日本語の乱れ、とやらをやたら心配したり嘆いたりしてみせる「識者」があちこちにまた思い出したように湧いてきた。
国語の未来について私は悲観していない。(もっとも、悲観的な意見の方がカネにはなると思うので、もし、たとえばカミさんがガンだってわかったりしたら転向するけど・・・)
私は以前、必要があって江戸川柳約8,000首を調べた。
自分の目で見た8,000の川柳。そのゆるぎない事実の山が私に教えたこと、それは
、《ことばのうわっ皮の流行は時代が移るとともに夢のように消えてしまうが、後にはことばの核心部分が残り、それは容易に消え去りはしないのだ》、ということだ。
江戸川柳で流行を極めた重要表現、「きついみそ(大変な自慢の種)」など、これがわからないとまるで川柳が読めないという基本語、のほとんどは、今では跡形もない。
ワケのわからない新語や流行語、若者語なんか一々気にすることはない。
それらのうち残るべきいくつかは残り、あとのほとんどは水面の泡のように消えてゆくのだ。
この程度の「意見」を持つのに、他の識者の本なんかいらない。要るのは
事実そのものの束と向き合うことだ。
「文法の乱れ」とやらについては、気にしても始まらない。
ことばは変化するものなのだ。いつの時代でもそうでなかった試しはない。
奈良時代の人間からみたら、平安時代のことばはなにやら崩れた粗野なことばにみえただろう。
室町時代の話し言葉を、もし平安貴族が聞いたらその卑俗さ、下品さ、文法の崩れっぷりに卒倒もしくは噴飯したことであろう。
ことばはうつろいゆくものであり、なんぴとにも止められない。
チョーサー(1390ごろ)からシェークスピア(1590ごろ)までの200年の方が、シェークスピア(1590)から現代(1990)までの400年よりもはるかに大規模で劇的な変化を見た。
これも他人の理論や学説など一々見る必要はない。自分で「オックスフォードことわざ辞典」を読んで、例文の抜き書きを作ってみれば−実際、作った−自分で実感としてわかることだ。
こんにちのイギリス人は、それゆえ、シェークスピアは読めないことはなくても、チョーサーの原文など易々と読めはしない。それでも、英国のことばの伝統は死んだりしているだろうか。
【今週の結論】
(1)
ことばはもともとうつろいゆくものである。国語とて不易ではない。
(2)
にもかかわらず、国語の核となる部分は易々とは失われない。
まっさきに失われるのは折々の流行、うわっつらの当世風、である。
以上二点は吾輩の「意見」とか「信念」というより、
単なる「事実」である。
したがって、
《国語の未来をくよくよ気にするのは時間の無駄である。》
世の中に自分一人が真の愛国者だと思い込んでクヨクヨする御仁がいつの時代もいるが、そんなひとり憂国居士がことさら歴史的仮名遣(「旧カナ」と呼ぶと彼らは−日頃部落解放同盟とかの「言葉狩り」を批判したりしてるくせに−「旧ではない。古くなどない」と本気で怒る)で書いた文章が、旧カナだっていう以外にこれといった特徴を持っていたことなどない。少なくとも、世の中をよくした試しはない。
いやいや、ごくごく平凡なことを日々たゆまず行い続けるという、まさにそのことの中にこそ伝統が宿る、ぐらいのことは認めよう。認めようだがね、
むやみにクヨクヨすんなってことよ、吾輩が諸君らに言いたいことは。
おたくらの「憂い」なんぞ、三島由紀夫調で言えば、「器械体操でもすりゃ治っちまう」ようなものだ。
もう少し自分の国語の持ってる力を信じてやったらどうだ。

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