日朝関係を考える上で参考にするため、英国とアイルランドの関係史をたどるシリーズの一回目。
文中、データの一覧表が不揃いで見づらいのですが、ご容赦。リアルタイムプレビュー見ながら編集したのですが、揃え方・スペースのあけ方がよくわかりませんでした。半角スペースは無視されるんですかね?
ブリテン島とアイルランドを地理的に分かつものは聖ジョージ海峡と内海のアイルランド海である。それ以外にもさまざまな点から両者を「隔てる」ものがあるが、
(a)プロテスタントが主力の国家(英国)とカトリックが多数派の国家(アイルランド)
という、もっともよく知られたことの他にもいくつかさらに古い起源のものがある。
(b)塩野七生が『ローマ人の物語 VII 悪名高き皇帝たち』(新潮文庫版では第20巻p.101)で指摘するように、「ローマ世界と非ローマ世界」の違いがある。すなわちブリテン島(スコットランド高地除く)はローマの属州となったが、アイルランドはローマによる支配を経験しなかった。
(c)さらにそれ以前、ケルト人の世界としてのブリテン諸島は、言語上「ブリテン系」と「アイルランド系」の二つに大きく分かれるのである。今回はこの点について少し掘り下げてみよう。
ケルト語(印欧語族ケルト語派)は大陸ケルト語と島嶼ケルト語に分かれる。大陸ケルト語はヒスパニアから小アジアにまで広く分布していたとみられる、ヨーロッパ大陸のケルト語である。これらはすべて絶滅した。あるものはローマ化し、あるものはゲルマン語を話すようになった、という具合である。現在はっきりした資料が残っているものはすべて島嶼のもの、すなわちブリテン島とアイルランド島及びそれらに付属する島のものである。
島嶼ケルト語はゴイデリック(ゲーリック)語群とブリトニック語群に分かれる。前者は要するにアイルランドに起源を発するもので、ゲール語とその仲間であるとみてよいだろう。後者はブリテン島の中にもともとあったと考えられるグループで、ウェールズ語、コーンウォール語、及びブルトン語がこれに属する。
ブリテン島内のケルト語のうち、スコットランドのゲール語はゴイデリックに属す。つまり同じケルトでもアイルランド系の言語である。またマン島の言語であるマン語は、マン島自体は英国に属し、歴史的にもローマ圏に属するが、やはりゴイデリックである。ゲール語の方言とみる研究者もある。ブルトン語はフランスのブルターニュに存在するケルト語だが、これは大陸に残存したケルト語なのではなく、ブリテン島から渡ったものであり、ブリトニックに属する。
ケルト語にはまた、P-ケルト語とQ-ケルト語という分類の仕方がある。数詞の4と5の頭の子音がp-であるかQ(kw)-であるかによって分けるもので、ちょうどブリトニックとゴイデリックに重なる。ブリトニックはP-ケルト語であり、ゴイデリックすなわちアイルランド系の言語はQ-ケルト語である。では数詞の1から10について、ゴイデリック(アイルランドのゲール語、スコットランドのゲール語、マン語)とブリトニック(ウェールズ語、コーンウォール語、ブルトン語)のデータを見てみることにしよう。なお、補助記号は省略した。
Gaelic(Irish) Gaelic(Scots) Manx | Welsh Cornish Breton
1 aon aon nane | un onen unan
2 do da jees | dau deu daou
3 tri tri tree | tri try tri
4
ceathair ceithir kiare |
pedwar peswar pevar
5
cuig coig queig |
pum pymp pemp
6 se sia shey | chwech whegh c'hwec'h
7 seacht seachd shiaght| saith seyth seizh
8 ocht ochd hoght | wyth eth eizh
9 naoi naoi nuy | naw naw nav
10 deich deich jeih | deg dek deg
アイルランド系(ゴイデリック)とブリテン島系(ブリトニック)の間に、特に4と5に注意すると、はっきりした断層があるのがわかる。
ゲルマン語の数詞の4と5(英語four-five、ドイツ語vier-fuenf)を想起すると、P-ケルト語の方がそれと近そうに見えるが、実はQ-つまりkw-の方がより古い形で、P-の方が改新を経たものであると考えられる。
これをブリテン島を中心に見ると、P-ケルト語(ウェールズ、コーンウォール)の外側を、Q-ケルト語(アイルランド、スコットランド)が取り巻いているように見える。つまり、ブリテン島で起きた改新の波がアイルランドには及ばず、保守的な形が残ったものと解釈できる。
そのさらに「内側」に、ゲルマン語化(つまり英語化)した地域があり、これがブリテンの心臓部つまりイングランドである。ここもアングロサクソン族の侵入以前はおそらくP-ケルト語に近いケルト語を話していたのであろうと考えられる。
そこで、「外側」(左)から「内側」(右)に言語圏を並べると、次のようになる。
[Q-ケルト語地域] [P-ケルト語地域] [ゲルマン語化地域]
アイルランド ウェールズ イングランド
高地スコットランド コーンウォール 低地スコットランド
マン島 ブルターニュ
マン島が(フラヴィウス朝期にローマに征服されて)ローマ圏であることを除けば、ローマ化された地域と英語の本拠地とが重なるのが面白い。ノルマン人はローマ人の征服した領域をそっくり受け継いだわけである。
ところで、「息子」を意味し、人名にもよく出てくるMacという語に相当するものも、P-ケルトとQ-ケルトで断層がある。有名なMac-は、Q-ケルト語の形であることがわかる。
Gaelic(Irish) Gaelic(Scots) Manx | Welsh Cornish Breton
son mac mac mac | mab map mab
確証はないが、Q-ケルト語のmacとP-ケルト語のmabの対立が軟口蓋音(k)対唇音(b/p)であることから、多分数詞のケースと平行する現象なのだろうと私は思う。
ウェールズ語のmabは、人名ではおそらくそれの省略形であろう、ab-という形で現れる。
Powell←ab-Howell
Bevan←ab-Evan
Price←ab-Rhys
Perry←ab-Herry
Pritchard←ab-Richard
アメリカの有名人にいかにウェールズ系の姓が多いかおわかりになると思う。余談なれど。
以上見てきたように、ブリテン本島とアイルランド島との間の「断層」は、プロテスタントとカトリックに始まるわけではなく、ローマ時代からすでに、そしてさらに古くケルト世界としてすでに、存在していたものであることがわかる。
つまり、ブリテン本島人とアイルランド人の「相性の悪さ」は、相当に根が深いのであるw
参考文献
Adrian Room(1986): Dictionary of Britain, Oxford.
Teach Yourself Irish[アイルランドの、つまりふつうに言う、ゲール語]
Teach Yourself Gaelic[スコットランドのゲール語の入門書なので注意]
Teach Yourself Welsh
R. Morton Nance(1999): A New Cornish Dictionary, Agan Tavas.
Michelin Motoring & Tourist Map - Great Britain-Ireland(2001)
海老島 均・山下理恵子(編著)(2004):アイルランドを知るための60章、明石書店。
ほか。
マン語とブルトン語のデータはWeb上のオンラインディクショナリーのたぐいを利用しました。
なお、Collins PocketのScots Dictionaryというのは、ゲール語ではなくて低地スコットランドの英語方言の辞書です。

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