音楽、旅、人生観等、好きな事を好きなだけ書き連ねてまいります。 当ブログはリンクフリーです。ご自由にどうぞ。

2013/1/27


Monica Froese(モニカ・フローゼ)。
この名前を知ってる方は相当なタンジェリン・ドリームの通でございます。
彼女は写真家で、タンジェリンのリーダー、エドガー・フローゼ御大の最初の妻だった方であります。
妻だった、いうのは、彼女は2000年にこの世を去っているからでございます。
はっきりした死因はわかりませんが、長く病気を患っていたそうです。
この方がモニカ・フローゼ様でございます。

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私はエドガー御大の奥さんという経歴の他に何より、彼女の写真家やデザイナーとしての実力に昔から注目しておりました。
何しろ70年代のタンジェリン・ドリームのアルバムの"Rubycon"や"Recochet"、それにエドガー御大の全てのソロ・アルバム(サウンド・トラックを除く)のレコード・ジャケットのデザインは全てモニカ様が製作したもので、今でも全てのプログレッシブ・ロックのジャケット・デザインの中でも際立ってすばらしいものだと思うのであります。
そして当時のタンジェリン・ドリームの幻想的な音楽と彼女のデザインとは実によく合っていました。
私の音楽人生はまさに彼らの存在無しではありえないのでございます。
ところで何で今回、彼女のことを取り上げたかといいますと、最近FACBOOKでジェローム・フローゼさんのページを見たら彼とモニカ様が一緒にいる写真が載っていたからでございます。
ジェローム様はエドガー、モニカ両夫妻の息子であります。
この写真は1982年にバルト海で母子が歩いているところを写したものですが、撮った方はなんと当時のメンバーのヨハネス・シュメーリング氏だそうです。

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この写真をアップしたのは1月23日。
この写真についてジェローム様はこう書いております。
Happy Birthday! (She would have turned 66 today).
(誕生日おめでとう!母は今日66歳になっていたでしょう。)
・・・
モニカ様はこれで1947年1月23日生まれだということがわかりました。
しかし、亡くなったのは2000年で享年53歳ということであります。
つまり今の私と同い年であり、あまりにも早い死でございます。
この記事には、私も含め実に世界中の多くの方からたくさんのコメントをよせられていました。
みんな彼女の早すぎる死を惜しんでおりました。
もちろん、この私も同じであります。
そして、まるで彼女が自分の身近な友人のように感じられてなりませんでした。
私は高校生の頃から、タンジェリン・ドリームの音楽を聴いていたので、彼女のデザインしたレコード・ジャケットも身近にあったわけです。
しかし彼女の肉体はこの世になくても、彼女の残した作品は永久に私達の心に残るでしょう。
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2013/1/15

”がきデカ”は永遠でございます。  マンガ

70年代に人気のマンガに、山上たつひこ氏の”がきデカ”があります。
40代以上の方ならご存知かと思います。
ご他聞に洩れず私も大好きでした。
それどころか、当時から私は友人からこまわり君そっくりだと言われてきました。
FBには本名と顔写真を出している反面、ブログではご遠慮させていただきますが、確かに私の顔を見ると納得する方もいらっしゃるかもしれません。
そのせいもあってか、このマンガに対する思い入れも現在も強くあるのでございます。
現在も単行本を何冊か持っていますが、第何話のどのコマにどのような展開があるか不思議と今でも鮮明に覚えております。
それだけ強烈なキャラクターだったわけですが、ひょっとしたら不遇だった少年時代にこのマンガに出合えたことによって、私は鬱やノイローゼから救われていたのかもしれません。
若い頃にマンガや関西風のギャグに出会ってなかったら今の自分の人生は無かったと、私は今でも確信しているのでございます。

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2013/1/11

ジミー・ペイジ様も69歳になったのでございます。  ロック&ポップス

去る1月9日は、あの元レッド・ツェッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジ様の69歳の誕生日でございました。
老いてますますさかんなるべし、という言葉がぴったりなくらい今、ジミー様は活動的でございます。
しかも、お顔もすこぶる元気そうな表情であります。
私は個人的に今のジミー様の方が表情が明るくて好きでございます。
ツェッペリン時代の頃も確かにルックスは良かったけれど、健康的とは言いがたい感じでした。
酒、煙草、麻薬で身体がボロボロになってて、短命かと思いきや、1980年に意外とボーナム様の方があっけなく逝ってしまった時は、当時、学生だった私は驚いたものでございます。
しかし、ポール・マッカートニー様もミック・ジャガー様もまだまだ現役であります。
ジミー様も親子ほど年の違う2番目(?)の奥様がいらっしゃることですので、音楽もアチラの方も当分、現役であるべきでございます。
多くのファン同様、今後のジミー様のご活躍を楽しみにしている私でございます。
ただアチラの方をがんばりすぎて腹上死して、自ら「天国への階段」を登らぬことのないよう、お気をつけ下さいませ。

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2013/1/10

さよなら、Shannon(シャノン)第3話  思い出の人達

シャノンの妹さんから彼の死を知らされて、ようやく気を取り直した私は彼のFACEBOOKのウォールを見ました。
皮肉な事に毎日FBを見ているのに関わらず、最近の私は作曲に忙しいのと友達が300人以上になったために個人のウォールを見ている暇がなくなりました。
それでここ数ヶ月、シャノンのウォールも見ていなかったのでございます。
あらためて見ると、昨年の12月16日以降から複数の身内や地元の友人からお悔やみの記事の投稿がなされていました。
「RIP Shannon.」
という文があちこちにありました。
RIP=Rest in Peace(安らかに眠れ)という意味であります。
やはり、彼は本当にこの世を去ってしまったのです。
信じたくないが、事実を受け入れるしかありませんでした。
そして、2週間近くもこの事実に気がつかなかった自分を悔やみました。
私はシャノンのウォールにお悔やみのメッセージ、それに自分のウォールに今回のことをブログ風に書きました。
私のサイトには多くの友人がお悔やみのメッセージをおくってくれました。
みんな本当にいい人達ばかりでこれだけでも、嬉し涙が止まらない程でした。
それから1日経ってからも、私はぼんやりとシャノンのことを考えていました。
「もうあいつには会えんし、いろいろ世話になったのにとうとう、なんの恩返しもできなんだ。
ワシはどうしたらええんやろう。」
私は悶々と考えましたが、1月6日の自己のFBのぺージには遂にこう書きました。

「I should not be sad forever the death of my friend.
Maybe,the friend in heaven think so too.
From today,I will refresh my mind. 」
(私はいつまでも彼の死を悲しんではいられない。
おそらく、天国の彼もそう思っているだろう。
今日から、私は自分の心を生まれ変わらせるのだ。)

まるでドラマの主人公になったようなつもりで、自分で自分のやってることに酔いしれているようにも見えて、読者の方から見たら失笑ものかもしれませんが、これでも私は真剣にそう書いたのでございます。
そして次の日からはいつもどうりの音楽やギャグの記事満載のページに戻ったのでございます。
そう言えば、シャノンはいつもニコニコで怒ったり泣いたりしているところを見たことがありませんでした。
私自身もお涙頂戴みたいなことは大嫌いでございます。
だから、シャノンも私がいつまでも悲しんでいるよりもアホなことやってる方がきっと天国で喜んでいるに違いない、と思っているのでございます。
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タグ: FACEBOOK 友達 人生

2013/1/9

さよなら、Shannon(シャノン)第2話  思い出の人達

シャノンが帰国してから何年か経ったある日の夜の事です。
相変わらず私は、生活に追われながら自分の夢と現実の間でくすぶり続けるような日々を送っていました。
その日の仕事を終える準備をしていた頃、突然、母が私を呼びました。
母は両手を広げて、
「こんな大きな外人が来て、あんたに用があるって言ってるんやさ。」
と飛騨弁で言うのです。
「外人?いったい誰やねん。」
不審に思って店に向かうと、大きな男が立っていました。
「Hey.Man!」
男はにこやかに声をかけてきました。
シャノンでした。
「おおっ!また日本に来てたんやな。」
私達は突然の再会を喜びました。
しかも何のために来日したかというと、なんと私に会いたかったからだというのです。
せっかくの再会なので、どこかいっしょに食事でも行こうという話になりました。
そして、近所に住むMさんご夫妻と4人で会食をしたのでございます。
誰とでも人懐こいシャノンはMさんとも知り合いだったのを、この時始めて知りました。
再会を喜んだ私達は、たまたまみんながFACEBOOKをやっているということがわかったので、これを機会にみんな友達になったわけでございます。
・・・
その後もシャノンはチャットでよく話しかけてきました。
英語のできない私は正直に、
「私はチャットをする時は必ず、Google Translatorを使っている。
でもいつか英語が上手に話せるようになりたい。」
と、答えました。
するとシャノンは、
「じゃあ、ぼくが英会話の先生になってあげるよ。
勉強すれば必ず話せるようになるよ。」
と言ってくれ、それ以降、彼とチャットする時は英会話の授業をも兼ねるようになったのです。
私にとっては、無料で英会話の先生がついてくれたようなもので、ホンマにありがたいことでございました。
おかげで、1年前に比べたらこれでも少しは英語がわかるようになりました。
それに平行して、シャノンとFacebookの友人になったのをきっかけに、私はどんどん外国の友達を作るようになりました。
前にも書いたように、私が多くの外国の友達をつくるようになったきっかけは、シャノンやMさんの友達リストを見て触発されたことによります。
「英語もしゃべれんのに外国人と友達になってどないすんねん。」
と、私も初めは思ったのですが、シャノンとの出会いが私の気持ちをいつのまにか大きくしてくれたようであります。
それで現在、私は9割以上の友達が外国人なのでございます。
もちろん、最初の頃はチンプンカンプンの英語で相手を困惑させたことも一度や二度ではありませんでした。
その困惑させられた被害者の中には、クラウス・シュルツェのアシスタントであるGeorg StettnerさんやクラスターのHans Joachim Roedeliusさん達のような超有名人までもがいらっしゃったので、今思い出しても申し訳なくて冷や汗ものでございますが。
・・・
英会話のチャットをしながら、シャノンはよくこう言いました。
「もしあなたがオーストラリアへ来たら、いつでもぼくがガイドをしてあげるよ。」
新婚旅行以来、外国へ行った事のない私にとって、心強いことでした。
オーストラリアも、もちろん生涯のうちに一度は訪れたいと思っていたからです。
夢がふくらみました。
逆にシャノンが日本にまた来たら、自分がいろんなところに連れて行ってやろうと思いました。
何度も無料で英会話を教えてくれたことも含めて、なんとしても彼に何か恩返しをしてやりたい、という思いもあったからでございます。
そして、昨年の秋にシャノンはこう言ってました。
「来年(2013年)になったら、僕はまた名古屋へ行ってあなた達に会いに行きます。
今、僕は本屋でアルバイトをして日本へ行くためのお金を稼いでいます。
あなた達に会える日が来るのが、とても楽しみです。」
私も同感でした。
これまで結婚を除いて挫折と絶望ばかり経験してきた私にとって、久しぶりに希望に胸躍るような感覚でした。
しかし年明けそうそう、その夢があのような形で破れるとは思いもしなかったのでございます。
(続く)
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タグ: FACEBOOK 人生 友達

2013/1/8

さよなら、Shannon(シャノン)第1話  思い出の人達

その知らせを受けたのは、1月3日のことでした。
Facebookの画面を開いていた私のところに突然、久しぶりにオーストラリアのS君からチャットが来たのでございます。
ここ1ヶ月程、音沙汰が無かったので初めは多忙だったのかな、くらいしか思っていませんでした。
しかし、チャットの主はS君ではなく彼の妹さんでした。
「実は悪い知らせがあります。」
妹さんは、まずこう切り出してきました。
「私のBig Brother,Shannon(シャノン、S君のことです。以降、シャノンと書きます。)が去年の12月に亡くなりました。」
「ええっ!」
私は絶句しました。
そして、あまりのことに目の前が真っ白になりましたが、気を取り直して、
「私にはとても信じられません。」
と答えました。
すると妹さんからすぐに、
「私たちもそうです。
両親も今も、とても悲しんでいます。
でも彼は生前、いつも私達に早く日本へ行ってあなたに会いたい、と言っていました。
それで今こうしてあなたに連絡したのです。」
と、返事がきたのです。
私はすぐにお悔やみの返事を書きましたが、妹さんとのチャットが終わった後もしばらく呆然としていました。
目の前が真っ白になる、という経験は今までにも何度かありました。
昔、つきあっていた彼女に別れを言い渡された時、昔勤めていた会社でリストラにあった時、その他いろいろ・・・。
今回も同じくらい、ショックでした。
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思えばシャノンとの出会いも運命的なものでした。
名古屋のあるひなびたシャッター商店街に私の生家があります。
何年か前のある日、私の実家の家電店に巨漢の白人がふらりと入ってきました。
男はニコニコしながら、電子レンジを買ってくれました。
店を手伝っていた私は、彼の住む木造アパートへ配達に行ったのでございます。
男は巨漢に似合わず、笑顔を絶やさず愛嬌がありました。
その男がシャノンなのであります。
当時、全く英語ができなかった私は必死で片言の英語で電子レンジの使い方を説明しました。
彼は理解できたのかどうかわからないが、始終ニコニコしておりました。
すると彼はカップ麺に水を注いで電子レンジの中に入れ、稼動させました。
やがてカップ麺ができあがると、シャノンはおいしそうに麺をすすりながらコーラを飲んでいました。
オーストラリアから来たと言ったシャノンは日本での生活が慣れてないのか、私は彼の生活ぶりを見て目が点になることが多かったのでございます。
住んでいた所は、全く日本風の木造アパートだったのですが、台所やトイレは靴履きのままでした。
ただ、万年床の布団をしいた和室のみ、靴を脱いでいました。
しかし大らかな彼は、細かいことは気にせずいつも楽しそうに暮らしていました。
日々の生活は英会話のアルバイトで稼いでいるようでした。
その後も、街で偶然出会った時もシャノンは、とても人懐こく、まるで旧知の友のように私に声をかけてくれました。
そしてしばらくして偶然会った時、彼はこう言いました。
「もうすぐオーストラリアへ帰る。」
この時私は一瞬、寂しい気もしましたが、
「ビザの事もあるし、そういつまでもここに住んでいるわけにもいかんやろう。」
と思いました。
「家族が待ってるだろうから、それがいい。」
と私は答えましたが、この時はその後また再会するとは夢にも思いませんでした。
(続く)
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タグ: 友人 FACEBOOK 思いで



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