人々は「キツネに化かされた話し」を、ニコニコ笑いながら、「楽しげ」に話していたものです。
「きれいな姉ちゃんキツネに化かされたンだべ」。
「いやいやモット面白え、キツネが来てよ、まず、聞け」。
「百一さん」の話によれば、先週の夜も更けた頃だと言う。
「トントン」と戸を叩く音がしました。
戸を開けると、隣村の農協の組合長が子分を引き連れての来訪でした。
顔はどうにか知っているものの、話をするのは始めてでした。
炉辺に座った組合長は、
「ほかでもネーけど、牛乳の出荷のこどで、相談に来たんだが、今度がら、青森県にある乳業メーカーが岩手の牛乳を欲しいということで、少しまとめるべと思って来たんだが」。
話の筋書きは、この集落の牛乳を纏めて、青森の大手の乳業メーカーに出荷出来るようにならないものか、出来れば「百一さん」が纏めてくれれば「謝礼」はそれなりに出すから、と言った内容のものでした。
百一さんは驚きました。
地元には、「酪農工場」があり、地元の若い人間が沢山働いているし、酪農家にとっても酪農工場が近くにあるために「安心」して牛乳を生産できるのです。
時には、牛乳の価格が安かったり、牛乳の生産調整で「赤い色」を牛乳に着けて捨てたり、このようなことが原因で「工場長」とも言い合いにもなります。しかし、それ以外は、特に問題になることもないのです。
「地元の工場には出荷しないでが」。
「1日の牛乳を、二つに分けて、一つは地元に、もう一つは青森にだせばよがんすべ」。
「そんたなごどしたら、地元の酪農工場はどうなると思って、潰れでしまうべ」。
「いや、地元の酪農工場も、牛乳が青森に持っていがれネように、高く買うんでねど」。
この組合長はどうやら「地元の産業」のことなど「ひとかけら」も頭にないようです。きっと「自分の利益」しか考えていないのでしょう。青森にある「大乳業メーカーの手先」になって、自分の「農協の管内」だけでなく、他の農協にまで入り込み、大事な地元を荒らしまわりっている。
「百一さん」は、「許せない、放ッておけない」と思いました。
ふと顔をあげた「百一さん」の目に写った、3人の顔は、なんと3人とも「耳が尖り、目が釣りあがり、顎の先が尖って」見えました。
燃え盛る炉の炎に、3人の影が怪しげに揺らぎます。
「そうか、こいつら、この前のキツネだな」。
この前のキツネと言うのは、百一さんの奥さんと、おじさんの3人で「放牧地に行った帰りのことです。
ヤマから沢伝いに下りてきました。間もなく「百一さん」の家に通ずる「街道」に出るあたりでした。あたりには、夕闇が迫って来ており、携帯の電灯を頼りにしながら歩いていた時のことです。
突然、沢の向こうで「オーイ」、「オーイ」と声がするのです。
3人は顔を見比べて、
「誰だべ、こんな時間に」。
「左太のやつ、まだヤマに入って出れネくなったンだべ」。
左太と言うのは、部落の若者です。前にもヤマに入ったまま、行方が分からなくなり大勢で探し出したことがあります。
「山仕事に疲れて、カヤに埋もれて寝てしまった」。
とのことでした。
3人は、沢を超えて声のするほうに向かいました。
「声ッコしたの、この辺りだな」。
声のした辺りには何もありません。
「百一さん」は「ホー ホー」と声を張り上げました、すると、今度は下のほうから 「オー」と返事がありました。
3人は、方向を変えて歩きました。
「ホーホー」と声をかけると、また別な方から「オーイ」と声がします。
(この話も、本当に在った話として、「奥さん」とともに、その時の状況を楽しく話 していました。)
3には顔を見合わせ、半ば笑いながら「チキショウ、まだ、ヤられた」。
やっと、「キツネの仕業」ときずいたのです。
*(迷信のように思えるかもしれませんが、この話も、「奥さん」と一緒に、「その 時の様子」を話してくれたものです。しかも、かなりの常識人ですから、山里に は、このようなことも、真面目に語られていたものです)。
こんなことがあった直後ですから、「百一さん」は、
「この前のキツネを見せてやるから、おじ貴を急いで呼べ」。
と奥さんに命じました。
さて、3人がそろったところで「百一さん」は立ち上がってこう啖呵をきりました。
「コラこのキツネども、さっきからだまって聞いてれば、牛乳を高く買うだの、儲けさせるだの、おまげに外国さ行くべすだの、この前も、おらだちを騙したのもお前たちキツネだべ、今晩はゆるさね、覚悟しろよ」。
その時には、奥さんも、おじ貴も、手には、棍棒を握っていました。
3匹のキツネは、慌てて素っ飛んで外に逃げて行きました。
「百一さん」は、牛乳を青森に出荷しませんでした。それでも、この周辺の開拓地からも、青森に出荷する酪農家が出たものです。
中には、「半分は地元の酪農工場へ、半分は青森に出荷する人もありました。
酪農家は、ほんの数パーセントの「牛乳の生産量」の変化によって「牛乳が生産過剰」であったり、「不足」になったりします、しかし、相手は牛ですから、不足と言われても2年の時間が必要なのです。
そして、今日も「バター」が不足だ、テレビでは騒ぎたてています。

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