音楽、旅、人生観等、好きな事を好きなだけ書き連ねてまいります。 当ブログはリンクフリーです。ご自由にどうぞ。

2011/2/21

EKO Rhythm Computer  楽器

EKO Rhythm Computerとは、1970年代にイタリアのメーカーEKOで生産されたプログラミング可能なリズムマシンのことである。
まずは、この動画をご覧下さい。





これを見てどこかで見たなと思ったら、相当なジャーマン・テクノかプログレの通です。
それもそのはず、この画像を見たらおわかりでしょう。

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あのアシュラ・テンペルのマニュエル・ゲッチングが70年から80年にわたって愛用していた、あの機材である。
ゲッチンさんの名盤、”E2−E4”や”Dream and Desire”でも使用されていたあの名機。
私も単独で鳴らしているのを見るのは、この動画が始めてである。
チープな音だが、これが無かったら”E2−E4”のあの独特なサウンドは生まれなかったんじゃないかと思うと、感無量である。
それにしても、プログラムされたリズム・パターンをパンチ・カードからも読み取るようになっている、というのも、時代を感じさせますなあ。
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2011/2/18

京都人は「いけず」?  思い出の人達

私が20代で京都に引っ越して間もない頃、職場に溶け込もうと必死でがんばった記憶がある。
新聞も地元の京都新聞を購読し、休みは観光名所以外にも様々な所に出かけ、一日も早く京都の生活に慣れようとしたのである。
日常の言葉も努めて関西弁でしゃべるようにしていたし、名古屋にいた頃のことを忘れようと努力さえしていた。
関西弁を体に沁み込ませようと努力していた頃、彼ら京都人の日常話す言葉で意味のわかりにくいもので「いけず」という言葉があった。
「いけず」とは意地悪・性悪という意味だが、そんなにきつい意味ではなく悪ふざけした時や相手にちょっとからかわれた時などに使うのである。
当時、勤め先の女子社員が時々、
「うち、いけずやでえ。」
等と自分のことを言ってるのを聞いて、私は初め意味がよくわからなかった。
だがその時、たまたま自分のことを「いけず」と言っていた女子社員Oさんが私より年上だったので、私は別の意味と勘違いして彼女をヨイショするつもりでこう言った。
「Oさん、自分のことを謙遜してそんな風に言わなくても。
Oさんは綺麗だからいけずじゃなくて、絶対ええ人と結婚できまっせ。」
「そう、おおきに。
でもせつださん、なんで急にウチと結婚の話と結びつけるん?」
「だってOさん、さっきから自分のことをいけず、いけずって言うてはるから、そんなことない、いつかちゃんと嫁にいけるって言ってるんやないですか。」
「・・・せつださん、名古屋の人だけどいけずってどういう意味かわかってんの。」
私は一瞬、間をおいて、
「いけずっちゅうのは、なかなか結婚できへん人のこというんとちゃいますの。
いつまでたっても、嫁にイケズ、なんちゃって。」
「・・・アホか、ほんまに。」
そういってOさんは笑いながら、「いけず」の本当の意味を説明してくれた。
私は自分が思い描いていた意味と違うなあ、と思ったが、正しい意味を理解することができて、また一歩、京都人に近づくことができたと、うれしく思った。
そう思ってふっとOさんを見ると、なんとOさんが落ち込んだように下を向いていた。
「Oさん、どないしはったん?
急にさみしそうな顔して。」
「ううん、何でもない、何でもないわ。
どうせ、うちは売れ残りなんや。」
「そ、そんなことないでえ。
ん、そうか、誰かOさんにいけずなことを言うたやつがおるんやな。
そんなやつはワシがイワしたるさかい、いつでもそう言ってや。」
するとOさんはあきれたような顔で苦笑いをしながら、私をじっと見ていた。
・・・
当時の事を思い出すと京都の人から見たら、この私が最も「いけず」だったのかもしれない。
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タグ: 京都 方言

2011/2/11

京都市南区東九条の思い出  思い出の人達

京都というと多くの人は世界遺産にもなった雅な町、同じ関西でも大阪よりもはるかに洗練されたイメージを持っているだろう。
だが、実際住んでみた方ならご存知だろうが、京都駅より南の地域、即ち京都市南区界隈は東寺の五重塔が見えなかったら、どこから見ても大阪の下町にしか見えないだろう。
だが、そんな南区も去年の夏に長崎へ旅行した時、駅から見た京都(南区)の町並みを見て、
「ああ、ここも変わったのう。」
と、私は感慨深げに思ったのである。
京都駅の八条口からすぐ南にイオンのショッピング・モール(イオンモールKYOTO)ができていた。
名古屋もそうだが、
「ここにもイオン、そこにもイオン
ああ、そこにも、ここにも。」
という感じである。
実際、私の家から300メートル程歩くとイオン千種若宮通店があるので、新幹線を下車したら自宅近くに着いてしまったような錯覚に陥るかもしれない。
私が20代前半だった頃、約2年の京都生活で4回も引越ししたが、そのうち1回は南区東九条という所に住んでいた。
当時、そこは家賃2万円、トイレは共同、風呂無しで8畳1間のアパートであった。
その頃私は以前書いた、あのチーフK・Tさんがいた木屋町のスナックで働いていた。
夜の仕事なので昼に起き、3時に近くの銭湯へ行ってから出勤するのが日々の習慣であった。
開店間際の銭湯は客がいなくて、さぞかしのびのびと入れると思ってガラッと男湯に入ると、中で全身刺青の893屋さんが数人、背中を流しているのを見るのが常であった。
今思えば、彼らも客のほとんどいないこの時間を見計らって来ていたのかもしれないが、やっぱり始めはびっくりしたものだ。
そして風呂から出ると、番台前の休憩所にはどう見ても小学生にしか見えない近所のガキ共がなんとタバコを吹かしながら、インベーダーゲームに夢中になっているのを、何度も見たものである。
この界隈の近くには、あの映画「パッチギ!」の舞台にもなった鴨川下流の区域がある。
このあたりも休日に自転車でよく散策したものだ。
私のいた頃はまだバラックやトタン屋根の家が密集しており、独特の雰囲気を持っていた。
時折、魚屋のような小さな店があるかと思って覗き込むと、ショーケースの中は牛や豚の内臓がいっぱい入って売られていた。
以外にも住んでいた当時は知らなかったが、この界隈は京都最大のコリアタウンだそうである。
しかもこの頃、職場の人達からよく、
「ええーっ、じぶん、東九条に住んどんのかあ。」
と驚かれたものだが、名古屋から来た私にはただ単に少しでも家賃の安い所に引越してきたにすぎなかった。
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あれから25年以上経ったが、当然のことながら京都の町もあのころから変わった。
あの頃、銭湯でタバコを吹かしながらゲームをやっていたガキ共も今では立派な中年になっているだろう。
そして今度は、彼らの子供達が新しくできたイオンモールKYOTOでタバコを吹かしながらたむろしている処を補導されているのかもしれない。
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タグ: 京都 下町

2011/2/11

ピーター・バウマンの近況(2)  タンジェリン・ドリーム

元タンジェリン・ドリームのメンバーで、現在は米国サンフランシスコを拠点に実業家として活動しているピーター・バウマン氏が2009年に「The Baumann Institute(バウマン研究所)」を設立したことを以前書いた。
そのバウマン研究所は「The Baumann Foundation(バウマン財団)」と名を変え、今も活動中である。
活動趣旨は「人間の幸福について科学的、理論的に研究すること」であり、最近はその趣旨に関連した内容の著作物の出版も含まれているようである。
私生活ではバウマン氏は結婚して27年になり、成人になった3人の子供の父親でもある。
社会的にも経済的にもこの上ない程、彼の人生は幸福に満ちていると思うのだが、そんな彼がどうしてこのような財団を作ったのだろうか。
ご本人がもし、日本語を理解していたらはなはだ失礼で申し訳ないが私は、
「これってひょっとして、税金対策かなあ。」
という思いが、頭の中を走ったのである。
中国でもそうだが、今のアメリカは日本では考えられない程、貧富の差が激しくなっている。
富を得た者はいくらでも富み、残りの者は貧困層に転落していくのが今のアメリカの実情である。
ただ、ボランティアに関する意識はまだまだ日本より高く、富裕層の人達が積極的に寄付を行っているのがせめてもの救いである。
私はバウマン財団が社会の底辺で苦しんでいる人達も幸福を得られるような活動を、今後、ますます行なっていくことを強く望むのである。
ところで、音楽界から身を引いて何年にもなるのに、なんでそんなにこの人が気になるのかと思われるかもしれないが、私にとってバウマン氏は少年時代から最も好きなグループ、タンジェリン・ドリームのメンバーで、グループの活動が最も充実していた時期にいた重要な人物の1人なのである。
そして、音楽業界から去っても別の分野で成功し続けているという点で、彼は今でも私にとって憧れの人であり尊敬しているのである。

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2011/2/1

ぼろアパートの夫婦  思い出の人達

私が20代前半に京都にいた頃の話である。
23歳の頃、私は京都市山科区日ノ岡というところにある木造2階建てのアパートの1階に住んでいた。
同じアパートの2階には夫婦が住んでいたが、困ったのはこの夫婦がたびたび凄まじい夫婦喧嘩をすることだった。
夫は一見、遊び人風、妻は髪は長いが横綱のような体系をしたおばちゃんであった。
この2人が喧嘩を始めると、このアパートの床が抜けて崩れ落ちるんではないか、というくらい激しく取っ組み合うのである。
あまりの激しさに隣の人が退去する程であったし、私も最初はびっくりしたが慣れというのは恐ろしいもので次第に、
「ああ、今日も元気良くやっとるのう。」
と、余裕で感じられるようになった。
そして夫婦喧嘩が始まると、どんな理由でおっぱじめるのか聞き耳を立てて分析できるようにもなったのである。
原因は大抵、経済的な理由によるもののようであった。
「なんやぁ、おどれ、誰に向かってそんな口きいとんじゃあ。」
「なんやね、エラそうにしとりたかったら、たまには仕事しいや。」
夫は口先だけでなくすぐに暴力を振るうようで、1階に住む私の部屋の中からでも妻を殴る音と、
「ぎゃあぁ!」
という、妻の叫び声が聞こえる程であった。
そして一瞬、静まり返ると私は、
「あの野郎、とうとう自分の女房を殺っちまったかな。」
と思ったが暫くすると今度は、
「アァ、アァ。」
という、あのビア樽のような妻の喘ぎ声が聞こえるのであった。
そして暫くは静かな日々が続くが1週間程すると、2人はまた凄まじい夫婦喧嘩をおっぱじめる、というパターンが続くのであった。
私は次第に、男があのビア樽女のヒモで、暴力とSEXで女を縛っていることに気がついたのであった。
2人の間には愛が感じられなかったが、そうかと言って別れる気配もなかったのである。
当時、私は彼女も無く1人で寂しく暮らしていたが、上の階に住むあの夫婦を見て、
「なんでこんなやつらでも結婚できるんやろ。
なんでワシには彼女がいいへんのやろ(いないのだろう)。」
と、思ったものである。  
だが同時に、
「こんな低レベルの関係なら1人でいる方がマシや。」
と思ったことも事実である。
このアパートでの生活に慣れ始めたある日、私は休みの日に夜の河原町(京都の代表的な街)にくり出した。
安い飲み屋を探していたら、表通りの1本奥の通にピンサロがあった。
その店の勝手口になにやら図体の大きな女が出てきたと思ってよく見たら、なんと、あのビア樽女だったのである。
私は、あの亭主が自分の女房をこんな所で働かせていたのか、と思うと同時に、この店に来る客は安くもない金を払ってあんなビア樽女と相手をせにゃあかんのか、と思って複雑な気分になった。
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それから20年程経って久し振りに京都に帰った時、私はあのぼろアパートのある場所へ行った。
ぼろアパートは既に無く、更地になっていた。
私は自分の人生を振り返りながら暫く、ぼろアパートの跡地に佇んでいた。
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タグ: 京都 アパート



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