最近のマイブームの国富論ですが,経済の発展が分業を基礎に進展してきたことを描いている部分は,自分が前から描いていた考えにフィットしていて,やはり考えることは同じだなーと思い起こされました。
現代の社会は,高度に分業化された社会で生活している訳です。原始的な世界では,衣食住は自分で確保しなければならなかった訳ですし,身の安全を守ることも自分だけの責任であった訳です。
そして,経済の発展と流通システムの確立により,この分業の流れは国の枠を超えて広がっていってます。例えば,日本の食料自給率は先進国との比較でも低いですが(この点は,実は国内での国産品の消費が少ないという問題もあるのですが,この点は置きます),それでも問題が生じないのは,輸入によって補完されているからな訳です。
こういう側面から考えると,我々の生活は多くの人たちの犠牲というか労働によって成り立っている訳です。これは現代社会では避けがたい事実な訳です。
とすると,ここから論理の飛躍をするのですが,我々の政治的な関心もいわゆる無関心派,無党派的なスタンスを取るというのは,原始的な社会であれば成り立ちうるのですが,現代社会ではありえないということが分かります。我々先進国にいる人間は,その生活を維持するために多くの人を巻き込みながら生活しているのです。場合によっては,他国の食料を奪い,あるいは他国の土地を占有したり,それこそ石油なんかでは顕著ですよね。
これを比喩的にいうと,巨大なロボットのコックピットにいるのが,我々一人一人だといえます。巨大なロボットが止まっていたり,そこから降りているのであれば,「おれは関心ないなー」でもいいわけですが,そこに乗っていながら関心ないなーは,ありえない訳です。結局,関心ないというのは,その巨大ロボットが人を轢こうが全く知らないという無責任搭乗者ということになります。
もちろん,じゃあ関心を持ったとして,その巨大ロボットの動きを変えることができるかどうかは次の問題です。交通事故のニュースで,ひでー運転したんだなーと思う時には,併せて自分の政治的な運転技術(これは関心を持つということでも大きな一歩になります。)についても考えてみると面白いかもしれません。

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