毎年開催されているUDCのコンペが、この度岐阜を対象とすることになっていたために、これは黙っていられぬと、昨年末に学生たちと創った提案が、岐阜市長特別賞に選ばれた。UDCの審査員たちからは、選ばれなかったものの、これは嬉しい。一番アイデアを必要としているところから興味を持って頂けた、と受け止められるから。
提案内容は、岐阜の柳ケ瀬に焦点を当て、ここに大学の教室・会議室・研修室の類を部屋単位でインストールするというもの。アーケードの街路は大学校舎の廊下に見立て、空家・空き店舗・空き部屋は悉く使う。そこをまず学生たちが生活空間として使いはじめ、社会を動かす。
この提案は、市街地の人口を増やすことやその年齢層を若返らせることが目玉のように見えてしまうが、実はポイントはそこではない、と僕は思っている。さらに流行りの「交流」を発生させることも当然考えられるが、やはりそれがこの提案のゴールではない。
大事なのは、大学施設と商店が混在することで、細かく新たな産業が生まれ続ける土壌が準備されることだと思っている。
今、市街地から遠く離れた隠遁生活を強いられている学生たちは、学内で様々な機会から疎外されている。まず広大なキャンパス面積を持っていながら、自由時間に自らの居場所がない。時間を過ごす価値がないから用が済んだら帰宅するしかない。そういう集団が決まった時間に集中するために遠い駅からこの隠遁キャンパスまでオイルサーデンの缶詰のようなバスでぐちゃぐちゃにされながら輸送される。そうした学生たちは、都市のイメージとイオンモールのイメージの区別がつかない程、都市を経験しなくなってしまう。
一方でこの若い層は、上記の生き地獄のせいで疲れきった顔をしたり「だりー」とか言ってゾンビのように歩いている(そしてたまにキレる)のは仮の姿で、実際はエネルギーに満ちている存在である。お金こそあまり持っていないが、ともかく動くことができる。そして面白いこと、意味のありそうなことを求めている。彼らは学問をしながら、社会貢献する可能性を大いに秘めている。これは、学生相手に商売をすることだけを経済効果と考えた場合には計上できない(その場合は、ほとんど絶望的なマーケティングになる)価値を持っている。
都市が活性化するということは、商店や客のテンションが高くなることではない。たまには花火を上げるのもいいが、しかしそれは活性化とは直接的には何ら関係ない。生物が活性している状態とは、生命維持のための諸機能が正常に働いている状態をいう。都市の活性も同じことだと思う。都市間のネットワークが正常に働き、そうしたルートで日々様々に取り入れる活性物質によって、多様かつ連続的な展開を興し続けて全体としての生命を持続させることが必要ではないか。大学を入れ込むというのもそのための多様性づくりのための強力な一手段にすぎない。つまり、市街地には計画されたカオスが必要なのではないか。
柳ケ瀬というやや歴史のある街(といっても明治20年代以降であるが)については、一昔前の記憶が非常に強く、それを頂点のように考えがちである。そして「あの輝きをもう一度」と考える。しかし、その夢には罠がある。なぜその輝きは失せてしまったのか、単に社会状況の変化などという「人のせい」にせずに、よく反省する必要がある。その輝きは本物だったのか?本物ならば、どの点が本質だったのか。
僕は、一昔前と同じ輝き方をしている街は滅びると思っている。輝き続けるには、生み出しつづけなければならない。その過程に若者たちの蠢きが貢献できると考えたわけだ。「鍵は学生」(中日新聞には受賞作品をそう紹介して頂いた)であるには違いないが、学生を消費者と見ているのではなくて、創造の土壌に欠かせないと考えている。

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