嗚呼、わが新制中学校
「中学校は『あだ名』のオンパレード(そのー1)」
「中学校」の同級生である「H君」と、盛岡の街で「バッタリ」と出会いました。
二人の「中学進学」は、「1947年(昭和22年)」でした。
この年は、「戦後の新しい中学教育法」が施行された年でもあり、二人が進学した「中学校」も、「新制中学校」として新しく発足したばかりのものでした。
そんなことから、何か間に合わせの「中学校」と言った感じのものでした。
二人の出会いは、本当に久しぶりのものでした。
そんな訳で、二人の話しは尽きることがありませんでした。
やがて話しは、先生方の話しにおよびました。
「ところでさ、さっきから気になっているんだが、俺さ、先生の名前を思い出せなくてさ・・・」
と、「H君」です。
そう言われて見れば、私も同様です。
「あだ名」では、思い出せるのですが、肝心の「名前」が出て来ないのです。
しかも、二人が「入学」した時には、「全ての先生」に「あだ名」が付いていたように思えるのです。
ですから「名前」より先に、「あだ名」の方を覚えてしまったのです。
(或いは、「盛岡商業学校」の先生がそのまま、「新制中学校」の先生になったのかも知れません。)
「H君」もまた。
「『あだ名』だったら分るけどさ・・・数学の先生が『河童』だろ・・」
「理科の先生が『熊』だったよな」
「算数」の先生の「苗字」は「S先生」でした。
「あだ名」の「河童」は、「お顔のイメージ」が「河童」に似ているからです。
「ホソ面」に「眼鏡」、「眼鏡」の奥には「細い柔和な目」がいつも笑っていました。
「口元」は、やや前につき出ています。これも「河童」の「口元のイメージ」なのです。
さらに「河童」らしさを「引き出して」いるのが「髪型」でした。
「毛髪」が頭の上に「パサパサ」と載っているのですが、これがまた、「河童」の皿と毛髪の「イメージ」を強くしています。
この「髪型」ですが、本人の好きな髪型なのか、まさか、床屋さんが「河童のイメージ」で先生の「髪型」を拵えている訳でもないと思うのですが・・・。それほどに「河童」の「あだ名」にふさわしい「髪型」でした。
それにしても、「河童」の授業は人気がありました。
授業の半分は、「生徒に興味のありそうな世間話し」でした。
生徒達は先生の「世間話」に、誰しもが静かに聞き入ったものでした。
その後に、「難しい数学の話し」が続くのですが、もともと、好きでもない数学です。それでも、みんな良く聞いていた方だと思います。
それに対し、「熊」先生はやや太り気味の顔立ちで、やはり眼鏡を掛けていました。 「頬から口の周り」には、「濃いヒゲ」の剃り跡で、いつも「青く」なっていたものです。
「熊」の「あだ名」が付けられたのは、その「風貌」が「熊」のイメージなのか、先生の怒ったときの感じから、「怖い生き物」の代表である「熊」になったのか、良く分からないところです。
むしろ、「色白」で「濃いヒゲ」のイメージは、「写真」などで目にする、「熊祭り」を執り行う、「アイヌ民族の長」に「酷似」していました。
イヨマンテ 燃えろかがり火
アーアー満月だー
今宵 「熊祭り」
あの「熊祭り」の「アイヌの長」です。
「『熊』先生は、怒れば怖かったな・・」
二人の「熊」先生に対する感想が思わず出てしまいました。
それは、「生徒の悪さ」などが露見しますと、「熊先生」はどすの利いた声で「怒り狂う」ことがあったからです。
それでも、「暴力」など「イッサイなし」。
必ず生徒の側に「熊先生」を怒らせる理由が在ったものです。
生徒達は、「心」の中では、「反省」しながら、「熊先生」の「荒れ狂う嵐」がおさまるのを待つしかなかったのです。
「俺さ『河童』と『熊』に割合だが・・良く思われていたんだ・・・」
と「H君」。
「どうして」
「H君」は続けます。
「俺さ、誰にも分らなかった数学の問題を解いたことがあるのさ・・・それも、『河童』に当てられて黒板に出て解いたんだ・・・嬉しかったな・・・」
と「H君」。
「・・・・・」
「それが、理科でもあったのさ。・・その時に『熊』がにっこり笑って呉れて・・あの笑顔が忘れられなくてさ・・・その時も嬉しかった」
と「H君」。
それにしても、「H君」の自慢話しなど今まで聞いたこともなかったのですが、その時は「よっぽどうれしかったに違いない」と思われました。
「最初で、最後の自慢話だ・・今日、お前に話せて嬉しいよ・・」
と「H君」の笑顔。
「怖い先生と言えば、『原爆』は怖かったな・・」
と私。
「原爆」というのは、「国語」の先生の「あだ名」でした。
「H君」も
「ああ、あれ・・・俺、ぶん殴られてさ・・・おかげで国語が嫌いになって、漢字が今でも苦手なんだ・・・」
「国語」の先生は、苗字が「S先生」といいました。
「髪の毛」を耳の辺りまで「長く伸ばして」おられました。そして、前に垂れ下がる髪の毛を、「頭を後ろ」に振って「直す」のが癖になっていました。
ですから、何時も「頭」を後ろに振り、首を僅かに左に傾けていました。
あの当時ですから、「太宰治」の髪型でも「真似」していたのでしょうか・・。
私が「原爆」に「殴られた」のは、「クラスの連絡係」をやっていた時のことです。 「連絡係」は、その日の「日課」を職員室に行って聞いて来ます。それを「クラス全員」に「伝える係り」です。
例えば、今日は、授業終了後に「クラス全員」で「運動器具庫の整理」などなだ・・です。
この連絡のために「職員室」に行くのが遅刻によって「遅れて」しまったのです。
しかも、その日の指導の先生が「原爆」でした。
ですから、「絶対に遅刻できない日」だったのです。
「他の先生」であれば、「遅刻」したとしても何とか指導してもらえるのですが・・・。
案の定、「原爆」は怒っていました。目の色が赤く成りました。顔が仁王さまの形相です。
立っている私の顔をめがけて「貴様、この卑怯者・・」とか言いながら・・「鉄拳」を思い切り振りかざしました。
私の「身体」は、教室の端から端へと「ぶっ飛んで」しまいました。
「私が遅刻したのいは悪かった」
だが、いまこの先生が「私を殴っているのは憎しみだけの行為」
そのように思えたものです。
「H君」は言いました、
「あの先生は貧乏人の生徒は嫌いなんだよ・・あの先生のおかげで、漢字を良く勉強しなかった・・・中学校の先生の影響力は大きいよな・」
それにしても「原爆」とは、「ピッタリ」の「あだ名」を付けたとものと思えました。
「国語」の先生だけは、二人とも「拒絶反応」でした。
「担任」の先生の「あだ名」が「ゴローさん」でした。
「苗字」は「Y先生」で「名前が「ゴロー」ですから、「あだ名」と言うより、生徒達の「愛称」でした。
「体育」の先生ですが、信頼されていました。
二人は口をそろえて、
「ゴロー先生は良かった・・・・」
・・・でした。
「俺な・・実はナ・・・・」
「H君」が「声をひそめ」ました。
「俺、2年か3年のときに、ゴロー先生に呼ばれてさ、『盛岡二校を受験しないか。お前だったら受かるから、家に帰って相談してみろ・・ 』と言われたんだ・・・」
「それで相談したのか・・・」
「いいや、しなかった。・・しても無理だったからな、あの頃の我が家は・・・」
「また一つ、秘密を話してしまったな・・・」
と「H君」。
長い間、胸に仕舞っていた「思い出」のようでした。
だが、
「チョと待てよ」。
実は、同じことを私も言われていたように思います。
私も「H君」も、早くから「高校進学」を諦めていました。、中学校を卒業したら「就職」を希望していたのです。
その当時の「中学」は「高校進学組」と「就職組」に色分けして、「教える教科」も違っていました。
例えば「就職組」には、途中で「英語」の授業がなくなっていました。
私に言ったのは、
「もし、「盛岡ニ高」が無理だったら、「定時制」でもいいんだから・・家に帰ってよーく相談して見ろ」
と言うものでした。
この時、私は、「定時制なら通える」と思ったものでした。
さて、その当時の「盛岡ニ高」ですが、別の名を「白梅」と言い「女学校」でした。 それが「1950年(昭和25年}から「男女共学」の「高校」として「発足」することに成りました。丁度、私達の卒業者から対象になるものでした。
そこで、担任の「ゴロー先生」は、「男子学生」に「盛岡ニ高」の受験を進めていたようでした。
二人にとっては、どうにも「仕方のない時代」だったのです。
(続く)

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