すっかり尻切れトンボになっていた「ヤマトセンブリ物語」を続けます。東京都内で横沢入にだけヤマトセンブリが生き残ったのはなぜでしょうか。それは休耕田になっていた時期が長かったこととも関係がありそうです。
本来は平地の湧水などが流れ込む池や湿地をすみかとしていたと考えられる彼らにとって、高度成長期以前には東京でもすみかを求めることはそれほど難しくなかったでしょう。
しかしこうした場所が開発で失われた結果、彼らは当時効率化と減反政策によって増えはじめた谷戸の休耕田に生息地を求めたようです。やはり一度は絶滅したと考えられ千葉の谷戸田で再発見されたシャープゲンゴロウモドキもそんな例と考えられます。
休耕田は彼らにとって「駆け込み寺」だったのです。
しかし谷戸ならどんな所でも良い訳ではありません。今回の調査でもはっきりしたように、横沢入で
ヤマトセンブリ(画像左)が見られるのは中央の特定の地域に限られ、周囲の支谷戸に見られるのは近縁で
普通種のクロセンブリ(画像右)に代わってしまいます。ヤマトセンブリがすみつける条件はごくごく限られると言ってもよいでしょう。(P.Delias)
生物がこのようにわずかな条件の違いですみ分けている例は多く、一つの地域に近縁のさまざまな種類が暮らせるのはこのためです。
従って全国的にも生息地がごく限られるヤマトセンブリを保全するには、今いる環境をしっかり保全する必要があります。
「同じセンブリなんだから支谷戸を確保しておけば十分だろう」という考え方は、
「横沢入を開発してもどこかに似たような環境があれば大丈夫だろう」と考えていた、かつての開発サイドと同じ発想と言われても仕方ないでしょう。
そもそもヤマトセンブリは、横沢入を開発から救ってくれた恩人のような存在です。横沢入で里山保全活動が出来るのも彼らのおかげな訳ですから、昔の農民がオオカミに敬意を払ったように扱いたいものですね。
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