神学は哲学ではない。似たスタイルをとるが、根本から別物である。
意識する自己、考える我、以外のすべてを疑い、白紙に戻して考え始めるのが哲学であるのに、そうではなく、「この信仰」「この教会」「この教え」「この神」を、初めから疑わずに前提としてしまっているのだからだ。
それはテツガクの名に値しない。
同じように−
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フェミニズムは「女性の女性による女性のための」ものとしてあるがゆえに、真実よりも「女性の味方であるかどうか」「女性の利益に奉仕するものであるかどうか」を優先してしまう。
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ハストリーは「女性の視点からの歴史叙述」であるがゆえに、事実に根ざすことよりも女性の立場に与することの方を上に置いてしまう。
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プロレタリア文学は、文学としての表現よりも、人民性と階級性を上に持ってきてしまう。
こうしたことが、つまり、
党派性というものなのだ。
科学は党派ではない。党派に奉仕するものではない。
というか・・・科学や技術はいかなる党派にも属していないのだが、それゆえにどの党派にも利用される可能性がある、というべきだろう。
「文学部」をFaculty of
Lettersというが、Faculty of
Liberal Arts(人文学部)ともいう。
リベラルアーツ、人文諸学、は何からリベラルであるのか。
神学からである。
中世ヨーロッパにおいて神学は学問の王であった。真に修めるべき「大学」はこれであった。
それ以外の「小学」はすべて、
神学の婢であるか(ラテン語学、ギリシア語学、ヘブライ学−以上はまさしくLetters、文字、の読み書きの技術である−、哲学、歴史学)、
それと矛盾しない限りにおいてかろうじて生きることを許された(自然科学、医学)。
Liberalとは、つまり、「直接聖書に由来しないがゆえに、
教会[の神学的権威]から自由なものになる恐れがある」という含みを持っていた。
教会に無条件に従わない恐れあるがゆえに剣呑、であったのだ。
実際リベラルという言葉は「反王党派」のことなのであって、フランス革命以前にはおそらくいい意味などほとんどなかった。「神から自由な人間」が許されないように−これを象徴するのが旧約聖書のヨナの物語である
[*]−王から自由な人間とは「姦賊」(traitor、裏切り者)でしかなかった。
こんにち「教会」はもはや世俗の人々を圧迫する力や権威のないものであろうか。
断じて否である。
真実の探求よりも上に何か別のものをアプリオリに置こうとするものはすべて現代の「教会」である。宗派である。セクトである。
科学者は今でもこうした「教会」によって、たえず脅威にさらされている。
リベラルアーツがリベラルであること、あろうとすること、それは今でも意味を持っている。
文学部よ真に「リベラル」であれ。
あらゆる「教会」にとって「危険」なものであれ。
【今週の結論】
この程度のことを考えるのに45年もかかるとは、俺はやっぱり少しバカなのか。
注
[*]:ヨナという男にとって神は重荷であり、圧迫だった。そこで神のいない国(常識的に考えて、そんなものが地上にあろうとは思われないのだが、人間、切羽詰まると妙なことを考えついてしまうのだ)に行こうと思い密航を企てるが、嵐に遭う。ヨナは恐れ、「私はヒブル人です」と叫ぶ−つまり神に選ばれた民族であるがゆえに、契約を守り、神をたたえる義務を負った者であると、ついに認める。しかし手遅れで、この空気の読めない密航者のせいで神様が御機嫌斜めじゃねえかゴルア、とカンカンに怒った船乗りたちによって、ヨナは海に放り込まれる。そして巨大な魚(鯨か)の腹の中に呑まれて旅をする。つまり古い自分はいわば一度死ぬ。ユングのいう「夜の航海」というのはこういうもののことかもしれない。

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