年の初めに、軽く読書録三題といこう。食にまつわる随筆集から。
(1)
檀 一雄:『わが百味真髄』(中公文庫BIBLIO)
まさに
極道としか言いようのない一冊。
ここにいう極道とは「ヤクザ」ではない。「道楽者」なのだ。
それも−
《大きなホテルのような仰々しいところでなく、人のざわめきがまわりにあるビストロのようなところでタンシチューかテールシチューをサカナに酒を飲むと
人間に生まれた幸せがふきこぼれてくる》
だとか、
《豚の足を喰わせてくれる店なら、どこへでも行く》
といったような、別に何も悪事ははたらいてないがサイバラ的意味において完全に「
にんげんのくず」だという、そういうたぐいである。
(2)
内田 百間:『御馳走帳』(中公文庫)
食い物にまつわる
嫌な記憶とかみじめな思い出とか恨みとか子供の頃からの執着とかをねちねちねちねち書き連ねた、この世の地獄のような一冊。
この先生、裕福な醸造業の家に生まれていて、子供の頃にはなに不自由がないのだが、むしろ大人になってから不如意で、食い物で嫌な目に遭っているのが皮肉である。
これは当人、笑ってほしくて(というかウケようと思って)書いてるので、釣られてあげるのが
敬老精神であろう。
いやしかし、なんでまたこんな
イジキタナイ、カンシャク持ちの先生が弟子に取り巻かれて尊敬されてるんだか、もうひとつよくわからない。
黒澤明も最晩年はボケてきてそのへんつかみそこなったのであろう、『まあだだよ』(1993)は
退屈を絵に描いたような映画だった。特にヒドイのは
所ジョージの使い方を完全に間違えていることで、単におちゃらけた軽薄な人物として使おうとしている。『私は貝になりたい』(1994のリメイク)を観ればわかるが、所はシリアスな役で使った方が断然面白いのだ。
ま、黒澤だから公開に漕ぎ着けたのであって、あのレベルのシャシンで監督が大森一樹だったらオクラ入りしてたであろう。
(3)
子母澤 寛:『味覚極楽』(中公文庫BIBLIO)
これは聞き書き集。伯爵、子爵、男爵夫人とか、今では絶滅した種族の人々の話である。
それも、本当によい物、本当においしい物をよく知っている人たちだ。
うまいものを知らずに知ったかぶりしたり、ことさらゲテモノ食ってみせて「俺には偏見がない」みたいに妙ないばり方するような手合いとはまったくちがう。
「印度志士[チャンドラ・]ボース氏の話」まである。いわく、日本のライスカレーは「
それあもう思い切ってまずいものです」(笑)。

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