戦後の農薬・パラチオン
「コリンエステラーゼ阻害剤による中毒」
太平洋戦争が終わって、アメリカの軍隊が進駐して来ました。
はじめの頃は、短い銃を無造作に背負い、ジープを駆使する姿に畏怖心を持ったものの、その屈託のない笑顔に、次第に親しみを持ったことを覚えています。
子供が集まれば、大きなポケットからチョコレートを取り出してみんなに配ってくれました。子供の心は完全にアメリカの手の中であリ、今になれば見事な占領政策だったと言うことになります。
さらに驚いたのがジープの性能でした。盛岡の名所のひとつである「岩山」の斜面を登り降りする姿に、
「なんだ、あれ」
と驚きの声をあげたものです。
何しろ、その当時の日本の自動車は、木炭でヤットコ走る木炭自動車と言われるものしか見ることが出来なくなっていました。そんなところに、兵器であるジープが現れたものですから、子供達のカルチャーショックは大きなものでした。
子供達の間で忘れられない思いはまだあります。教科書のあちこちを墨で消したときと、ある日突然、頭から白い粉を撒かれた時のことです。
教科書を墨で塗りつぶしたのは、軍国教育に関する部分を中心に消し去る目的であり、白い粉の散布は「シラミ退治の薬」を撒かれたことでした。
終戦から少し経った、1946年のことですが、日本国内にシラミが媒介する伝染病である「発疹チフス」が流行しました。
発疹チフスの病原体はリケッチアであり、人からシラミ、シラミから人へと、シラミを仲立てに伝播します。流行の背景には、戦争、貧困、飢餓などの異常な事態が存在しており、アフリカなどで知られていたものです。
日本では、戦争中の1943年(昭和18年)に千人程度の発生があったようですが、戦後になって食糧事情など、社会環境の悪化により急激に流行の兆しが現れたものと思われます。ラジオでは、連日のように発疹チフスの発生の状況を報じていたものでした。なお、1946年の発生は、2万3千人の発生が記録されております。
このようなことから、当時のGHQ(連合国軍総司令部)の判断によって、 DDT(塩素系殺虫剤)が散布されたものと思われます。 また、この日をさかいに、日本の国からノミ・シラミが姿を消したと言っても過言ではないと思われます。同時に、発疹チフスも収束に向かっております。
農業の分野でも革命的な出来事が起こっていました。殺虫・殺菌・除草剤などの農薬の導入です。
それまでの農薬は、殺虫には除虫菊,硫酸ニコチン。殺菌には銅、石灰硫黄などの自然に存在する成分で作られた農薬を使用していました。
それに対し戦後の農薬は、化学的に合成されたものばかりです。
中でも有名なものにパラチオン(有機リン系殺虫剤)があります。この殺虫剤は、1944年にドイツで開発されたものですが、人を殺す目的である「毒ガス」の研究の途中で発見されたものとも言われております。このような関係から、パラチオンの成分は、「サリン」に近いものとのことです。
日本でのパラチオンの使用は、1952年(昭和27年)からであり、水田の二カメイ虫の駆除に使用されました、その効果は抜群だったようです。
その反面、人や家畜・家禽が中毒を起こしました。しかも、パラチオンは皮膚からも侵入します。霧状に散布されたパラチオンは作業に従事した人々の露出した手・顔・口から体内に取り込まれ、中毒を起こす事例が発生しました。
極端な事例ですが、パラチオンを水で薄めようとして、素手で薬液をかき混ぜ、中毒を起こして死亡した事例や、防護用の雨合羽がないために軽装での作業を行っての事故などが多発しました。
その当時の人々は、「なにしろ、劇毒物などの知識もなかったし、全身を保護しろと言われても準備もなかった」と回想しています。
家畜の中毒も多発しました。散布されたパラチオンが地面の草を汚染し、その草を食べた牛や馬が中毒を発症しました。獣医になりがけの私に対する、先輩獣医の教育の一部として、「パラチオン中毒の救急処置に関すること」も含まれていました。
中毒のメカニズムは「神経伝達をつかさどるコリンエステラーぜの働きを阻害する」と言うものでした(なお、このメカニズムによる殺虫作用は、有機リン系のほかに、カーバメイト系の薬剤がある)。
中毒を起こした牛の症状は、激しく涎を流し、眼球の異常、顔面の痙攣など、かなり特徴的な症状が観察されました。重症になりますと食欲の廃絶、呼吸困難、起立難など、致死的な経過をたどります。解毒剤には「パム」・「アトロピン」と言った薬剤を使用し、その当時の常備薬となっていました。
牛の他にも被害を受けた動物がいました。それは放し飼いの鶏でした。その当時は、放し飼いによる鶏の飼育が多かったのですが、この慣習も、この頃をさかいに見られなくなりました。
さて、化学的な合成によって作られた農薬は,日本の農業に革命を起こしました。生産性の向上は勿論のこと、労働時間なども大幅に減少しましたカ。例えば、それまでの水田の草取りは、田んぼに入って手で取ったのですが、薬剤を使用しますと僅かの時間で済ませることが出来るようになりました。
こうした反面、自然界に与えた影響も計り知れないものがありました。あんなに空を覆っていた赤トンボが消え、川辺からもカジカやホタルがいなくなりました。
なお、パラチオンなどの「コリンエステラ−ぜ阻害剤(有機リン系・カ―バメイト系の殺虫剤)は、鳥類全般に対し高い感受性を持ち、野性の鳥類に大きな影響を与えているものと思われます。
これらの農薬の見直しの端緒は、1962年(昭和37年)に刊行された「沈黙の春(サイレント・スプリング)」によるものでした。著者は、アメリカの海洋生物学者である、レーチェル・カ−ソンでした。世界規模で現れ始めた農薬の影響を指摘し、将来にわたる環境汚染に警鐘を鳴らしました。
この本の刊行によって、農薬の安全性の見直しがなされ、5年後には、毒性の強いパラチオンなどは製造が中止されています。
さらに、1971年には、パラチオンなどの劇毒物、あるいは残留性の強いDDT、水銀剤などが使用禁止となっております。
劇毒物であるパラチオンなどの有機リン系の殺虫剤に代わって、低毒性の有機リン製剤や、カーバメイト系の殺虫剤が登場したのですが、環境に対する影響は終わっていないようです。低毒性とは言え「コリンエステラーぜ阻害剤」に対する感受性の高い鳥類には、今もまだ被害が発生しています。
岩手県の家畜保健衛生所がまとめた報告によりますと、
2003年の3月から、翌年の3月までの間に、野鳥の集団での死亡事例を調査した結果では、7件で49羽が有機リン系・カーバメイト系の殺虫剤の中毒によるもの、として報告されております。
さらに、2005年9月には、花巻市において約60羽のムクドリが死亡していますが、これもまた、有機リン系か、カーバメイト系の殺虫剤によるものとされております。
これらの事例は、ほんの氷山の一角であり、まだまだ、自然界に与える影響は大きい物と思われます。昔の殺虫剤のように「虫の生命維持装置だけに作用し、他の生物の生命維持装置には影響しない薬物」は、今年のテーマになりそうです。

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