嗚呼、わが新制中学校
「『トムソーヤの冒険』に憧れた頃」
「恥ずかしい事を聞くようだが・・『盛岡商業併設中学校』は1年くらいで『住吉中学校』に校名が変わったよな・・その後、「住吉中学校」はどうなった・・・」。
「H君」が恐る恐る聞いてきました。
私にも,自信を持って答えるだけの記憶がありません。
「盛岡商業併設中学校」と言う名称は「1年」くらいで「変更」され、新たに「住吉中学校」と言う「校名」になったように「覚えて」ています(あまり自信がないのですが)。
さらに、「住吉中学校」も、暫らくして「廃止」になりました。勿論、「先輩も後輩」もいない筈です。
「H君」の聞きたいのは「住吉中学校」の「行き先」のようです。
私もあまり確かなことは分りませんが、
「誰かに聞いたことだが、『住吉中学校』は『上田中学校』と合併したようだ・・・だから、俺達の『中学校』を卒業した証拠は『上田中学校』にあるとのことだ・・」。
「聞きかじり」したことを話しました。
「H君」の「苦渋」の呟きは続きます。
「いままで、『中学校』のことなど考えても見なかったが、なんにも覚えていないな・・・クラスがいくらあったか、教室の配置、女の子がいたことすら良く覚えていない・・」。
そう言われて見れば、私も同じ思いでした。
しばらくして、「H君」がポツリと、
「悲惨な中学時代だったからナ・・しょうがないョ・・」。
考えて見ますと二人とも「就職組」でした。
「中学校」だけで就職しようと言う者たちは「就職組」であり、今流に言うならば「お客さん」に近い存在のように思えます。
そのような雰囲気での「中学生活」ですから、「学校」に対する関心やら知識など、をまるで失ってしまったようです。
「中学校」の名称が変わろうが、「クラス」の数がいくらだろうが、まして、「女子の生徒」の存在さえ「マッタク関係ネー」世界のようでした。
「そんな中学校だったが、凄く良いこともあったさ」。
「H君」が少し語気を強めました。
「何かあったかな・・良く遊んだ記憶しかないけどな」。
「それだよ・・その良く遊んだことだよ」。
と「H君」です。
新しい中学校は、「城南小学校」と「大慈寺小学校」が一緒になって「発足」したものです。
「H君」は「大慈寺小学校」の卒業であり、私は「城南小学校」の出身でした。
その頃の少年達の遊びの主流となっていたのは、「草野球」でした。
ほんの少しの広場でも、「三角ベース」の野球などが行われていたものです。
しかし、「中学生」くらいになると、「グロ−ブやミット」などの道具がなければ遊びに参加できないのです。
貧乏で「野球道具」の買えない少年達は、「遊びの舞台」を「山や川」に求めたものでした。自然は「貧乏人」の子供達も差別なく受け入れてくれました。
「H君」もまた、自然派だったのです。
「新しい中学校」に通いはじめて驚いたことは、「城南小学校」から来た連中の遊びが刺激的なことだった。自然を相手にした遊びであり、「大慈寺小学校」にはない遊びでした。
「お前達は、7月頃から、裸で川で遊んでいたもんだが、羨ましかったナ・・」。
確かに城南小学校の学区の近くには「静かな流れの中津川やなだらかなスロープの岩山」がありました。
それに対し「大慈寺小学校」の学区には「北上川」が流れているのですが、この当時の「北上川」はチョット雨が降れば「洪水」です。とても「遊び」の場には程遠い存在です。
私達が「中学校」に入学した「1947年(昭和22年)9月」も「キャサリーン台風」の襲来によって「北上川」が「氾濫」し、100人を越える死者が出たほどでした。
さらに「1948年(昭和23年)」は「アイオン台風}によって「甚大な被害」が起こっています。
このような環境ですから、「H君」にとっては、「穏やかな自然」が身の回りにあることが「羨ましかった」ようでした。
「H君」の呟きは続きます、
「お前達は、次々に遊ぶことを見つけていたよな・・・夏はヤスを持ってアユを追いかけたり、置き針でのナマズ獲り、時にはテントを担いでキャンプだとか・・・季節によっては、山に入って山菜やキノコ採り、その上、何を夢見たのか、宝探しで区界まで歩いて見たり・・お前達の文化と言っても良いくらいのものだった」。
「だけどさ、お前だってナマズ釣り事件があっただろ・・」。
私は「H君」にまつわる、一つの事件を思い出していました。
「ナマズ釣り事件というのは、
「絶対迷惑を掛けないから『ナマズの置き針』に連れて行ってくれ。1回で良いからナマズを釣って見たいんだ・・・」。
との「H君」の懇願がありました。
「そんなに釣りたいなら」。
と、都南にある「沼」に、「置き針」を仕掛けたことがありました。
「置き針」は前日の夕方に、餌になる『ドバミミズ』を針に付け、ナマズの寄ってきそうな場所に「仕掛け」を置いてきます。
翌日の早朝に「その仕掛け」を引き上げるのです。10本の仕掛けのうち、1本くらいの割りで「ナマズ」が釣れたものです。時には、「ウナギ」が付いていることもあったものです。
さて、翌日のことです、「H君」は、何を勘違いしたのか深みに「ハマって」しまいましおた。しかも、「一張羅の学生服」を着たままです。
慌てたのは城南組です。「H君」が、想像もしていなかった行動に出られたのです。 慌てて沼に入り手を引っ張って助け出しました。
一張羅の服も「ビショ濡れ」です。
城南組はすぐに「焚き火」をしました。
一張羅の学生服を乾かそうとしたのです。
乾かして、何とかその日の学校に間に合わせようとしたのです。「火」は「ぼんぼん」燃えました。
「H君」は「火」の上に服をかざしていました。
学生服からは激しく湯気が立ち昇りました。
ところが「H君」は、「火」に服をかざし過ぎました。「アッ」と言う間に、服の背中の部分に火が付いてしまいました。
安物の繊維で造った布ですから、一瞬で背中の部分が燃えてしまいました。
「お袋に怒られてサ・・『そのまま学校に行け』と言われた・・・」。
その日の「H君」は「背中のない学生服」で「登校」してきました。
「こんなこともあったよな」。
「ウン、覚えている・・・何を勘違いしたのか良く分からない・・寝ぼけていたのかもしれない・・」。
「・・・・」。
「あの当時「トムソーヤの冒険」に憧れていてさ・・・あの事件で、俺も『憧れのトムソーヤの世界』に近づけた、と思ったもんだ・・・背中のない服も気にならなかった」。
その当時、アメリカの作家、「マークトウェイン」の「トムソーヤの冒険」が良く読まれていました。
この物語は、1830年頃のミズリー州の架空の町「セントピーターズバ−ク」を舞台にした物語です。
「主人公」のトムソーヤ」は早く両親をなくし「伯母さん(母の姉)」に引き取られて育てられていました。頭の良い弟と対照的に大の悪戯者の少年です。
このトムソーヤが「宿無しハック(ハックルベリーフィン)」と一緒になって「ミシシッピー川」での冒険の物語です。
定かではないのですが、この当時、「映画」にもなったように記憶しています。
「H君」の冒険はまだあります。
「マムシ事件」というのもありました。
何人かの仲間と「タタラ山」に登ったときのことです。
「タタラ山」と言う名の山ですから、「古代のタタラの遺跡」が在るのかも知れない。
「好奇心」の旺盛な連中ですから、誰ともなく、
「冒険しよう」。
と言うことに成りました。
その中に「H君」も入っていたのです。
「タタラ山」の山道は、深い林の中を進みます。
ほぼ中腹に来た頃でした。
「一匹のマムシ」が山道のすぐのところで、「とぐろ」を巻いていました。
しかも、運の悪い事に、「山に慣れている城南組の仲間」はマムシの脇を通り過ぎていたのです。
残ったのが「H君」が一人です。
そうでなくても「H君」にとって、「林」の中は「薄気味が悪い」のです。
「薄暗い林の中から、「魔物」でも出てこないか、
「気になっていたのです」。
そんな折に、「マムシ」がとぐろを巻いて現れたのですから、「極限の恐怖」が襲って来たようなものです。
「俺は・・帰る・・・」。
と言い出しました。
帰るにしても問題です。
一人で返す訳には行かないからです。
誰かが棒を渡しました。
「これでマムシを追い払え」。
「・・・・」。
「H君」は声も出ないくらいの怖さでした。
「勇気を出せ、これから山に連れてこねぞ・・」。
この「一声」が刺激になったようでした。
「H君」は棒で「マムシ」を追い始めました。
「シッシッ」。
誰かが「木の切れ端」を「マムシ」に投げつけました。
「頑張れ」。
の声援も飛びました。
これには敵わないと思ったのか、「マムシ」は漸く「トグロ」を解き、
「ズズー」と後ろに下がりました。やがて林の奥に消えてしまいました。
いつの間にか「H君」の顔に笑顔が戻っていました。
「マムシも大したごどねナ・・」。
と、また一つ、難関を乗り切ったことに自信を深めたようでした。
「トムソーヤの冒険」に刺激された、中学生の冒険はこの後も続きました。
「鶏頭山の宝探し」、
「県内でのキャンプ生活」。
などなどでした。
それから間もなく、この「悪童連中」が中心になって、「山岳部」が結成されています。
「H君」も真っ先に入部しました。
山岳部のトレーニングはかなりハードなものでした。とりわけ 放課後の体力トレーニングとして行われた、「岩山」までの「ランニング」は厳しいものでした。
そのほかにも、「八幡平の縦走」、「駒ケ岳の縦走」、「駒ケ岳(男岳)」でのグリセードの訓練」、などが記憶に残っています。
「H君」は「この時の「山岳部」のことが忘れられずに、「職場でも山岳同好会を作り、自ら「リーダー」として活動したとのことでした。
夏には、県内外の山々を踏破した。
職場でも「高く評価」され、年に何回かの「遠征登山」が名物になった。
なによりも、自分自身がこんなに「山」に親しみを持つことを意外に思えた。
「H君」の一言ですが、
「もとをただせば、城南学区の『文化』に影響されたからなんだ・・城南学区の『中津川・岩山文化』とでも言っておくか・・・あの時の仲間から、山に憧れて山の仕事(林業)就いたのが4人もいたんだから」。
「それにしても、良く遊び呆けた中学時代だった」。
二人の結論でした。
* 情報も少なく、「あまり練られていない文章」です。スミマセン 。
(つづく)

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