◆『劇場版 怪談レストラン』(2010 劇場版「怪談レストラン」製作委員会)
子役たちの演技がちゃんとしてたので、思ってたより楽しく観られた(ただ、ヒロインが「なんなのよ〜」としか言わないのは耳障り)。
そして「闇のギャルソン」役の西村雅彦が薄気味悪すぎてとてもよい。ああいうのはやりすぎぐらいでちょうどいい。支配人なのに「ギャルソン」(=ウェイター)はおかしいと思うけど、そういう設定だからいいか。この世のものじゃないしな。
あとアンガールズの二人(解剖模型・田中卓志、「占いガラス」・山根良顕)も、演技もセリフの間もよかった。
「紫ババア」(掃除のオバチャン)・片桐はいりは濃すぎて、役を演じているというより「本人出演」のようにみえた。
それはいいが−
どうしても気になることがひとつ。これはこの映画に限らないことで、
幽霊・妖怪・あの世・呪い・魔術のたぐいを扱うすべてのドラマと映画に対して言いたい。
「だいたい死神からメールが届くなんて、
非科学的もいいとこだわ」(プロローグの、アニメ部分のセリフ)
こういう発想は間違いだ。…死神とか言ってるから非科学的、なのではない。
科学的かそうでないかを分けるのは対象(霊・妖怪・魔法・呪いetc.)ではない。方法である。
調べる方法が科学的じゃないから「科学的じゃない」のであって、「科学的でないモノ(研究対象)」などというものはない。
方法が科学的なら何を対象にしてもそれは科学なのだ。
《
この科学の時代に妖怪なんているかよアッハッハ》とかいうセリフ、今でも見かけるが、これほど科学に無理解なセリフはない。
だったら科学が未発達だった頃には妖怪はいたのか。
妖怪は「科学が発達したからいなくなった」のではもちろんない。それどころか、そもそも「もともといない」かどうかすら正確にはわからない。
科学が発達したら、今まで妖怪の仕業ではないかと思えた奇妙なこともちゃんと説明でき、実験で再現できるようになった、というだけの話だ。つまり
何でもかんでも「妖怪」のせいにするのは正しくない、とわかっただけのことで、「妖怪」が実在しないということまで証明されたわけではない。
「妖怪はいることはいるが、我々が昔想像していたようなものでは全然なかった」、というだけのことかもしれないのだ。
妖怪なんていない、とか、お化けなんて迷信だ、とか、
結論だけ子供に教えようとするからそうなる(それだって、正しくは、個々の事柄について「妖怪というものの存在を前提にしなくても説明できる」というだけのことである)。
調べる方法が科学的であるかどうかということの大事さにくらべたら、結論そのものなんかたいした問題ではない。たかが知識ではないか。
知識をモノのように貯め込むよりも、その知識が得られるに至ったいきさつやそう考える理由をもっと重視しないとだめなのだ。(実は教育の現場ではそういうことを決して軽視してはいないのだが、話を聞かされる方もマスメディアもめんどくさがって、どうしてもてっとりばやいわかりやすい「結論」だけをほしがる。あるいは、「あるのを確認しようとした試みはこれまでに一度も成功していない」のと「ないことが確認された」のを区別するのを面倒くさがる)
方法が科学的でなかったら、対象が超常的なものでなくても十分デタラメなものになりうる。重ねて言うが対象は関係ない。
子供向けのフィクションに噛みつくのは大人気ないと思うかもしれないが、そういうものではない。
出てくるのは霊でも妖怪でも死神でもかまわないから、
劇中の人物に「対象が非科学的」という考え方をするのをやめさせろと言ってるのだ。
「この世には科学で解き明かせないことが(まだ)ある」のは当然だ。それを否定する科学者などいない。科学は常に途上にあり、常に未解決の問題を抱えるどころか日々新たに生み出し続けている。
だからといって「そもそも科学でないもの」が科学と同等の発言力や重みを持つということにはならない。科学が無力だとか無価値だということにもならない。科学のこれまでの歩みが空しいものだったということにもならないのだ。ついでにいうと、科学に解けないことが宗教(あるいは「先住民の知恵」)なら解けるというのも根拠のない主張だ。
ドラマに何が出てきてもいいが、そもそも間違った考え方してたら解ける謎も解けない。出てくる対象が変だからなのではなくて、それを見る見方が根本から間違いだからなのだ。
・「霊」「呪い」「妖怪」という「対象」そのものが科学的とか非科学的とかいうことはない。
科学的かどうかは「方法」の問題なのだ。
・現在の科学がそれに対する答えを持っていないからといって、科学を嘲笑したり、捨て去ったり、他の明らかに非科学的な方法に飛びついたりするのは間違いである。
…ということを子供にまず教えなくてどうする。子供の見るものを通じて、真っ向から知性を否定するような考え方を注入してどうする。
超常現象を扱っているドラマのほとんど全てがとっているきわめて非合理的な無知蒙昧の態度−
・超常現象(という「対象」)は「非科学的である」という間違った考え方を持ってる「モダンな人」(極めてウスくヌルい)を登場させ、
↓
・(だったら超常現象の超常性を否定するのかというとそうではなくて、)
「科学では解明できない謎である」からといって、非科学的な考え方を科学の代わりに導入する。
(大人にも容易に解けない問題だからといって、どうせ解けないのなら何やっても同じだからコイン投げて決めよう、…という考え方は荒んでいないか?)
これはぜひ今すぐやめてほしいものだ。
超常現象モノに出てくる「科学者」や「科学の信奉者」たちの、科学を正しく理解してるとは思えない薄さ、ぬるさ、極端な単純さ(+不必要にもったいぶった、小難しそうだけど無内容な御託)。これも気になる。
結局自分が科学に無理解だと、「科学を理解している人物」をそれらしく描くことは困難だということだろう。
名探偵ものに出てくる警察が度を超して無能であることに似て、こうした面での現実離れはドラマの迫力を削ぐ。
逆に言うと、そんなところで現実離れした設定をしないと成り立たないような無理な話だってことなんだろう。
(現実の警察なら当然気付いて普通に調べるはずのことを、主人公の探偵だけに気付かせようとしてドラマの警察の方を極端に無能化するというのは反則ではないのか?そのようなばかげた設定によらなければ維持できない「名探偵」のイメージとは何であるのか?)
そして、
「科学的」に考えたからといって、「常識的で退屈な、夢のない結論」に到達すると考えるのも、やはり間違いである。
これまた、
作り手の乏しい科学認識(科学への無理解)を勝手に当てはめただけだ。ウスイのは科学や科学者ではなくて、科学に夢がないと思ってる(自分に理解できないものに大した価値があると認めるのが嫌な)、科学に無知な創作者の方なのだ。
【今週の結論】
合理的な考え方ができない人には、そもそもお化けとお化けでないものの区別がつけられないであろう。これでは(偶然に頼る他は)解ける謎も解けない。
したがって、
パワーアップすべきなのはお化けに挑むための武器(つまりモノ、アイテム)や「根性」ではなくて、お化けの謎に挑む人のそもそもの「ものの考え方」つまり方法、の方なのだ。
お化けの映画を作って、観て楽しむのに、わざわざ不合理で無知蒙昧な考え方を採用する必要などないと思う。そのような蒙昧な考え方によってのみかろうじて存在が支えられるようなお化けというのは、お化けなりのリアリティすら怪しい、単なる「気のせい」であろう。(警察が度外れて愚かであると仮定しないと活躍の場がないような「名探偵」の手がける事件が、格別「難事件」である必要がなくなるように…)


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