伯父(父の兄)が84歳で亡くなった。秋田県男鹿市出身。
彼は戦中、ソ満国境の警備をしていた。小川の向こうがソ連領で、病院があり、ロシア人の看護婦が包帯を洗って干すのが間近に見えたという。
どういうわけか、終戦のかなり前に朝鮮(済州島)に引き揚げて来ていたため、幸運にも抑留はされなくて済んだ。
済州島は潮の満ち引きの差が大きいので、米軍の艦艇は日本の降伏後も三ヶ月間は上陸して来ず、ビラを撒くだけだった。だからヒマだったw。
済州島の現地民は兵隊に怪しげな密造酒を売りに来た。それはメチルだった(おがくずか何かで造ったものか?)。秋田の兵隊はみな酒飲みだけに詳しく、メチルには手を出さなかったが、痛ましいことに青森の兵隊たちはしばしばそれに手を出して犠牲になったという。
伯父は戦地で病気になった兄を伴って列車で秋田に復員しようとした。ところが、
朝鮮人たちが意地悪して乗せてくれない。病人を抱えているというのに...それに、昨日まで一緒に「天皇陛下万歳」と言っていた同胞なのに、なぜ一夜明けたら豹変して
戦勝国民顔しているのか?(梶原一騎/矢口高雄
『おとこ道』の「ストリップ」のエピソードの意味が、この伯父の回顧談によって初めて私の頭の中でリアルなものになった。もっとも、『おとこ道』は、実は柳川次郎と谷川康太郎の、ということはつまりそれこそ朝鮮人ヤクザの、伝記がベースだったのだが...)
このとき
中華民国の役人たちが席を譲ってくれた。彼らは秋田で起きたシナ系満州人鉱山労働者の虐殺事件(花岡事件)の調査に向かう途中だった。それなのに、他ならぬその秋田の、日本の兵隊のために席を譲ってくれたのだ。
伯父はこの時以来、終生
「中国人は度量が大きい」が、「朝鮮人は汚い奴ら」だと思い続けた。これは
戦後日本人の特定アジア観の共通のひながたであろうと思う。
伯父には、しかし、唯一つ、理解し損なったことがあった。それは、「ひょろ長く背が高い」朝鮮人の友人たちが、
自分の方が背が高く(実際、朝鮮人は内地の日本人より体格がよかったのである)また年上なのに、朝鮮人であるというだけの理由で半ばパシリにされていたということのもたらす強い屈辱感だった。
伯父や父は特別彼らを低く扱っているつもりはなかったかも知れないが、
彼らの方は敏感に格差を嗅ぎとり、辱めを受けたと感じていたのだった。
余談だが「背の高い」朝鮮人少年たちの一人、「○碩順(碩洞ともいう)」君は、あの熱狂的な運動の時期に、(まさに『キューポラのある街』そのままに)北朝鮮に「帰国」した後、消息不明になった。家族は(一種の保険で、全員「帰国」するのは避けていたのである)今でも秋田市で飲み屋をやっているという。
伯父は「朝鮮人は汚い奴等」だと、亡くなる数ヶ月前まで私に語り続けていた。
"はたしてそうだろうか"。
私が朝鮮学者になったのは、朝鮮人へのそのような「偏見」を正すつもりもあった(なにしろ大昔のことで、バリバリの日教組だったわが母親でさえも、「唐辛子食べすぎると
朝鮮人みたいにバカになる」などと平気で言っていたのであるw)。
しかし......朝鮮研究を始めて20年経ってみたらば、......
伯父の方が正しかった(急いで念のため付け加えると、
唐辛子と頭脳の関係の件ではやはり母はどう考えても正しくなかったと言わざるをえないw)。
大した学歴なぞありはしない伯父に悟れたことを、大学院にまで行ってなお悟りきれなかった私のていたらくを、(私個人のナイーブさ、バカさ加減を差し引いてもなお残るものがあるはずであろうと思うが)インテリのひ弱さと呼ばずして何と呼べばいいのか?
伯父の「正しさ」を、2000年を過ぎてから改めてソース付きで嫌と言うほど裏付けてくれたのは、−いつものことだがまたしても−2ちゃんねるだった。
朝鮮については私は何本か論文も書いた。新聞や雑誌にコラムも書いた(嘘のような話だが、その一つはほんの数年前に岩波の雑誌に(!)ボツにもならずちゃんと載った)。しかし、2ちゃんへの還元(恩返し)は、今も果たせていない。

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