正当な手続きを経て制定された法律を遵守するのは国民の義務である。
内容は関係ない。
手続きが正当であるならば、その法律は民主主義の果実であり、法治国家の法律だからだ。
その法律に不服があるなら、これまた
正当な手続きによって改正なり廃止なり[以上、国会]、解釈の変更[裁判所]なりすることだ。
正当な手続きによって制定された法律の、その内容が承服できず(かつ、改正などの手続きが待てないか、実現が望み薄で)抵抗するというのであれば、処罰されることも
覚悟の上でなければならない。
その
覚悟なくして「抵抗」(不服従)を口にする資格はない。
抵抗する権利を認めろ、抵抗しても処罰はするな、というのは
甘えだ。
《正当な手続きによって制定された法律に(内心はどうあれ、外面的行動の次元において)従うのは国民の義務であり、それにあえて抵抗するならペナルティを覚悟の上でなければならない。》
「悪法も法である」とは、こういう意味である。
そして、抵抗が抵抗たりうるのは、痛みを甘受する覚悟あってのことだと、ガンジーは語っている。アンダマン諸島(つまり、刑務所のあるところ)に行く覚悟をしろと。(おもしろいことに、マザーテレサも「自分でも痛みを感じない援助は援助の内に入りません」と言っている。自分にも必要なものなのに、あえて他人のために投げ出すから援助は貴いのであって、痛くも痒くもない小銭をチャリーンと放ったぐらいで何か天に宝を積んだような気になるんじゃねえと−もちろんもっと上品な言い回しでだが−彼女は言っているわけなのだが、
犠牲は痛いから犠牲なのだ、と言っているところでガンジーに通ずる)
正当な手続きを踏んで定められたものであるにもかかわらず、内容が「間違っている」と思うから(つまり、自分にとって
都合が悪いから)という理由で守らなくていいとするならば、法治国家などどこかへ消し飛んでしまうだろう。
「悪法も法」であるとは、そういうことを戒めたものなのだ。
大体、
正当な手続きによって制定された法に「抵抗する権利」(正確には「抵抗してもペナルティを免れる権利」)など、
法治国家の国民には本来ありはしないのだ。あるのは、
「(よんどころない事情により)従わないと決心した場合の、当然科せられうるペナルティへの覚悟の必要」である。
人民の「抵抗権」なるものをわざわざ憲法で謳っている国(例:大韓民国)は大抵、クーデターまたは「人民の闘争」(つまり、テロリズム)によって創建された国である。まともな民主国家ではない。
《革命とは脅迫である。数人を殺せば数千人が脅える。...かくて少数派は圧倒的多数に変貌する》−レオン・トロツキー。
繰り返すけれども、その法律の「
中身」は関係ない。「
手続き」が正当なものであるかどうかが問題なのだ。
デモクラシーとはそういうものであり、また、その程度のものなのだ。
この文章は最近、(全然望まないのに)「閣僚の靖国神社参拝」「憲法改正」「教育基本法改正」「日米同盟の強化」いずれにも反対する同僚から(けしからんことに会食の席上)議論をふっかけられたことがきっかけとなって書かれたものである。
彼は言う、「間違った(内容の)法律」に従う必要などない、と。それは、しかし、誤った考えである。民主国家/法治国家において「間違った法律」があるとすれば、それは「正しい法的手続きによらずに」成立させられた法律だけである。内容がどうあれ、
正しい手続きによって成立した法律に従わないことを正当化するのは(あきらかに公益に反するとか、どうみてもすでにある他の法律と矛盾するとかならばともかくとして)難しい。そうでなかったら国会や裁判所と国民とは一体いかなる関係にあるのか?私は国民であり、国会議員たちは私たちが自分で選んだ私たちの代表なのであってみれば、国会で決めたことが良くなかったとしたら、それは
私にも責任があるに決まっているのではないのか?それを
他人事のように批判したりあまつさえ「抵抗」してみせたりするのは無責任ではないのか?
要するに−
おれは
日本国民である。
世界市民なんかであるものか。
おれはナショナルな義務を果たす。
そうすることによってのみ、おれの「権利」(たとえチャチなものであったとしてもだ)なるものが、発生すると知っているからだ。
天然自然に「人間である」ことから生ずる「権利」なんぞありはしない。
そんなような意味の限りにおいておれは、ソクラテスやガンジーの言葉を、生きようと、少なくとも努めては、いる。
哲学は知識ではない。
それを生きるものである。
法治国家を、デモクラシーをおれは、生きようとしてるがゆえに、その程度その限りにおいてではあれ、それが何であるのか知っている。
そんなわけで、おれは「国民」であるほかないのだ。

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