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リチャード・ドーキンス(Dawkins, Richard)、垂水 雄二訳『神は妄想である―宗教との決別』(原題:
The God Delusion)早川書房 (2007/05)
これはどういう内容の本かというと、(今あえて読み返さず、私の血肉になった範囲で書き出してみる):
・無神論者は道徳的でありうる。無神論者であることを恥じたり恐れたりする必要はない。
・聖書がすべての道徳の源泉であるという主張は誇張されたものである。
・宗教者の公的発言(特に、専門外のことについての)は、もし宗教者の意見でなかったならとても受けられないような過大な尊重をもって迎えられているため、それが間違っていた場合社会に与える悪影響が大きい。
※これは私流に言い換えたもので、ドーキンスの元の文章はもっとずっと手厳しい。
・宗教は人が普通考えるほど「無害」なものではない。とりわけ、不合理な主張を疑うことなく信じる思考態度を作り出し育てるという面は有害でさえある。
※これは私流に言い換えたもので(ry
・神(の存在非存在)は「不可知」のものなのではなく、科学的考察の対象とすることができる。
・人が宗教を生み出したり、必要だと感じたりするのは本来生存や繁殖の上での有利さに関係していたメカニズムが「誤動作」(善し悪しの意味はなく、通常と違う入力つまりノイズに対して、同じシステムが同じアルゴリズムによりながら通常と違う出力を返してきたということ)したものかもしれない。
※ここらへんはあまりよくわからなかった。
で、これを読んで改めてわかったこと:
(1)私はドーキンスの言い方で言うと「信仰を信じている人」(私流にまとめると、文字通りに教義を信じているわけではないが、信仰そのものやそれを持つことや持っている人は尊重されるべきだと考え、宗教的伝統には[表面的には]従い、行事にも参加する、ような人間)に属していたわけだ。
(2)しかし私はもともとまじめに教義(私の場合、曹洞宗の。あるいは神道の)を信じているのではなく、実際に信じていた時期もなかった。
(3)神についての私のこれまでの考えは《世界とその法則を作った人[がもし存在したとしても、それ]は人格的な神ではなく、人間やその生活に関心を持ったりはせず、一度作った法則を変更することもない[つまり、奇跡はない]だろう》というもの。すなわち、理神論的。今では、そういう存在の仮定すら必要ないのではないかと思っている。
(4)私はドーキンスの言うような意味で「無神論的であり、かつ道徳的でありうる」ことはあると思う。日本人の読者の多くはドーキンスの考え方を、少なくともアメリカ人読者よりもずっと素直に自然に理解するだろうと思う。逆に言うと、日本の読者にはこの本のどこが(特に、アメリカの読書界と教育界にとって)新しかったり危険だったりするのか、ということ、そしてその深刻さ、がまったく理解できないこともありうる。
(5)それでも私は今後も宗教行事に参加するのをことさら拒否はしないと思うし、宗教を信じている人のことはそっとしておくだろうと思う。また、アメリカ人の前で自分が無神論者だと公言するのはできるだけ避けるだろう。公表しても何のメリットもなく、ただ危険なだけだからだ。
(6)ところで宗教に害があるとすれば、−
(a)不合理な主張を疑うことなく、根拠なしに信じる知的態度の温床となる。
(b)その主張を信じないことを理由に他人を嘲笑したり排斥したり暴力の対象にしたりする態度の温床となる。
−ことであろう。
現代の世俗化した宗教では(b)は減っただろうが、(a)は変わることがない。
「船幽霊」の話は楽しい。かりに、船乗りや漁師たちが何世紀も前から今日まで、必ず底の抜けたひしゃくを船に積んでおく習わしだったとしても、大して害などないから放っておきたいと私なら思う。
が、底抜けびしゃくをうっかり積み忘れたことを理由に新米船員が殴る蹴るの目に遭わされたり、オトシマエのために(というか、何かのお怒りを鎮めるために)重しをつけて海に放り込まれたりwしたとしたらどうであろうか。
これは「どこで線引きするか」という実務の問題ではない。
迷信そのものよりも、迷信がその温床となる《非懐疑的思考法》や、《迷信を動機として引き起こされる不合理な行動》こそが有害なのだという、本質の問題なのだ。なお、迷信が真の動機ではなく口実である場合があるが、この場合必ずしも迷信自体に罪がないことにはならない。
子供にちゃんと教えなければならないのは、
・盲目的に信じるのでなく根拠をもとに推論し仮説を検証する態度であり、
・魔術でなく科学である。すなわち−
◆占星術でなく天文学であり、
◆錬金術でなく化学であり、←「マイナスイオン発生装置」って何だよ!?
◆カバラでなく数学であり、←「ナンバーズ必勝法」って何だよ!?
◆「避妊のおまじない」でなく性教育である。
このリストはいくらでも続く。
「狼男」は別にばかげていない。繰り返し繰り返し実験されても今なお、「人の行動は月の満ち欠けに支配される」という証拠はみつかっていないのに、根拠もなく「満月の晩何かが起こる」と信じ込むことこそばかげているのだ。
「心霊写真」はばかげたものではない。「他の何かである可能性」を徹底的に検討しようとしないで「霊が写っている」と決めつける態度こそばかげているのだ。
サンタなんかいてもいなくても、もともと世界は十分驚きに満ちているのだ。
星が高温の気体でできてるとわかったぐらいでしぼむようなひ弱な「夢」なんて、もともと大した夢じゃなかったのだ。
もうひとつ、これはちょっと別のことだが−
「呪い」なんか信じてグッズ買ったりするようだから、その人は負け組厨房のままなのだ。
そうじゃなくて、「呪い」信じてる厨房にグッズ売りつけて儲ける方に回ろうと、なぜ思わないのか?
風水で儲けるのはDr.コパなのであって、彼の本を買った人ではない。
不合理(あるいは奇怪)な主張というのは、自分で本気で信じてる限り決して幸せになれないw
バイニンが自分でクスリ決めてどうする。アホかw毒に決まってるのにwww

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