岩手野生動物の絶滅の軌跡
「オオカミの滅び」
獣医として地方で仕事をしていますと、とんでもなく「奇態な話し」が耳に入ることがあります。
この話しも、そんな中の一つです。
1975年頃(昭和50年)のことですが、
「『五葉山の麓』に『日本オオカミ』が生き残っている」
と言ったことが聞こえてきたのです。
話の出どこは、「五葉山の麓」、大船渡市の「五葉牧場」で「牛まぶり」をしている「重次郎さん」からでした。
何時ものことですが、午前の診療が終わりますと、その日の「作業の人々」と「監視小屋」で「昼休み」です。
涼しい風に吹かれて昼寝をする人。
タバコを嗜みながらの談笑にふける人。
釣りの自慢ばなし。
「重次郎さん」の「突拍子もない」、話しはそんな時のことでした。
「このあたりに、『オオカミ』が生き残っている可能性があるんだってよ」
と「重次郎さん」。
「まさか・・・」
取り巻きの誰しもが「そのように」思ったようでした。
ちなみに、日本から「日本オオカミ」が「絶滅」したとされているのは、1905年(明治38年)のことです。「奈良県吉野郡小川村」の鷲家口(わしかぐち)」で発見された、「日本オオカミ」の死骸が最後と言われています。
この「オオカミ」は「猟師」によって見つけられ、その当時「ロンドン動物学会」と「大英博物館」が企画した「東亜動物探検隊員」として、日本を訪れていた「アメリカ人(Malucom P.Anderson)によって確認されています。
このときの「頭骨」と「毛皮」は「大英博物館」に保存されているとのことです。
しかし、この後も「日本オオカミ」の生存についての情報が、無数に報じられているようです。
「重次郎さん」の話しを聞いた人の中にも、
「2,3年前だが、和歌山県に稼ぎに行った時に、『オオカミが見つかった』と新聞で騒いでいたようでがんした」
とりわけ、戦後になって「日本オオカミ」の目撃情報が氾濫していたようでした。
例えば、「子ギツネ」を「オオカミの子」と見誤った事例、
毛皮が「オオカミ」に似ている事例などなど・・・です。
ちなみに、1959年には、「大阪のある大学」ですが、「理学部の教授」を部長として、「探検隊」を組織し、各地の秘境と言われている場所を調査したほどでした。
さて「重次郎さん」の話しですが、
「この前のことだども、日本の何処かに『日本オオカミ』が生き残っている」
と言って「日本オオカミ」の調査している人が来られた。
しかも、
「ここ、五葉山の麓が鹿など野生動物が沢山生息しているし、『生き残っている可能性が高い』とのことでがんした」
確かに、ここの牧場には、「野生の鹿」が多く生息していました。そのため「餌不足」も時々起こります。
特に、春に被害が出ます。
どこの牧場でも、春には「牛の餌」である「牧草」が一斉に伸び始めます。
そこに放牧された牛達は、若くて栄養の豊富な牧草を食べて、「冬の間」十分に食べれなかった「草」を思いっきり食べて、体力を回復させます。
ところが、「五葉牧場」は、雪が消えて若草が目に付きはじめますと、
「野生の鹿」が「有刺鉄線」の柵を飛び越えて牧場の中に入ってきます。
そして若芽を、根元から前歯で切り取って食べてしまうのです。
ちなみに、牛の食べ方は、舌に草を播きつけてむしり獲って食べます。
ですから、鹿の食べた後には「牛の食べる草」がなくなってしまいます。
ですから、「オオカミ」の研究者も「五葉牧場」に目を付けたようでした。
さて、オオカミ探しの方法ですが、その「先生・・?」の「言い分」は、
「オオカミ」の「被毛」は、「先端部が分岐している」のが特徴とか・・・?
ですから「先端部が枝分かれした毛」があれば「オオカミ」の生存の「裏付け」になるとのこと・・?。
「被毛」は、牧場を囲んでいる柵の「鉄線」に多数絡んでいます。
さらに、その先生は、「オオカミ」の指には「水かき」がある・・・?。
とのことだったとか。
したがって、「湿地」などの「泥の上」に付けられた足跡に、「水かき」があれば「オオカミ」の足跡なのだ・・・とのご意見だったようです。
さらに「重次郎さん」は、「自称オオカミ研究者とともに牧場の周辺を探索したようです。
その結果ですが、
「牧場」に張り巡らせてある「有刺鉄線」に「先端が分岐」した被毛があったこと。
また、「湿地」には、
「これが『水かき』の跡だと言われてみれば『そうかな』と思えるような足跡もあった」
とのことでした。
これによって、大船渡市の「五葉牧場」に「日本オオカミ」が生き残っているかも・・・といった、愉快な「伝説」が起こった次第でした。
なお、1905年以降の、
「『日本オオカミ』の生存説は『根拠があいまい』で認めがたし」
というのが「通説」のようです。

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