音楽、旅、人生観等、好きな事を好きなだけ書き連ねてまいります。 当ブログはリンクフリーです。ご自由にどうぞ。

2011/3/28

実業家としてのピーター・バウマン(3)  タンジェリン・ドリーム

プライヴェート・ミュージックの社長として、飛ぶ鳥を落とす勢いの如く順風満帆だったバウマンだったが、思わぬところで運命の転換期に差し掛かった。
1990年に入って、もう一度ミュージシャンとして再出発しようと考えたバウマンは以前、「BLUE ROOM」のブログでも書いたように、当時タンジェリンから脱退して間もないポール・ハズリンガーと組んで、「BLUE ROOM」プロジェクトを立ち上げた。
しかし、1年近くの準備期間を経てデビュー・アルバム完成までこぎつけたのにかかわらず、結局没になったのである。
バウマンは落胆し、音楽業界がいやになってプライヴェート・ミュージックの経営権をBMGに売却した。
皮肉にもミュージシャンだった彼がもう一花咲かせようとしたら、自分の会社まで失ったわけだが、転んでもタダでは起きないとは彼のような人物を言うのだろう。
「ピーター・バウマンの近況」でも書いたように、今度は音楽とは全く関係のない業種(天然資源開発、不動産)で成功をおさめたのである。
自分の会社を売りはらった金を元手に違う業種にも挑戦し、どんどん自分の資産を大きくしていく、というやり方は、やはりユダヤ商人が得意とする経営方法である。
日本人なら、
「せっかくここまで大きくしたのに、あるいは先祖から受け継いだものなのに、今更他に何をやれというんだ。」
と頑なに考える人が多いだろう。
こういう人達は結局、時代や社会から取り残されて死に体をさらすことになるが、ユダヤ商人は様々な時代や国や地域で試練の中で生き抜いてきたので、立ち回りが早く柔軟であると言える。
勿論、音楽業界からいきなり不動産や開発事業に手を出したのは、あまりに冒険だから、奥さんのアリソンさんやその親御さん等から(奥さんの実家もかなり裕福らしい)的確なアドバイスを受けた上で実行したのかもしれない。
いずれにしろバウマンは器の大きい人間であることは間違いない。
器が大きいから、9歳年上のフローゼの下にいつまでも甘んじて生きるのは、たとえ当時のタンジェリン・ドリームが絶頂期でもできなかったのであろう。
器が大きいから、1つの業種で「お山の大将」で終わる人材ではなかったということであろう。
彼は私のような凡人から見たら「雲の上のお方」であり、人生の教科書のような人でもある。
下の写真は現在、おそらくネットに出回っている彼の写真の中で、最も彼の最新の姿を写したものだと思う。

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とても元気そうだ。
今後も私はバウマン氏のファンであり続けるであろう。
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2011/3/28

実業家としてのピーター・バウマン(2)  タンジェリン・ドリーム

”STRANGERS IN THE NIGHT(1983)”をリリースした以降のバウマンは主にプロデューサー等の裏方的な仕事を続けていたようである。
元々、彼は寡作な方であった。
ドイツにいた頃のソロアルバムは現在でも高い評価を受けているが、自分の才能と人気がいつまで続くか、本人も悩んでいたのかもしれない。
「音楽の道へ進んだのは父親が作曲家だったので、無理矢理、音楽の勉強をさせられたからなんだ。」
「最初にバンド活動を始めたのは14歳の時。
その頃はポップ・ミュージックが大好きだった。」(バウマン)
また、クリス・フランケはインタビューでタンジェリンにいた頃のバウマンのことをこう語っている。
「ピーターは頭の良い人物だったが、果たして自分が心の底からミュージシャンであるのかどうか、いつも考えあぐねていた。
僕ら3人はいつも行動を共にしてきたので、お互いの気持ちはよくわかっていた。
僕とエドガーはもっと地に足をつけて、確実に音楽の道へ進むつもりだったが彼はもっと自由で気楽な人生を夢見ていた。」
タンジェリンにいた頃はメンバーの誰もが、新しい音楽の探求に没頭し、熱烈なファンの期待にも後押しされていた。
その反面、レコードの印税等で得た金のほとんどは新しい楽器や機材の購入等に消えていった。
音楽家の仕事は才能と人気が頼りで、将来の保障は何も無い。
バウマンが自分の将来について真剣に悩んでもおかしくないことである。
さて、アメリカで次なる道を模索していたバウマンは1984年頃からついに新しい仕事に着手した。
ニュー・エイジ専門のレコード会社、プライヴェート・ミュージックの設立である。
彼はこの会社のレコーディング・プロデューサー兼社長としておさまった。

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この会社を作ることによって、バウマンはようやくアメリカで自分のやりたい音楽で食べていける境遇になったと言えるが、このレーベルを成功させる為に次の戦略を打って出た。
まず1つは徹底した音質重視の曲作り。
作品は全てデジタル録音で、録音媒体も設立当初はCDとクロム・カセットのみでアナログ・レコードの販売は後に多くの消費者の要望で実現された。 
次に視覚的にもすばらしい、芸術的なジャケット・デザイン。
特に初期にリリースされたアルバムは、白地のウィンダム・ヒルのアルバム・デザインに対抗して、黒地に美しい絵やデザインをあしらった物が多かった。
そして3つ目は、購買層を当時ヤッピーと呼ばれた高学歴、高収入で私生活や趣味に多額の金をかける人達に照準を絞ったことである。
子供が踊りながら聴くようなポップスとも違い、クラシック程堅苦しくなく、それでいて時代の最先端の音楽であることを大いにアピールし、ヤッピー世代の肥えた耳と購買意欲を満足させたのである。
そのためアメリカ国内では日本と違って、レコード店のみならずヤッピー世代が足しげく通う高級ブティックや雑貨店等にも商品を置いて、購買意欲をさそったのである。
日本でも今日、書店や高級輸入雑貨店等でCDを売っている店をよく見かけるが、これはそのはしりと言えるだろう。
ヤニーやパトリック・オハーンといった大物アーティストもかかえ、レーベルは次第に有名になっていった。

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(マイク・オールドフィールド、フィリップ・グラスとのスリー・ショット)

そしてバウマンは遂にかつての仲間だったタンジェリン・ドリームとも契約をかわすのである。
事の発端はバウマンの方から、フローゼに
「10年ぶりにもう一度いっしょに仕事がしたい。」
と言ってきたことによるそうである。(続く)

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2011/3/27

実業家としてのピーター・バウマン  タンジェリン・ドリーム

1976年、タンジェリン・ドリームは名盤”STRATOSFEAR”を出した頃から、ピーター・バウマンは自己のレコーディング・スタジオの建設に着手するようになった。
”STRATOSFEAR”の製作に膨大な費用がかかったので、メンバーの誰もが自分のスタジオを持つことを希望するようになったのである。

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バウマンが彼のパラゴン・スタジオを造った時、フローゼとフランケは、
「これでやっと、時間と金のことを気にせずにアルバムの製作に没頭できる。」
と考えたようだが、バウマンの答えは違った。
「このスタジオを造るのにかなりお金がかかったわけだから、他のミュージシャンにも利用してもらうことによって元手を取り、これから先も商売として活用していきたい。」
ということであった。
このような意見の食い違いとバウマンがソロ・ミュージシャンとしてやっていきたい、という気持ちもあって、結局、'77年にバウマンはグループから脱退するのである。
こうしてバウマンのソロ・ミュージシャンやスタジオ経営者としての人生が始まった。
バウマンは音楽家の父と女優の母の間に1953年ベルリンで生まれたが、ユダヤ系のためか金銭感覚に長けていたようである。
ソロ第1作”ROMANCE’76”から第2作”TRANS HARMONIC NIGHTS(1979)”までの間、バウマンはクラスターやコンラッド・シュニッツラー等のアルバムのプロデュースを手がけていた。

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(クラスターのハンス・ヨアヒム・レデリウスと共に)

「自分の作品を世に出すだけでなく、他のミュージシャンをプロデュースすることにも興味を持ったからね。」
しかし、これらの作品は一部の熱狂的なファンをうならせるものの、なかなかメジャーなヒットまではいかなかった。
バウマンはこの状態でやっていくことにある種の限界を感じたようだった。
「自分なりに新しい音楽を追求してきたつもりだったが、だんだん先が見えてきたんだよね。
今のリスナーは生楽器とシンセのセッション、前衛的な電子音楽、ポップスと好きな時に様々な音楽を聴くことができる。
だけど所詮、自分達がやってきたものはそうした中のごく一部にすぎないということがわかってきた。」
そして、
「ヨーロッパに留まってマイナーなミュージシャンと仕事をし続けても、先が見えてる。
ここらで新天地を求めてみよう。」
と、ベルリンのスタジオを売却し、アメリカへ移ったのである。
このように今迄築き上げてきたものを惜しげもなく手放し、流浪の民の如く、新しい土地で新しい商売にかける生き様はユダヤ商人によく見られるものである。
アメリカへ渡ったバウマンはポップス・アルバム”REPEAT REPEAT”や”STRANGERS IN THE NIGHT”をリリースし、メジャーな路線で勝負をかけた。

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アルバムはそこそこのセールスを得ることができたようだが、同時に自身のヴォーカルやソング・ライターとしての限界にも気づき、再び彼の苦悩が始まる。
「タンジェリンにいた頃から、未知の音の探求ばかりやってたので普通のポップスの方がかえって新鮮に感じた時期もあったけど、やってみて、やはりこれは本当に自分のやりたい音楽ではない、ということがわかったんだ。」
そこで彼はアメリカで音楽業界で食っていく為に次なる行動をおこす。(続く)
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