自分が言語学者であって本当によかったと思う。
政治や世間のゴタゴタと無関係に事実だけを探求することもできるし、政治的主張や世に流布する怪しげな説の真偽を、言語学の方法や語学の知識を応用して自力で確かめることもできる。
「理屈」や「評価」や「総括」や「価値判断」はとりあえず後回しにして、
言語の「事実」だけを淡々と調べるだけで頭のゴミがとれる。
少なくともそれやってるあいだはバカやウソツキやヒトデナシに関わらなくてすむ。
そして、ただ調べるぶんには人に迷惑もあまりかけない。これが「現地調査」だとさきさまに実際に迷惑なこともあるが・・・。
本や字引に沈潜するのならば、(家事を分担してもらえない配偶者とか以外は)誰も怒るまい。
こまかく見ると問題はいろいろありそうだが、ここはあえて言ってみたい。
世の中でもっとも害や危険な副作用のないおもしろい遊び、それが語学である。
もっとも、「やりすぎたら」どうなるかは必ずしも明らかでない。
母語でない言語について、
長期間にわたって大量に頭につめこんだとしたら、はたしてまったく無害なものなのかどうかは誰にもわからないのだ。
ただ、語学を「やりすぎる」ことよりも、知らなすぎることからくる誤解・偏見・迷信・いさかい・行き違いなどのトラブルの方が世間にありふれているのであり、またヒトの脳は広大なものなのであって、普通の人が「勉強しすぎて頭がパンクする」のを心配してブレーキをかける必要などないであろう。
幸か不幸か実際には人は歳とれば衰え、かつ、100を越えて生きることは稀であるため、長生きしすぎてものを知りすぎることが「危険」なのかどうか、確かめたものはない。が、やはり、
もし人間が200年も300年も元気で生き続けたとしたら、「ものを頭にやたらつめこんで、かつ、忘れない」ことの弊害がはっきりあらわれてくるのではなかろうかとも思う。
東方朔は3000歳とかいうが、そんだけ長生きしていると、やはり過去のことを適当に忘れていかないと発狂してしまうんじゃないだろうか。
ドラキュラ伯爵は結構苦手なものの多い人だが、そういうものに触れずにいれば「死なない」。
しかし、「死なない」人生というのは、
〆切のない原稿をだらだら書いているようなものであって、きっとつまらないであろう。やはりニンニク・日光・水といったようなものが彼に緊張感を与えるのであろう。

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