表現行為に対する規制は,自由な空気をなくしてしまう。一定の思想に対する規制も同様だ。で,この規制が法的ではなく事実上の空気のような形で進行することも歴史上まま見られる。こういうのは,危険な徴候だ。
例えば,戦中であれば非国民という概念がそうだったろう。ナチス政権下でも同様なことが行われた。アメリカでも,赤狩りという歴史がある(日本でも,レッドパージがありました。)。ソ連だったそういう時代を経験した。
これは,別に悪い結果を生みたくてやり始めることではない。元は,不安な気持ちの裏返しな場合もあるだろう。
いろいろな意味で追いこまれた体制は,スパイを防止しなければならない必要性を生じる。で,これが波及していく訳だ。
日本の場合も,その背後には追いこまれた意識があったのは確かだろう。どれだけの影響力があるか分からないという恐怖が作用する訳だ(時には安易さにもよる)。
しかし,テロ自体を防ぐ行為に比べ,表現行為に対する圧力はそもそもそれほど影響力があるはずのない行為に過剰に反応するものであって,副作用の方が大きい。無関係の人を巻きこむことになるケースも出てくるし,そもそも異論によってバランスが保たれていたのに異論を封じることにより極端な方向性に流れさせてしまう危険性も増す,多くの人を萎縮させ自由な活動によって生じる果実を減少させる。
先日,某軍事関係のブログのコメント欄を見たら,非寛容なコメントが横行していて辟易した。もはや非国民なんていう言葉は流行遅れだ。最近のパターンは,例えば北朝鮮に擁護的なことを言えば,北の工作員呼ばわりをしたり,中国について理解を求める意見を述べれば,媚中なんて呼ばれる。
こういう中傷は,表現の自由に反する,民主的とは言えない姿勢だ。この問題は,右に軸足を置く人も意識した方がいい(逆に言えば,左に軸足を置く人間にとっても,意識すべきことでもある。)。
ぼくは,「嫌なんたら」には全く関心がないので,アンテナを伸ばしていないが,ああいうフレーズが出てくること自体が愚かしい。区分は,一見容易だ。しかし,物事はそんなに簡単ではない。右側の意見が左側を救うこともあれば,その逆もある訳だ。そもそも冷戦の終結は,善悪二元論の終焉を意味したのではなかったか。
意見が意見としての価値を有するためには,反対意見の存在がなければいけない。ディベートで悪魔の代弁という言葉があるのも,その趣旨だ。
人格(ないし発言主体,ソース自体)を否定して,個々の意見の内容に踏み込まずに済ませようとする傾向には,歴史的に見ても注意が必要だ。

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