音楽、旅、人生観等、好きな事を好きなだけ書き連ねてまいります。 当ブログはリンクフリーです。ご自由にどうぞ。

2010/6/29

武満徹”ノヴェンバー・ステップス”  現代音楽

武満徹の”ノヴェンバー・ステップス(1967)”。
言わずと知れた彼の代表作である。





オーケストラ、尺八、琵琶という特殊な編成だが、決して奇をてらっただけのものではなく、内容的にも優れた作品であることは言うまでもない。
和楽器のみならず、オーケストラの各楽器の使い方のうまさも驚嘆に値する。
なお、武満徹は”ノヴェンバー・ステップス”の他に”『秋』(琵琶と尺八とオーケストラのための)(1973)”という作品も書いていて、私は両曲ともCDを持っている。
(”ノヴェンバー・ステップス”は小澤征爾指揮、”秋”は沼尻竜典指揮のものである。)
”秋”は”ノヴェンバー・ステップス”があまりに有名すぎて影が薄い感じだが、よくよく聴いてみると以外にも”ノヴェンバー・ステップス”よりも出来の良い作品であると思う。
つまり、2番煎じどころか、「一番絞り」を上まわる出来だと思うのだ。
”ノヴェンバー・ステップス”がすばらしいと思う方は、もしまだ未聴ならば是非、”秋”も聴いてみて下さい。
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2010/6/28

すさまじきものは宮仕え  思い出の人達

私の親の知人にO.Tさんという男性がいた。
O.Tさんは名古屋市内のインテリアの会社に長年、勤めていた。
このインテリアの会社の社長、K.N氏も私の親の知人であった。
数十年前のことである。
O.Tさんの部下が会社の金を横領してバレたことがあった。
K.N社長は横領した本人のみならず、連帯責任として上司のO.Tさんにも罰を与えたのである。

「O.T、本来ならお前のようなやつは、ウチの会社においとくわけにいかんが、お前は10代の頃からずっとウチでがんばってきたから、クビだけは勘弁してやる。
そのかわり、今迄会社に損害を与えた分はしっかりと清算させてもらうからな。」
K.N社長はそう言うと、それ以降ずうっと、新人の初任給より安い給料でO.Tさんを働かせたのである。
O.Tさんは学校を卒業してから、この会社一筋で他の世界を知らない。
やめて転職するにも、面接で今の会社をやめた理由を聞かれたら今以上の所に転職できないだろうし、そのころ既に結婚していたので今更よそへ行けない、といった不安感に押しつぶされそうになって、結局O.Tさんは泣く泣く薄給に甘んじながら、今の会社に留まり続けたのである。

また、K.N社長はボーナスを支給するさいにも、O.Tさんに手渡す時は社員みんなの前で、
「O.T、お前はウチの会社にあれ程の損害を与えたのだから、たとえ少なくても貰えるだけありがたいと思え。」
と言って新入社員よりも少ない額を与えていたのだという。
それにしても普通、ここまでひどい仕打ちをされたら、いくらなんでも会社をやめたくなるものだし、ましてや、O.Tさんが直接、悪事を働いたわけではないのである。
だが、O.Tさんは耐えながら勤め続けた。
おそらくO.Tさんは昔の丁稚奉公のような感覚で会社勤めをしていたろうし、初めての会社だから社長やその一族にそのように会社に忠誠を誓うように教育されてきたのだろう。
よくぞここまで奴隷根性が身に付いたと思うが、ある意味、これは一種の洗脳だと思う。
まさに、「すさまじきものは宮仕え」ということか。

そしてそれから数年後、O.Tさんの妻がとうとう愛想を尽かして出て行ったそうだが、O.Tさんはずっと今の会社で働き続けた。
そして、定年が過ぎてもこの会社の別の支店でアルバイトとして働いたという。
その頃の手取りの額を聞いたことがあるが、これなら仕事をせずに生活保護を受けた方がええんとちゃうか、と思うような金額だった。

ある程度人生経験を積んだ読者の方ならここまで読んでピンときたと思う。
K.N社長はO.Tさんが直接、会社の金を横領しようがしよまいが、どうでもよいのである、と。
会社に損害を与えた連帯責任としてベテラン社員のO.Tさんを薄給でコキ使うことができるし、他の社員への見せしめのためにも、おそらく彼をクビにはしなかったんであろうと。
そんなK.N社長は経営者としての才覚は良くても人間性としてはいささか疑問だが、会社のトップという者はこれくらいのことができなければ務まらないのかもしれない。
しかもO.Tさんは骨の髄まで丁稚根性が染み付いているので、ますますK.N社長の思うツボであったであろう。

・・・
そして今から数年前、K.N社長は亡くなった。
知人であるため、私も私の両親も彼の葬儀に参列した。
このK.N社長という男は会社でも家庭でも相当なワンマンだったようで、彼の子供夫婦の内、1組は疎遠になっておりこの日の葬儀にも来なかったそうだが、O.Tさんはまるで社長の身内のように葬儀の雑事をこなしていた。
私はこの時、O.Tさんの心中はいったい、どんな気持ちだったんだろうと思わずにはいられなかった。

それから数日後、O.Tさんは私の親の家に挨拶にやって来た。
まるで今迄の人生を振り返るように、ポツリポツリと私の母と昔話をしていた。
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2010/6/22

名古屋の変わったオッサン  思い出の人達

名古屋市内の某所にDさんという、変わった電気屋のオッサンがいる。
私はDさんとは、直接会ったことはないが、ある家電メーカー主催の合同展示会で何度か顔を見ているので、知っているわけである。
Dさんの店は所謂、パパママショップで昔ながらの小さな電気屋を営んでいるが、彼の店は家屋が自己の不動産で土地は地主T.Hさんから借りて暮らしていた。
今から10数年前、地主T.HさんはDさんの住む土地に大型家電店を建設することを決意した。
Dさんの店の周りには金物店やファミレス等があったが、それらの店も全て、土地はその地主T.Hさんのものである。
大型店舗の建設費用は量販店の会社と折半だが、開店後は毎月、莫大な不動産収入が転がり込む仕組みである。
勿論、建設費用諸々も必要経費として落とせるわけである。
そこで、地主T.Hさんはそこで住んでる人や経営している人達に立ち退きの交渉を始めた。
ほとんどの人達が立ち退き料に納得して次の新天地へ移っていったが、ただ一人最後まで首を縦にふらなかった人がいた。
電気屋のDさんである。
将来、自宅の前に大型家電量販店ができるのに、である。
そこで地主T.Hさんは、Dさんの店を除いた全ての土地に、大型家電量販店Kの建設を行った。
Dさんはこの時、既に60代の高齢である。
地主T.HさんはDさんが先行き短く、彼がいなくなってからDさんが住んでた土地に喫茶店でも作れば、家電量販店に流れた客が入っていくだろう、等と皮算用を立てて建設を強行したのである。
そして完成した大型家電量販店Kは1階と2階が店舗、3階と屋上が駐車場で各階の床面積もかなり広いものである。
しかし、見る方角によってはまるで、立派なビルの隣に小さな祠がちょこん、と建っているように見えて、しかもよく見るとどちらも家電店という、考えようによってはけっこう異様な風景でもある。
それでも風のうわさによると、Dさんは周囲の人達に
「量販店Kに流れて来る客をウチに引き入れてみせる。」
と豪語していたという。
一方、多額の立ち退き料をもらった金物店のO.Kさんはそこから数キロ離れた所で店舗兼住宅の立派なビルを建て、現在も繁盛しているようである。
さて、Dさんは現在も同地にいるが、量販店の客が流れてくるどころか、たいていは店のシャッターが半分だけ開いててやっているのか、やってないのかわからないような状態である。
一度、店の奥を歩道からちらりと覗いたことがあるが、その時は店の奥でDさんが無表情で座っていた。
・・・
私は人事ながら、Dさんのことを考えた。
Dさんはおそらく、この年代の人間に多い「いっこく」なタイプな人だろうと思う。
「いっこく」な人間は狭い視野で自分中心にしかものを考えられないので、突然予期せぬことが起きるとそれが長い自分の人生の中で良いか悪いかというと、たいてい悪い方にしか判断できない。
しかも自分の固定観念にこり固まっているから、「従来にないもの」を受け入れようとはしない。
そして「いっこく」であるがために、変に意地になって一生に一度あるかどうかという、チャンスを自らドブに捨ててしまったのではないか。
家電メーカー主催の合同展示会ではいつもDさんは奥さんといっしょだったが、奥さんも仕方なくDさんについているんではないだろうか。
そうだとしたら、「いっこく」な男のために周囲の者まで犠牲になってしまうのは、あまりに愚かなことだと思う。
私は「いっこく」なDさんを反面教師に見立てて、自分の家族には自由で豊かな人生を送ってもらえるようになってほしいし、私自身より幸福になってほしいと思う。
もし私が地主T.Hさんのような人から大金をもらったら、さっさと今の仕事をやめて郊外でのんびり暮らすだろう。
そして、今までできなかったことをいろいろやってみたい。
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タグ: 人生

2010/6/14

京都の思い出の人達(5)  思い出の人達

前述した商工ローンの会社を辞めて、仕方なく名古屋へ戻るまでの約1年の間、私は水商売の店へ勤めていた。
場所は木屋町、祇園の北にある地元では有名な繁華街である。
そこのある雑居ビルの5階にあるスナックでバーテンダーとして働いていた。
そこの店でチーフをやっていたK.Tさんもユニークな人だった。
この世界に入る前は京都S大学の学生だったという。
ある日、K.Tさんは「大学では金融論を専行してたんや。」と、得意げに語りだした。
「おかげで普通4年かけて卒業するのに、ワシは2年ですんだんや。」
「すごいですねえ、チーフ。
どうやって、2年で卒業できたんですか?」
私が聞くと、K.Tさんは真面目くさった顔で、
「ワシは学費も親に頼らず自分で払うために、いい金儲けはないか考えとってな、そこで、金融の勉強と金儲けの両方ができるいい方法を思いついたんや。」
「ほほう。」
「それで、同級生らにトイチで金を貸すことを始めたわけや。」
私は当然、無免許でそんなことやってええんかいなと内心、思っていたが、何食わぬ顔で相手の真意を探るために、話にツッコミを入れた。
「儲かりましたか。」
「うん、まあそれなりにな。
でも、中には約束の日が来ても返さんやつがおるさかい、そういうやつは、教室にも自宅にも乗り込んでやったわな。」
「じゃあ、学生時代はけっこう、羽振りが良かったでしょうね。」
「ところがやで、ある日ワシは突然、学長室に呼ばれてな、『お前は神聖な教育の場で何やっとんのじゃ。』と散々怒られて挙句の果てに、『お前は二度とわが校に来るな。』とまで言いよってな。」
「・・・。」
「それで、せつだくん、ワシ2年で大学、卒業したんやねん。」
「・・・それって、世間の言葉では退学って言うんちゃいますか。」
「ん?まあ、ものは言いようやないか。」
そして、一瞬、間をおいてポツリと一言。
「大学の中でサラ金やったのが、まずかったかな。」
K.Tさんは当時、私より3歳年上で色白の細身、いかにもスケコマシといった感じの男性だった。
当然、女性にもモテて、そのころアパートに彼女と同棲していたという。
といっても、K.Tさんの方が彼女の所に転がり込んで来たというのが、真相のようだ。
「初めはある学生アパートに1人で住んどったんやけど、家賃が遅れたら大家のやつがうるさくてな。
ワシ、あたまにきたさかいに、毎晩、アパートの屋根に上ってサーチライトで大家の家を照らしてやったら、大家の方が『ええかげんにせえ。』とキレてもうてな。
終いに、『お前みたいなやつは、もう家賃いらんさかいに、出てけ。』って、言いよって、女の所に転がりこんだわけや。」
「それが、今住んでる所ですか。」
「いや、ちゃうで。
そのころ何人か、女がおってな、まず1人目の女の所に1週間くらいおったら、さすがにむこうも『あんた、いつまでおんねん!』ってキレてもうて、ほんで、仕方なく次の女、次の女と転がり込んでって、最後に今のヨメはんに落ち着いた、ちゅうわけや。」
「ほほう・・・。」
当時、私は全然、モテなかったので、このテの話は半信半疑ながらも、羨ましく聞いていたものだ。
ただ、K.Tさんの言うことは全くウソとは思えなかった。
一見、優男風だが、いつ何時、何をしでかすか、わからんような雰囲気を全身から放っていたからだ。
この店に勤めて数年で、チーフになったK.Tさんに、
「チーフの将来は安泰ですね。」
と、おだてながら聞いてみたことがある。
するとK.Tさんは、
「う〜ん、そやけど、ワシ運転免許もあれへんからなあ。
もし、この店やめたら、ヤクザにでもなるしかないやろな。」
・・・
あれから、20数年。
ネットで検索すると、当時勤めていた店は以外にも、現在も店名も場所もそのままで、中京区木屋町で営業しているのがわかったが、K.Tさんはおそらくいないだろうと思う。
もしK.Tさんと再会できるなら、当時の思い出話を肴に2人で大いに盛り上がりたいと思う。
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2010/6/13

京都の思い出の人達(4)  思い出の人達

私がこのころ勤めていた会社は、いわゆる商工ローンの会社であった。
初めはただ、あこがれの京都に住めるというだけで就職した私であったが、連日の営業活動やこの会社が顧客に対して行っている実態を見ているうち、さすがに段々嫌気がさしてきた。
そしてとうとう、入社1年目を待たずして退社を決意するのである。
かといって、名古屋に戻るのはもっとイヤだった。
そのため、親に内緒でやめてすぐに次の就職先を探さなければならなかったし、社宅住まいだったので当然、退去してすぐ次の住居も探さねばならない。
このことはすぐに人事部に告げず、まずまわりの親しい人のみに自分の本心を打ち明けていたが、ある日、別の課のH.Kさんという当時30歳くらいの男性が突然、私に話しかけてきた。
H.Kさんとは毎日顔を合わせていたが、普段あまり会話をすることはなく、私はどちらかというと「この人はワシのことを嫌ってるんとちゃうか。」とさえ思っていた程だった。
そのH.Kさんが、
「せつだくん、じぶん、会社やめる、ゆうてるらしいな。(関西人は相手のことを君、あんた、のかわりにこう呼ぶ。主に相手が年下か格下の場合。)」
と言ってきたのである。
「えっ、もうそんな話が広まってるんですか。
まあ、そうじゃないと言えばウソになりますが・・・。」
「ほなら、じぶん、もう名古屋へ帰るんか。」
「いえ、実家に戻ってもウチの親は難しいですし、子供の頃からあまり良い思い出が無いので、名古屋には行きたくありません。
できれば、ずうっと京都に暮らしたいので、次の住まいと働く所を探そう、思ってますねん。」
「・・・ほうか。ほなら、今日、会社が終わったら、帰り、ちょっとワシにつきあえや。」
「は、はい、わかりました。」
普段、つきあいの無いH.Kさんから突然、こんな話になったので、私は内心驚いたが別に断る理由も無いので、その後、H.Kさんについていくことにした。
そして、私達2人が市バスに乗ってやってきた所は、南区のとある不動産屋だった。
店内でH.Kさんは、まるで自分のことのようにいろんな物件を吟味し、しばらくすると、
「よっしゃ、せつだくん、これにしいや。
家賃2万5千円、これならじぶんも、これからなんとか払っていけるやろ。」
「ええっ、はあ、なんとか・・・」
そしてH.Kさんは、なんとその場で礼金、保証金等の必要な金額を収め、契約書に判を押し、賃貸契約を済ませてしまうのである。
連帯保証人はもちろん、H.Kさん自身である。
目の前でおこっているあまりの急な展開に、私のほうがなんだか訳がわからなくなってきた程だった。
「あのう、H.Kさん。
会社をやめていく私にここまでして下さるのは、ありがたいんですが、ホ、ホンマにいいんですか。
私がいいかげんな人間だったら、後々、被害をこうむるのはH.Kさんなんですよ。」
私がそういうと、H.Kさんはポツリとこう、言った。
この言葉を私は一生、忘れないだろう。
「オレもアホや。
そやけど、じぶんはまだ、社会に出たばっかりやし、右も左もわからんやろ。
そう思うと、どうにも放っておけんのや。
それとじぶんは、絶対、真面目なやつや、と思うから、金のことは心配してへんのや。」
「す、すんまへん・・・」
私は感謝の気持ちでいっぱいだった。
それにしても、これまでろくにつきあいの無い人から、これ程思いがけない親切を受けるなんて夢にも思わなかった私は、自分の知らない所で自分の生き様を、見る人はちゃんと見ている、ということを肌で感じた次第である。
そんな訳で私は退社後に京都市南区の8畳1間のアパートに移ることができたのである。
それから社宅から新居への引越しの時は、立ちんぼのSさんが軽トラックを手配してくれ、家具の運搬は営業課同僚のK.Sさんが手伝ってくれた。
すべて社長らには、内緒である。
おかげで、私はその後すぐに次の仕事を探し、京都で第二の人生を歩むことができたのである。
そして私は必死で働き、H.Kさんに迷惑がかからないためにも、一度も家賃が遅れたことはなかったのである。
・・・
それから1年後、結局私は長男という理由で半ば強制的に名古屋に戻ることになり、それから20数年、運に見放されたような年月をおくることになるがしかし、私はこれまで1日たりとも京都でお世話になった人達のことを忘れたことはない。
これまで経済的にも苦しく、毎日自分のことで精一杯だったけれど、彼らにろくに恩返しをしてないのが今でも非常に心残りなのである。
向こうはもう、私のことを憶えてないかもしれないが、いつかもし再会することができれば、あの人達にお礼を言いたい。
・・・
立ちんぼのSさん、H.Kさん、K.Sさん、その他あの時お世話になった皆さん、今頃、どうおすごしでしょうか。
私はどうにか生きています。
もし将来、再び会えることができるなら、どうかその日までみなさん、お元気で。
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タグ: 京都

2010/6/10

京都の思い出の人達(3)  思い出の人達

前回、紹介したOさんには、まだ忘れられない思い出がある。
当時私がいた会社は前述したとおり、中小企業相手に融資や手形の割引をするのが業務であり、その営業課は、電話セールスの他に飛び込み営業もあった。
中小企業で特に、建築、染物、土木等、手形でやり繰りしていそうな所を手当たり次第に訪問するのである。
そのころ営業課次長だった「立ちんぼ」のSさんは、
「見かけは立派そうなとこでも、中身は火の車、ちゅうところもあるもんや。
これは、という会社を見つけたら迷わず、飛び込んだれ。」
と社員にハッパをかけていた。
解雇される前のOさんは前回の話のとおり、物怖じしない性格なので飛び込み営業も積極的にやっていた。
ある日、Oさんは会社から程近い、四条大宮のあるビルに入って飛び込み営業を始めた。
そして、その中にOさん好みの若い女性が受付をしている会社があったので、迷わずそこに飛び込んだという。
「あ、あ、あのう。」
Oさんはドモりながら、声をかけた。
「いらっしゃいませ。
どういったご用件でしょうか。」
「あ、あのう、わが社のお金を借りませんか。」
「はあ?」
「わが社は手形の割引や融資をやってます。
銀行さんが頼りにならない時も、必ずお役にたちます。
これを機会に当社とお取引しては、い、いかがですか。」
「・・・わかりました。
今、上の者と相談してきますので、しばらくお待ちください。」
そう言って受付の女性は席を立って、奥の方へ行った。
奥の方で話し声が聞こえ、しばらくすると突然、いかにも「893屋さん」に見える男が飛び出してきて、
「おどれぇ、ウチをなめとんのかぁ!」と一喝した。
「と、と、とんでもない。
ただ、当社のお金を使いませんかと言っただけですぅ。」
Oさんは震えながら必死で話した。
「お前、ウチが何やっとるとこか、わかっとるんか。
しばき倒すぞ。コラ!」
「ええっ。」
Oさんは、この会社の看板を初めてじっくり見ると、そこには「消費者金融 日本プ○ム」と書かれてあった。
「す、すみません。
ここが同業者だなんて、し、し、知らなかったんですぅ。」
Oさんは逃げるように帰っていった。
当日の夕方、社内で営業活動の報告を行ったが、Oさんの話に全員、抱腹絶倒した。
そしてしばらくの間、社内ではOさんがしゃべった、「し、し、知らなかったんですぅ。」が流行語になったのである。
・・・
そんな型破りなOさんだったが、今頃どうしているだろうか。
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