四日かけて研究室を片付ける。今日でひとまず完了。
何もない床と机の上がこんなにもすばらしいとは…。
わが職場である学校、私立短大なんだが、「第三者評価」というのがあって今年がその、外部から評価員が入って調査する年度なのだ。
だから人に見られても大丈夫なようにしておかないと、私は学長・副学長・科長・事務長・自己点検評価委員会のすべてに怒られ、学外からきた評価員からもいろいろ質問されて、私だけでなく学校ごと大恥かいてしまう。
そういう意味では第三者評価という制度があってよかった。皮肉や冗談ではない。もしあのまま片付けずにいたらと思うとゾッとし、ウンザリする。
まともに片付けるコツ
(1)研究室の中で物を選り分けてはだめ。一度ごっそり廊下に出してしまい、要る物だけ戻し、あとはすべて捨てる。
(2)PCの電源を一日中入れない。2chとか見たらたちまち時間を潰してしまうからだ。
(3)へとへとになるまでやらず、適当にその日の作業を切り上げる。私の場合、
開始(9:00少し前)・セッション1−休憩−セッション2−昼食−食休み−セッション3−休憩−セッション4−おわり(15:30頃)
のようにし、研究室の見取り図を作ってどのセッションではどこの部分の何を集めて捨てるか決めておく。
私は腰痛があるので、それが出ないように無茶は避ける。
(4)目に見える、満足感のある「成果」を出す。ゴミ袋いくつ出したとか、床面積が広がった(そもそも、床が見えるようになった)とか。
「今日も一日何もしなかった」という罪悪感があるとよく眠れないからだ。
考えてみれば、私が今まで物特に本や雑誌や新聞、プリントなどの「紙」を捨てられずにいたのは、とっておいて資料にしたかったからだ。
しかし「意味のある資料にする」ことができるのは、(1)きちんと整理して(2)すべてとってある時に限る。
私は(1)'整理せず雑然と(2)'すべてでなく気の向いたときのものを、とってあるのだから、客観的にはゴミそのものだったのだ。
検索できない資料、カケがあって安心して依拠できない資料、必要なときに取り出せない資料、こういったものは「資料」として機能しない。
上記の(1)と(2)をみたすことができるのは、現代では博物館、図書館、大学、研究所、役所ぐらいであろう。
個人のコレクションはこんにち絶対そんな機能など持ち得ない。個人でそれをやろうとすると必ずゴミ屋敷か開かずの間になる。
このことからみちびかれる悲しい結論−
《図書館も大学も興味を示さない本やモノは散逸し失われる運命にある》
早い話が、これまでに出た(すべての)カッパブックスと祥伝社ノンブックとワニの豆本、フランス書院文庫、マドンナメイト文庫、久保書店と白夜書房と東京三世社の(すべての)エロ劇画雑誌(の創刊以来のすべての号)…を所蔵している場所が、国会図書館以外のどこに易々とありうるであろう。版元でさえも、倉庫のレンタル料に悲鳴を上げて、在庫を裁断処分してしまうことがあるのだから。
本はモノである。重い紙の束である。それをふだん私は忘れたフリしているのだが、片付けの時に思い出させられる。
散逸し失われようとするモノを自分「だけ」が持っていたとしたら、いつか何かの役に立つかも…、とかいう
馬鹿げた強迫観念こそが、私の部屋がゴミ屋敷になった原因だった。
「歴史の証言」をどこかに残そうと思うのは間違いではない。だがそれは個人がやれるようなものではない。とうの昔に、それは個人のコレクターの手に余るものになっている。
「博物学」は死んだのだ。というよりも、アマチュアの片手間のものとしては存在し得ないものになった。
私はそれを知らなかったのではなくて、感情的な理由で認めたくなかっただけなのだ。

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