エリート教育をちゃんとやってる国−アメリカのように、大衆教育のタテマエとは別に、ホンネのレベルでちゃんとエリート教育してる国を含む−は、たとえ一般ピーポーのレベルがひどく低くても、権力者がしっかりしてたら国はもつ。少なくとも、(地道に大衆レベルで培った底力の裏付けがなくて、見栄っ張りのペーパータイガーがその実態だったとしても)簡単に倒れない。中国や北朝鮮がなかなか倒れず、またロシアが存在感を示し続けるのはそのためである。
ところが日本みたいに、
エリート教育というのをやめてしまって、平等主義・啓蒙主義のきれいごとを過剰に真に受けて
大衆教育だけをしてるような国は、
大衆のレベルが政治のレベルに直結してしまう。あるいは、
もし大衆教育が崩壊すれば(アメリカはとうにそれで悩み始めているわけだが)、
教育そのものが崩壊してしまうのだ。
早い話が、外交なり談判なり戦争なり−同じことなのだが−するにあたって、
敵サンは本物の超エリートであったり本物の貴族であったりするのに、こっちはそこらへんのオヤヂ(たとえ東大出の高級官僚であっても本質は同じ、びんぼたれのショミン様)ってことになってしまって、ハナから勝負にならない。こっちは血統書がそもそも、長い短いの沙汰ではなくて、付いてもいないのだ。
大衆教育については、日本の今のレベルは決して低くない。英・数・国・社・理、すべての科目で問題点が指摘されているが、それでも日本の若者は物知りであり、自然科学の知識があり(少なくとも宗教や超自然的な信念を本当に本気でそれに優先させたりする人は少なく)、算数ができ(九九がちゃんと言えない者なんて余程のドキュソ以外いない)、漢字が(書けない字があっても、読むのはそこそこ)読め・・・るのである。これはまちがいなく日本の(目の前の危機に対するに即効性があるわけではないが...)底力である。近頃はヒドイかもしれないにもせよだ(私の教えた学生の中には実際に、漢字が中国生まれなのを知らない奴もいたが、さすがに他の友達からは「かわいそうな子を見る目」で生暖かく見られている)。
大衆教育(読み書きソロバンのレベル)はまだ何とかなるのだ。
真の問題はそういう、産経や読売や朝日が一面で大騒ぎするようなところにはない。大体、落ち着いて考えてほしいのだが、事実そのものでさえ記述が食い違うところ、ものの「考え方」や「あり方」や「方針」や「哲学」について、朝日と産経が一致して問題視しているようなことなどありうるのか?あったとして、それは真顔で相手にすべき問題なのか?
そうでなくて、
エリート教育(つまり、
権力者を養成する教育−ここ、「リーダーの〜」とか「明日を担う人の〜」とかいってテキトーにごまかしていると、ものの本質が見えなくなる。あくまでもこれは「
権力者の」養成である−)の不在こそが、日本国家の、最大にして致命的な「教育問題」なのである。
必要なのはエリート教育なのだ。権力者候補の養成なのだ。
何度も言うが、東大出て○○省入って局長だからエリートなのではない。そうではない。東大は「大衆教育の最高峰」にすぎないのだ。権力者の教育というのは全く次元の異なるものなのである。
まずそれは徳育において異なる。
エリートも大衆も知識そのものにおいて本質的に異なるところはない。とくに数学と自然科学において全く同じである。エリート以外にアクセスが許されないたぐいの「知識」というものはこんにちありえない。知の女神というのは、この数世紀というもの、マッパダカなのである。それ見てまぶしくて目が潰れる人はもういない(それが不道徳だから−少なくとも、聖書に由来してないから−あまり見るなと言う教会や宗教者はまだある。それがヨーロッパや日本にはなくて中東にあるのはわかるが、驚くなかれ、現代のアメリカにあるのだ)。
エリート(権力者)が一般大衆と異ならなければならないのは、その了見の涵養すなわち
徳育、そしてその徳を支える肉体の鍛錬すなわち
体育においてである。
エリートの肉体は虚弱なものであってはならない。
弱い体に強い心は宿らないのだ。決して、と言わんまでも、めったに宿ったりはしない。
あなたは東南アジアで下痢をしたことがあるか。日本で時々起こす腹下しを想像しては間違う。真に調子を失った肉体は、判断力、闘争心といったものすべてをどこかへぶっとばしてしまう。バランスの決定的に崩れた肉体に[文脈に沿ってもっと飾らずに言うと「きりっと締まらない括約筋の持ち主に」]人間の尊厳など宿りようがない。肉体の担い手本人が「徳」などどうでもよくなっているのだからだ。
さて、では、
エリートの徳と身体はどこで養えばよいだろうか。
<1>
階級社会では庶民と貴族とでは教育というより人生のありかたそのものが違う。貴族は社会のリーダーたるべく厳しく教育される。ヨーロッパのエリート教育は、今日貴族階級が存在しないか没落しているとはいえ、そうしたノブレス・オブリージュの伝統と、合理主義的教育(特に、自然科学的世界像と軍事的合理主義)を教会の神学的権威から引き離すための長い血みどろの闘争の歴史とを踏まえたものである。[ちなみに、アメリカには教会との血の闘争の歴史がなく、建国の父(ジェファソンら)にみられた政治家の脱宗教性は、しばらくすると完全に忘れ去られ、政治のリーダーたちはヨーロッパでは考えられないほど、演説において頻繁に「神」を引き合いに出すようになった]
なお、全体主義国家においては党のエリートすなわちある種の貴族が今でも存在する。次項参照。
教育を受けるチャンスのある者とそうでない者があらゆる面でくっきりと分かれるような社会は一応ここに入る。そうした国ではエリート候補を欧米に留学させる。エリート養成は言語と並んで欧米の誇る輸出商品のひとつである。
<2>
前衛党がすべてを支配するような国では党と国家(このタイプの国では「党」と「政府」と「国家」はイケイケになっていて、表向き・憲法の文面上の規定以上の垣根はない)が責任を持ってエリート教育を行う。党における地位のさほどでもない者で優れた能力のある者は、「貴族」にはなれないが、実務の分野で取り立てられることがある。しかしエリート養成というものは、現在の幹部からすると将来のライバルを育てていることにもなるので手綱さばきがむずかしい。派閥閨閥がなくならないのはこのためである。逆に派閥なきエリート養成学校は、徹底的な実力第一主義をどこかでコントロールする装置がかわりにないと、凄惨な下克上社会となって崩壊する恐れがある。
<3>
アメリカの場合、社会のすべてを握っている具体的な集団というものは(人々の想像−WASP、「ユダヤ資本」、「フリーメーソン」、「ネオコン」−にもかかわらず)実は存在せず、あるのはゆるやかなエリート集団にすぎない。
が、このエリート集団には、社会の表向きのタテマエ「大衆化社会」(啓蒙主義社会)とは隔絶した権力者養成の哲学とシステムがある。この哲学を受け入れ、このシステムの中で競争して勝ってきた者は、門地(ないことになっているが...)にかかわらずエリートになれる。ただし、白人でなかったり、少数派の宗教(ユダヤ教、カトリック、イスラム教、モルモン教など)だったりすることによって、「クラブ」に入れてもらえない、程度のことはあるかもしれないが、他のもっと古い歴史のある国にくらべたら社会の流動性は非常に高い。これと似たものを探すとすれば、共和政から帝政時代にかけてのローマであろう。(アメリカの場合、エリートの仲間入りをしようと思ったときに家柄や貧富や出身地や人種や性別以上に、というより致命的に、危険なことは、無神論者であ[ることが公にな]ったり、同性愛者であ[ることが公にな]ったりすることの方である。カトリックの大統領はいたことがある。女性も黒人もいつかは大統領になれるだろう。だがカミングアウトした同性愛者と無神論者はアメリカでは絶対に大統領になれないだろう)
アメリカは「タテマエの大衆社会」のほかに、「ホンネ」のレベルでしっかりしたエリート(=権力者)教育がある。
<4>
日本の場合、ホンネとタテマエが「大衆化」の方に一致した社会である。すなわち、エリート教育は公式には存在しないし、タテマエと乖離したレベルで本格的にエリート養成ができる環境がない。ごくごく内輪に「相伝」されるか、「自学自習」されているにとどまる。すなわち、絶望的に層が薄い。
そして、真に有能かつ異能の人材の圧倒的に多くの部分はビジネスの世界に流れていき、政・軍・学(理工系はともかく)に多くが居残らない。「帝王学」「リーダーシップ」のたぐいを語った本のほとんどが書店ではビジネス書のコーナーにあることは象徴的である。それは日本の読書界の悲喜劇ともいえる。
権力者は悪であるから真面目に育てたりすべきでないと、本当に本気で信じてしかも社会を挙げて実行している、もしかしたら我が国は唯一の国家なのかもしれない。

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