A◆ドゥーガル・ディクソン&ジョン・アダムス:フューチャー・イズ・ワイルド(ダイヤモンド社)
B◆クレアー・パイ:フューチャー・イズ・ワイルド完全図解(ダイヤモンド社)
C◆ドゥーガル・ディクソン:アフターマン(ダイヤモンド社)
"The Future Is Wild"というタイトルの言葉は、普通なら、「未来はすでに決まっていて動かしようのないものなのではなく、まだ何が待っているかわからない未開拓の場所なのだ」というぐらいの意味なのであろうが、ここでは「人類が絶滅した後の地球は大変なことになってますぜヒヒヒ」という意味である。
Aと
Bは「500万年後」、「1億年後」、「2億年後」を扱う。
Cはその間に挟まり、「5000万年後」を扱っている。
このシリーズは
一種の禅的観想に使える。
500万年後には
人類は確実に絶滅してしまっているわけだ。
我々は、未来のいつか、原因は何であれ、間違いなく、全員いなくなってしまうのだ。
これ、まじめにうけとるとかなり重い心の修行になるな。
ただまあ、
途方もなく長い時間のことなので(このことは強調してしすぎることはない。インテリジェント・デザインとかの有害無益な謬説を真顔で言ってる連中がすっかり忘れてるのがこの、「とんでもなく長い時間」という点なのだから)、
心配しても始まらず、対策も立てられない。そういう意味でも悟るといえば悟るw
まあ、「500万年後」とそれ以降、だからねぇ...。
しかし、時が経つにつれて未来の地球の風景とCG生物はどんどんすさんで醜くなっていく(笑)。最後にはサメとシロアリばかりになるし。世界全部灰色(比喩ではない)だし。
これが紀伊国屋とか早川書房じゃなくて、よりによってダイヤモンド社からってのはどういうことだろう。小室直樹先生の読者と重なるようには思えないんだが。ま、ここに一人いることはいるんだけどさ。
で、著者、何の根拠があってこんな未来像を描き出したのかというと、
(1)プレートテクトニクスによって、今から500万年後、5000万年後、1億年後、2億年後には大陸と海洋がどうなっているか大体予測できる。
(2)それをもとに、そうした大陸の各所や海洋・島嶼では、
どのような形をした生き物が適応しているはずであるか考える。
(3)
そういう生き物の祖先は現代のどんな生き物であるべきなのか逆算する。(するとペンギンとかイノシシとかカツオノエボシとかウズラとか、かなり意外なものだったw)
(4)ところで、陸地では人類が、海洋ではクジラが、それぞれ絶滅するので、その生態学的空白を埋め合わせるような方向で進化が促されるであろう。
−−と、こういう手順で考えたもののようだ。
未来の生物が実際にどうなるのかはともかく、「
今あるものはなぜ今あるような姿なのか」「適応とか自然淘汰とか進化とか遺伝とかはどういうものなのか」を読者に考えてもらうための「真剣な遊び」なのだな、これは。
1億年後のクモが、綿毛のある草の種につかまって、糸を出しながら風に乗って荒涼たる渓谷を渡っていくCGなかなか味があるw
ていうか著者は、タンポポの綿毛に乗って飛びたかった子だったのがそのまま大人になった人ですか?
それにしても、「未来予測」もここまでやるとラディカルすぎて、誉めるにも非難するにも、そもそも論評しようがなくなる。
というより、
こんなもの(”人間が間違いなく一人もいなくなってる未来”)を見せられた子供の精神にどんな影響を及ぼすことか、まったく予断を許さない件(笑)。
◆
ドゥーガル・ディクソンには『新恐竜』(同社)という本もあって、これは「もし恐竜が絶滅していなかったら、今どのようなものであったはずか」を描き出したもの。大陸の形は今現実にあるものだから地理的な記述は一転して非常に楽だね。
これ見ていて思ったのは、
《絶滅したあの言語がもし滅びていなかったら、今どんな形をしていただろうか》
とか、
《もしノルマン征服がなかったら英語はどんな形をしていたか》
とかいうことだ。あるいは、
《印欧祖語からはこういう発展もありえた》
ってことで、架空の印欧語を記述するとか。これはけっこう勉強になる。卒論でやるとさすがに怒られるだろうがw、院生の遊びとしては超一級だろうな。
印欧祖語とまで言わなくても、「ラテン語から発達しえたもう一つのロマンス語」とかさ。「もう一つの日本語」とか。
上に挙げたものの文脈で言うと、
《今から1000年後の日本語》
とか。10000年とかになるとさすがに見当もつかない...。

0