嗚呼、わが新制中学校
「6・3制」
盛岡の街を散歩した時のことです。
「中学校」時代の同級生である、「H君」とバッタリ出会いました。
「おー 久しぶりー元気だった・・」。
お互いに年は取っていますが、「あの頃」の面影が残っております。
「何年ぶりになる・・アレ以来だな・・」。
「アレ以来」というのは、「H君」とは「中学」を卒業して「間もなくの頃」に、同じ職場で仕事をしたことがあったからです。
その職場というのが、盛岡の繁華街にある大きな「酒店」でした。
その酒店には、3人の店員が働いていました。
店の事務と売り子を兼ねた「S嬢」。
酒の配達を受け持つ「H君」と私の三人でした。
この三人が偶然にも、同じ「中学校」の卒業生だったのです。
繁華街に位置するその店は、店頭での販売より「注文」による販売のほうが多く、自転車の荷台に酒類を付けて、「飲み屋」や「キャバレー」などに配達していました。
「H君」との仕事の割り振りは、「大まか」ですが、「昼の配達」が「H君」であり、「夜の配達」は「私の受け持ち」でした。
「H君」とは、この酒屋で1年ほど一緒に仕事をしていました。
その後の「H君」は、
「一生の仕事をするなら一流企業に・・・」。
と言うことで、その当時、岩手県に進出してきた、一流の「時計工場」に就職していきました。
「アレ以来」と言うのは、「H君」が退職する時に「酒屋」の親父が、ささやかな「激励会」を開いてくれました。
この時以来、「それぞれ」の道を歩んで来た二人でした。しかし、何十年ぶりかで会った二人ですが、あの当時と「あまり変わって」いませんでした。
二人は、暫らく「酒屋時代」の思い出を話していましたが、
「ところで『中学校』のことを覚えているか・・・」。
と「H君」が「突然」聞いて来ました。
正直なところ、「中学校」のことは、何一つとして「覚えて」いませんでした。
それどころか「あの時代」は、「自分にとって苦難」の時代でもあり、「忘れよう」とする「意識」さえ働いていたようにも思えるのです。
「あまり考えたこともないが・・おかしな中学校だったことだけは覚えている・・」。
「おかしな中学校だったよな・・」。
と「H君」の相槌。
「6・3制の始まりだったからな・・・俺達は冒険者だったよな」。
と申しますのは、私達が中学校に入学した年が「1947年(昭和22年)4月」であり、新しい「学校教育法」のもとでの教育が行われた年でした。
それ以前の「学制」は、「小学校」が「6年」であり、その後は、「高等小学校」を「2年」かけて卒業していました。
その後は、「旧制中学校」が、「5年」を経て「卒業」する仕組みになっていたように思われます(自信がないのですが)。
それが「 新しい学制」では、「6・3制」が施工され、「国民学校6年」「新制中学校3年」が「義務教育」と言うことになったのです。
私らは、このようにして発足した「新制中学校」の「1期生」でした。
「俺達の入った中学は『盛岡商業併設中学校』と言うところだったよな・・」。
と「H君」。
「そう言われればそうだったな・・・盛岡商業とは関係がなかったのにな・・そのうえ卒業する時には、いつの間にか『住吉中学校』だった・・」。
その当時の、「教育関係者」の狼狽ぶりが目に見えるようです。
新しい「学校教育法」の「施行」に伴い、「苦肉の策」で「盛岡商業学校」の一角を使っての「新制中学校」の開校のように思われます。
ですから、新しい「中学校」の名称も、「無策」と思われる「盛岡商業併設中学校」と言う「校名」に「してしまった」ようにも思われるのです。
当然、新しい学制になって「盛岡商業学校」には「新しい生徒」の「入学者」がいなくなりますから、「空いた教室」を有効に利用しての、「新制中学校」の「発足」ということになります。
そして「学区」もまた「おかしな感じ」がしました。
「城南小学校」と「大慈寺小学校」の卒業生のうち、「男子」だけが「盛岡商業併設中学校」に入学したように思われるからです。
ですから、盛岡の「南の方」は「神子田」の「端」から、「東の方」は「加賀野地域」までの「広い範囲」からの「登校」となったようです。
この「学区」についても、単純に「二つの小学校」を合併しただけのもの、と言った感じのものでした。
さらに、「女子」については、「施設」なども「関係」していたものと思われます。
「俺、もしかして『盛商併設中学校』に入って、『徳』をしたかも知れないな」。
やや唐突に「H君」が話し始めました。
「どうして・・・」。
「俺、酒屋をやめて機械関係の会社に入ったじゃん。その時の仕事が性に合わなくてさ・・、辞めたいと言えば親が怒るし。機械関係の仕事と言っても、チャップリンのライムライトの世界でサ、それで、親に内緒で辞めたのさ・・・。その時は、酒屋での仕事のことが懐かしくてさ、でも、幸い、百貨店の売り子の職場がすぐに見つかって、そっちに移ったのさ・・これが良かったのさ」。
「H君」は、
「百貨店に移ってから『盛商併設中学校』の名前が『生きてきた』ような気がする」。
と言うのです。
「別に嘘を言っているわけでもないが、『中学校どこ』と聞かれれば『盛岡商業併設中学校』と答えるじゃ・・聞いた相手の人は『盛岡商業』か、と聞いてくるからサ、『違う、併設だ』と言っても小難しいこと理解してくれなくてサ・・」。
「どうやら相手の人は、『盛岡商業で専門の教育』を受けてきたように思われたのかもしれない」。
とのことでした。
「店でも仕事がしやすかったような気がしたしナ・・・」。
「『女子の店員さん』の評判もまずまずで、主任、係長、部長と順調に昇進させていただいた」。
とのことでした。
「そういえばお前は、飲み屋の『ママ』さんにも『モテテ』だったな・・」。
「小さい飲み屋」は、「かあちゃんが一人」で「切り盛り」しています、そんな店では「酔漢」が「悪酔い」のせいなのか、「カラム」者も現れます。そんな時の「出番」が「H君」だったのです。
店の「親父」が、
「H君・・・どこ其処」。
と、店の名を告げると、「H君」の出番です。
私は「H君」の後ろに従い、ただ「立って」いるだけでした。
「ママどうかしたか・・」。
「半纏姿」の「若者」が「二人」、勢い良く声を掛け、あとは「仁王立ち」。
ほとんどの「酔客」は「黙った」ものでした。「警察」の「ご厄介」になるのは、「よっぽど」の「泥酔者」だけでした。
こんなこともあって、「H君」は、飲み屋街の「人気者」でした。「機械」を相手にするより、「人を相手」にした「仕事」の方が、「何十倍」も向いていたのだと思います。
「お前はどうだった・・」。
と「H君」。
私は暫らく考えて、
「俺は損した感じかな・・・でも良く分からん・・」。
と呟きました。
私にとっての「新制中学校」とは、・・「考古学」のようなものです。
「謎だらけで、分らないことだらけ」なのです。
(続く)

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