二重基準というのはどこから生まれるのだろうか。
思うに、事実から出発するのでなく、アプリオリな結論またはテーゼからしようとするからではないか。だから、途中で新しい事実が出てきたり、これまで考えられていたことが正しくないとわかったり、しても、それをも包含して説明できるように仮説を修正する、のではなくて、事実の方を勝手に取捨選択したり、編集・加工したり、そのつど異なる基準で解釈したり、してしまう。
よく左翼とかリベラルとかについて、こうしたことが指摘される。しかし、二重基準ならば右翼・右派にだってありうるのだ。
右派の二重基準は「過去の再解釈(一度悪として断罪されたものの復権)と現在の《悪》の糾弾」、左派のそれは「過去の《悪》の断罪と、現在与論が《悪》として糾弾しようとしているものについての結論の保留(
だが、ちょっと待ってほしい。拙速は慎みたい。今ことさら結論を急ぐことはないだろう。単純に悪と決めつけるのはいかがなものか?)」といった形で現れてくることが多いように思う。
【例】
右派−「日本が戦争を始め(させられ)たのは、それを望んだからではなく、そうするべく追い込まれたのである[
反時代的歴史再解釈、あるいは陰謀論]。ところで北朝鮮は狂気の体制であり、戦争を望んでいる平和の敵だ[今の悪についてはこれから先も悪であろうとあっさり割り切る]」
左派−「日本は過去には狂気の体制であり、戦争を望んでいた平和の敵であった(
そして今も指導者たちは、平和を願う人民の痛切な想いにもかかわらず、
本当には反省していない)[一度断罪した過去のものは永久に悪のまま]。ところで北朝鮮については性急な結論や判断や評価は差し控えておきたい。なにしろデータが少なすぎるからだ。それにしても、
彼らをここまで追いつめてしまったアメリカや日本にも責任はないだろうか[今悪に見えるものについては
将来の更生に期待し判断を保留、あるいは陰謀論]」
どちらがせめてもマシであるかとか、どちらのどの部分には言えてないこともないところがあるかとかはともかくとして(しかしあえて私見をのべると、左派の前段は完全なプロパガンダだが、右派も前段はかなり手前勝手な言い分である。後段、右派の言い分に異論はないと言いたいところだが、同じ立場−単独でアメリカを敵に回す立場−だったら我々ももしかしたらそうするほかないかもしれない、ぐらいは、付け加えておいて悪くはあるまい。たとえばの話、イスラエル−建国以来四方すべて敵意に囲まれ続けた国−から「アメリカの支持」を取りのけたとしたら、すぐに滅亡しないとすれば、やがて滅亡するまでのあいだテロ国家として生きるほかないかもしれないのだ。さて、左派の後段だが、これは失礼ながら馬鹿そのものである。従って、修正すればまあまあ使い物にならないこともないのは右派の説の方である)−−。とにかく、「なぜ、こうなのか」を考えよう。
それは、
時間軸上のどこによりよい社会像を見ようとするかということの違いによる。
右派は過去に黄金時代を設定する。従って、現在に至る歴史は国民・民族の堕落の過程に見える。現在という「穢土」から離れるには、過去のすばらしい時代を模した体制を「
復古」することがよいと考える。このままでは世の中悪くなる一方ということになるがそれでは困り、しかし過去そのものにはもちろん戻れないので、「復古」となるのだ。何を復古(お手本としての過去に忠実なもの)と見なすかは党派による。また、
過去は鑑だから、「悪かった」のでは具合が悪い。だから美化され賛美される傾向があり、これは必ずしも史実と関係ない。
左派にとって歴史は人民の進歩および、闘争による自由の拡大の過程である。すなわち、過去は今より悪く、未来は今よりいいはずである。救済は未来において建設されるはずの理想社会にある。これを建設するには現体制を解体すること、つまり
革命による。革命や進歩を標榜するものが、従って、悪であっては具合が悪いので、一見問題があるようにみえても「性急な評価は禁物」とされたり、「
あれは実は真の革命ではなかった」とされたりする。過去は悪魔化される傾向があり、これは理論上の要請なので必ずしも史実によらない。
右派と左派に共通なのは、
どこかに理想の時代を設定し、それに照らして現在を見、歴史を見ようとする態度である。そして、「今の世の中はなっちょらん」と、どちらも言う。
しかし実のところ、そんな「理想の時代」など実在しないか、あるいは、存在を確かめるすべがない。歴史とは精神の運動である、とはよういうたもんじゃ。
つまり歴史とは、時間とか人間とは何だと思うか、という一種の哲学のことなのである。だから、立場の違ういろいろな歴史家が、同じ史料を前にしてほぼ同じ結論に達したりする−そういうことはある−ことの方が驚くべきことかもしれん。
ところで、上に述べたことからすると、「
過剰な中道」というのも、奇妙なことだが、存在しうるのである。今この時、現在、が最高(というよりも、もっとも少なく悪いだけ)であって、過去は今より悪く、未来も今より暗い。従って、「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ」「踊らにゃソンソン」となる。非常に刹那的である。現在が最高といいつつもホントのところ厭世的なのは左右と同じ。
しかしこれは一応歴史観というか時間観があるからまだいい。
『週刊△△』の類の多くは、−朝日の悪口書いたり創価学会の批判したりしているので何か思想があるように錯覚しがちだが、そうではない−それですらない。今の世の中真っ暗闇で先行きも暗いけど、昔がよかったとも言えないよなって、この人らの記事には歴史も時間もないのだ。自分が以前書いたおどろおどろしい予言がすっかり外れたり、分析が間違ってたりしても誰も訂正せず謝りもしないのはそういうことと関係あるのかもしれん。そのくせ他人(や外国)のことは「歴史的健忘症」だとか書いたりしてな。お前らがゆーな。
今回言いたかったことは、要するに自戒です。右派もまた過剰であり得、馬鹿であり得るのだと。「右派」と「保守」が似て非なるものであるということも、このことからおわかりいただけることと思います。「保守」と、「(主義として追求される)中道」もまた、全く違うものになってしまう可能性がある、ということもね。

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