音楽、旅、人生観等、好きな事を好きなだけ書き連ねてまいります。 当ブログはリンクフリーです。ご自由にどうぞ。

2020/1/4

"Can-Paperhouse"  プログレッシブ・ロック

毎日、作曲に励む私ですが、一番苦労する時は鍵盤に手弾きでメロディーを打ち込む時でございます。
どうしてもうまくいかない時は、打ち込みでデータ入力を入れているのですが、このことからわかるように、実は私はまともに演奏できる楽器が無いのであります。
何せ、子供の頃、レコードを聴く以外、一切、音楽的な環境に恵まれませんでした。
兄弟は何故かギターを買ってもらったり、合唱部に入ったりしてそれなりに充実した境遇にいたのですが、私は自分から何かやろうとすると悉く反対や妨害を受けました。
当時を振り返ってみると、不遇で悔しい思い出しかありません。
要するに運が無いのですが、こうした状況は成人してからも続いておりました。
20代の時、お金を貯めて、初めて念願のシンセサイザーとシーケンサーを買った時、やっと自分の夢が少し叶った気がいたしました。
あれから長い年月が過ぎましたが、今でもギター等の生楽器を巧みに弾きこなす人を見ると、羨ましくて仕方ありません。
しかし、そんな私のマイナス感情を払拭してくれるバンドがかつて存在していたのであります。
それがドイツのCANというバンドでございます。
バンド自体はかなり前から知っておりましたし、レコードも聴いたことがあります。
しかし彼らが演奏する姿を見たのは、やはりYouTubeを見るようになってからのことでございます。
初めて彼らの演奏を見た時の感想は、「?」でありました。
ご本人様が読んだら怒られそうですが、日本人ヴォーカルのダモ鈴木氏の歌いっぷりは、お世辞にもうまいと言えるものではありません。
しかし、何故か彼らの演奏には惹きつけられるものがあるのです。
そして、彼らの音楽が後のパンクロックに絶大な影響を与えたことも充分、納得できました。
因みに、ダモ鈴木様がグループに加入する前に何人もの歌手がオーディションを受けたのですが、CANのメンバー達が彼に決めた理由は、他の歌手があまりにも歌がうますぎるから、とのことでした。
そういう考えもあったんだな、と目から鱗が落ちるような逸話でございます。
ダモ鈴木様がいた頃のCANはバンドの黄金期でありましたし、CANはタンジェリン・ドリームやクラフトワークと共に、ドイツの重要なプログレッシブロックのバンドであることは、間違いないのでございます。

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2011/6/17

ヴァンゲリスの即興演奏  プログレッシブ・ロック

今やサントラの大御所と言えるヴァンゲリスだが、喜多郎やクラウス・シュルツェ同様、ソロで雄大なシンセ・ミュージックを創造するアーティストとして長く活動を続けてきたのは周知のとおりである。
あれほどスケールの大きい音楽をどうやって作曲するんだろうと思う人は、マニアに限らずけっこういると思う。
そんなわけで、いくつか拾ってみました。
シンセを趣味で弾いてきた私には予想どおりというか、大量の機材に囲まれて弾いてますねえ。



以外にすごいと思ったのは1971年の映像で、1人でキーボード、リコーダーとパーカッションを使って八面六臂の即興演奏をしているところである。



MIDIの無い時代でしかも全くの即興(オーヴァーダビング無し)でここまでやれるのだから、実に器用な人であるとつくづく思った。
過去のインタビューによると、ヴァンゲリスは普段のアルバム製作においても即興を重視し、一度録音した曲を後から手直しすることはあまり無いという。
後から手を加えすぎると、最初にその音楽に込められた感動や情感がかえって段々失われてしまうからだそうで、シンフォニックなサウンドが得意なわりに以外にも楽譜が苦手と言うから、人間、わからないものである。
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2011/5/2

klaus roeder(クラウス・レーダー)  プログレッシブ・ロック

クラウス・レーダーという名前を聞いても、多くの人はピンとこないでしょう。
でもクラフトワークの”アウトバーン”にギターとヴァイオリンの奏者として参加したミュージシャンと言えば、熱心なファンなら、
「そういえば、そんなん、おったかなあ。」
と、思い出すかもしれない。
元NEU!のクラウス・ディンガーやミヒャエル・ローターらに比べると、どうにも影が薄い感じがするけど、確かにいたんです、ハイ。
彼は1948年4月7日にシュトゥッツガルトに生まれた。
”アウトバーン”では、あくまでも演奏のみの参加で、作曲やプロデュースまで担当していなかったから、元々、雇われミュージシャンのような立場だったかもしれない。
”アウトバーン”がヒットしたのにもかかわらず、その後脱退した理由は定かでないが、クラフトワークに入る前から前衛的な音楽に興味を持ち、自らギターやシンセ等を使って実験的な音楽を演奏していたようである。
そして1975年(脱退してまもなく)から自身の電子音楽スタジオを持ち、ミュージシャンや音楽教師として生計を立てながら、地道に電子音楽の創作活動に励み、今日に到っている。
彼のHPを開くと様々な自作の作品を試聴することができるので、興味のある方は是非、アクセスしてみて下さい。

http://www.klaus-roeder.org/

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次に、上のイラストはアウトバーンの裏ジャケの絵をモノクロにしたもので、向かって左から2番目がクラウス・レーダーである。
いかにもこの時代のヒッピーそのものの風貌だが、隣のフローリアン・シュナイダーだけが七三の頭をしているとかえって彼の方が異様に見えるから笑える。
また、YOUTUBEにおいて「Kraftwerk, and the Electronic revolution 」という一連の動画(特にPart10の冒頭等)で、現在の彼のインタビューの場面が映っているが、さすがに70年代と違って、髪もスッキリして見事に普通のオッサンであった。
まあとにかく、今後もレーダー先生のご活躍に乞うご期待である。
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2011/4/18

ハルトムート・エンケ  プログレッシブ・ロック

ハルトムート・エンケ(Hartmut Enke)、アシュラ・テンペルのファンならこの名を知らない人はいないだろう。
エンケは1952年10月20日生まれ、マニュエル・ゲッチングとは同級生で友人だったという。
彼に関する情報でよく知られるのは、麻薬中毒になって1973年のアルバム”Join Inn”を最後に音楽界から姿を消した、ということ。
その後どうなってしまったのかと言うと、廃人になってしまったとか、見事復帰して元気になり、ごく普通の仕事に就きながら時々ゲッチンさんの自宅へ訪ねて来るようになったとか、いろいろあり諸説プンプンである。
ただ、はっきりわかっていることは、2005年の12月に亡くなっていた、ということである。
アシュラ・テンペルのファースト・アルバムでは疾走感のあるベースを弾きまくり、”Join Inn”ではすごく印象に残るようなメロディを弾いていたエンケさん。
すばらしいミュージシャンだったが、60歳過ぎた今も現役であり続けるシュルツェ師匠と違って、なんとも線香花火のような人生でしたな。
合掌。
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2011/4/5

Daniel Fichelscher(ダニエル・フィッヒェルシャー)  プログレッシブ・ロック

ダニエル・フィッヒェルシャー(1953年3月7日ベルリン生まれ)は今は亡きフローリアン・フリッケ率いるポポル・ブーのメンバーとしてプログレ・ファンの間で知られた人物である。

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(1973年頃のポポル・ブー。
左からダニエル・フィッヒェルシャー、フローリアン・フリッケ)

彼はAmon Duul II のドラマーだったが、1973年にポポル・ブーに加入した。
その頃既に、ポポル・ブーはアコースティック路線で活動しダニエルはギターとパーカッションを担当していた。
この頃のポポル・ブーは”Das Hohelied Salomos (1975)”、”Herz aus Glas (1977)”等の傑作を次々と発表していた時期であり、私は個人的にこの頃のポポル・ブーが一番好きだ。
だが残念ながらリーダーのローリアン・フリッケが2001年に惜しくも他界してしまった為、バンドは解散となってしまった。
今、ダニエル・フィッヒェルシャーはどうしているだろう、と気になって調べてみると、現在、また古巣のAmon Duul IIに戻ってドラマーとして活動していることがわかった。

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ダニエル様はポポル・ブー在籍当時からお若いのに頭が薄いな、と思っていたが、現在ではスキン・ヘッドなんですな。
ピーター・バウマンの話でもそうだが、私は好きなミュージシャンの音沙汰が無いとどうにも気になってしまう、ある種の追っかけみたいな所があるようだ。
そのうちプログレ・アーティストの「あの人は今」のカテゴリーが作れそうな感じだな、と自分でも思う程である。
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2010/7/19

Wolfgang Riechmann(ヴォルフガング・リーヒマン)  プログレッシブ・ロック

Wolfgang Riechmann(ヴォルフガング・リーヒマン)は1947年にデュッセルドルフに生まれ、STREETMARKというバンドでシンセサイザー奏者として活動していた。
つまり、クラフトワークやノイ!のメンバーとほぼ同期ということだが、彼のことを知ってる人はあまりいないだろう。
私は30年以上前に名古屋市内の中古盤屋でドイツのスカイレーベルからリリースされていた彼のアルバム、”WUNDERBAR”を見つけて、ジャケットがカッコいいのでなんとなく買ったことがある。

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全般的に当時の典型的なジャーマン・ピコピコシンセ・ミュージックで、当時の私にはタンジェリンやシュルツェ以外のミュージシャンに対して、やや食傷気味に感じていた頃なので、
「ああ、やっぱりこんな感じかよ。」
というのが、第一印象だった。
ただ、タイトル曲の”WUNDERBAR”が出色の出来でメロディがなんとなく日本の民謡みたいなのが、すごく印象に残ったのである。
そんでもって、動画を見つけました。



どうです。
我々日本人にもすごく受け入れやすい感じがすると思うけど。
・・・
しかし、その後は彼の悲報を知ることになる。
1978年、彼は地元デュッセルドルフの酒場でケンカに巻き込まれ、胸をナイフで刺され死亡するのである。
彼は同じデュッセルドルフのミュージシャンでも、クラフトワークのように脚光を浴びぬまま、この世を去ってしまった。
そう思うと、私はこの”WUNDERBAR”のメロディがよけいにもの悲しく聴こえるのである。
合掌。
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