牛の炭疸のこと
「炭疸診断までの経緯〔8月24日)ー2」
「1965年〔昭和40年〕8月24日」、
忘れもしない「岩手での炭炭事件」の発端となった日です。
「岩手の炭疸禍」として、報道機関によって全国に報道されていますから、「いまさらとも思えるのですが」・・・少しだけ振り返って見ることにします。
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「獣医」になって「7年」経過した時のことです。
その当時の仕事は、「家畜伝染病」の「診断」や、「原因不明」などで「死亡」した「家畜や家禽」の「病性鑑定」、「各地の放牧地」での「病気」の「発生状況調査」など・・多忙を極めていました。
なにしろ、「県内一円」が「守備範囲」ですから・・「中毒」で死亡した「牛」や、「伝染病」で死亡した「豚」などが運ばれて来ていたのです。
いまから「44年前」の「8月24日」。
この日、「太陽がギラギラ」で・・・「残暑の厳しい日」でした。
そのような「暑い中」、「若手の獣医師達」の「会議」が、朝から開催されていました。
昼近くなってからのことです、「衛生係長」が「耳元で」、
「急いで病性鑑定をして欲しいのだが」
と囁かれました。
「係長」によりますと、盛岡市の北に位置する「N町」で、
「乳牛に原因不明の病気が出ているようなんだ。今日も1頭死亡したので、病理の『Iさん』と大至急、現地に行ってほしい」
と言うものでした。
その当時の「病性鑑定部門」は、「組織」が出来て間もなくのことでした。
「組織的」には、一応「病理,細菌,生化学」の「三部門」なのですが、「細菌」の担当者は「県外で研修中」でした。
そんな訳で、「Iさん」が「病理部門」、そして、私が「性化学」と「細菌部門」を担当していました。
勿論「細菌部門」は、
「大学時代の教室が『病原微生物』だから」
というので「暫定的」な「配置」でした。
昼食もそこそこに「Iさん」とともに、
「現地に向けて車を飛ばせました。
現地には、「農協」の職員が待っていました。
「いま解剖していますから・・案内します」
車から降りたところの光景は、
「カンカン日照りのなか・・白く乾ききった一本の農道・・息も絶え絶えの雑草・・」 これが、現地で目にした第一の印象として、記憶に止まっています。
現場では「二人の獣医師」の方々によって、「解剖」が開始されていました。
丁度、腹部から胸部の皮膚を剥ぎ取る作業芽行われていました。
作業としては「始まったばかり」のようでした。
剥ぎ取られたばかりの「皮下組織」を見て、「愕然」としました。
その「皮下」には「膠様と出血性」の「「炎症」によると思われるものが広い範囲に「浸潤」していました。
「若しかして『炭疸』・・・」
直ちに「解剖」の中止を命じました。
「炭疸」であれば、「1944年」に「岩手県のM市」で「馬」に「発生したことがある」と聞いています。
まさか「四十数年の時を隔てて発生するとは・・・・」
非常に考え難いことでした。
さて、このまま「解剖」を続けるか「解剖」を中止するか、「迷い」ました。
本来「炭疸」であれば「診断用の血液」だけを採取して、「体」に「メス」を入れないのが「鉄則」なのです。
その「わけ」ですが、
「炭疸菌」の「散逸」を防ぐため、
それと、「炭疸菌」は「牛の体内」にいるときには言わば「生長中」の「菌体」です。
これが「空気」に触れますと、「菌体」の中に「芽胞」を作ります。
この「芽胞」とは・・「植物の種子」のような物なのですが、「菌体」とは、比較にならないくらい、「抵抗性」を持っています。
「一説」によりますと、この「芽胞」、「土の中」では「40年」も生存が可能だと言われています。
しかも、「芽胞」は「熱や消毒薬」などにも強いのです。
ですから、「炭疸」によって死亡した「家畜」は「ソット」して「焼却」してしまいます。
しかし、この日の「判断」は、
「皮下組織に『膠様浸潤』だ在ったからと言って、『炭疸』固有の変化でもないし・・他の『炭疸』に伴う『特異な変化』も見なければ」
と思えたのです。
しかも「炭疸」となれば、四十数年も経っていますから、
「岩手に『炭疸』の発生ははないのだ」
と言った、安易な気持ちもあったのです。
「もう少し慎重に見たい」
と思いました。
「せめて、より正確な診断を行える『材料』を採取したいこと、それと、死体の観察によって、『炭疸』に固有の変化を探して見たい」
などでした。
そのためには、より完璧な「感染防止」の準備が必要です。
「解剖」が中止され、「消毒薬品」を初め、「ゴム手袋」など、「微生物」から「全身を保護する資材」が急いで準備されました。

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