稗のボッタ蒔きの記憶
「古代の農耕を思わす農法・見聞記」
私の母は、紫波町の生まれです。
北上山地よりの山間の集落ですから、水田と言ったら、「家の周りのくぼ地」にほんの僅かあるだけでした。
それも、何時も水を湛えた「泥田」であり、恐らくは、ほんの「一握りの米」しか収穫が出来なかったと思われます。
家の回りは、傾斜地になっていました。作られている作物と言えば、「タバコ」であり、「雑穀」でした。
家の前から続く乾いた道は、「クリ」の大木の生い茂る、暗い林につながっていました。得体の知れない生き物に襲われる錯覚、「林の小道」は何時もそんな不気味さを湛えていたものです。「クリ拾い」に行っても「母」の後ろをなぞり、早く帰りたいと心の中で「願った」ものです。
その所為なのか、「雑穀」と言えば、なぜか「夏イキレ」の中に静まりかえる「母のふるさと」が思い出され、「森」の持つひんやりとした「畏怖の世界」を思ってしまいます。
あの時、母と一緒に食べた「雑穀の味」は忘れ得ないものです。「こころ」なしか、少し元気の無い「母の顔」を横目にして食べた「雑穀」は「タカキビ」でした。「タカキビ」の団子を「小豆」に入れたものであり、別の名を「へっチョコ団子」と言っていました。少し赤みのある「モチ」はやわらかく、その舌触りは今でも鮮明です。この翌年の春に「母」は「黄泉」へと旅立ちました。
それに対し、「父の実家」は、水田地帯であり、「母の実家」とは対照的でした。目の前には≪水田≫が取り囲み、遠く盛岡の町が光って見えていました。食べるものと言えば≪何時でも≪白い米」であり、味噌なども≪身の丈より大きい桶の中に「何樽」も並んでいたものです。
そこで何気なく目にした光景なのですが、「米の文化」と「雑穀の文化」の違いであり、漠然とながら「水田地帯」と「山間地帯」の「大いなる」違いを感じていたようでした。
山間地で行われていた農業のなかで、「稗のボッタ蒔き」と言われるものがありました。
この農法が「いつの頃」から始められたのか、知る由も無いのですが、恐らく「農耕」によって「稗」を作り始めた頃の「弥生時代」から用いられたものと思われます。
そして、最後に「稗のぼった蒔き」を拝見したのは、1959年5月のことでした。
その当時は、すでに科学肥料の時代であり、「2000年も続いた伝統的な、そして長年の付き合いだった『下肥』を使う農法もこれで終わりかな」と言った予感のもとに関心を持って見たものでした。
さて、これから先、二度と行われる事の無い「農法」について、そのあらましを記載しておきます。
その当時の「畑を耕す」道具は「鋤」と言うものを使用していました。全体の形が「食器のフォーク」のような形で、女性の方などは「背丈」より大きいくらいの道具でした。
「柄の部分」を背に掛け、「フォークの先端」に相当する部位に「足」を掛けて押し付けますと、先端の「鉄の刃」が「土」を掘ります。このようにして、傾斜地を下から上に「鋤」を足で「踏み」ながら「溝」を作っていきます。
「女性」の方などは、自分より大きい「鋤」を使っての作業であり大変な労働だと思われました。
畑が耕されると、次ぎは「稗の種と下肥」を混ぜ合わせる作業に掛かります。
まず、「種と下肥」を混合するために「ボダ穴」を作ります。「ボダ穴」は、「一反歩(10a)」の畑に対し「直径で100から110センチ、深さは15から25センチくらい」の「すり鉢」のような穴が作られました。
内側は、鍬などで叩き、壁でも塗ったように滑らかにします。
この中に「七か、八部目」まで「下肥」を入れて、「どろどろ」の状態になるまでかき混ぜます。
なお、混ぜ合わせるための道具として「ひこ」と言われるものを使います。しかし、ごみなどが入っていますと、種子が均一に蒔かれないことになりますので、「ごみ」などは、手で取り除きます。
この中に「稗の種子」を入れて、再び混ぜ合わせます。
一反歩あたりの種子の量は、大きめの椀で12から13杯程度であり、これを「振り桶」に取り分けて蒔いて歩きます。
蒔き方は、「泥状の下肥」を手で掬い、「溝に振り下ろす」ことにより、溝の中に均一に「種」が蒔かれます。
種が蒔かれた後は、足で軽く土をかけ』更に足で踏み固めて「填圧」します。下肥と混ぜて稗の種子を蒔く効果ですが、
稗は下肥の肥料成分にも肥料負けしない(焼けない)。
水分の多い下肥の中で種子が乾燥しにくい。
下肥の肥料の成分に負けて「稗以外」の雑草は生えにくい。
まだ、効能があるかもしれませんが、「下肥」の特徴と「稗の種子」の特徴を上手く利用した「農法」だと思われます。
「弥生の頃」から行われ、「二度」と現れることの無い「農法」ですから知る限りを記載しておきます。

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