昨年
10月に開かれた
「教育委員会連絡協議会両沼支会秋季総会研修会」で、
「八重を学ぼう!八重に学ぼう!」と題して
講演会が開かれた。
講師は会津大学短期大学部社会福祉学科非常勤講師で、会津坂下町史編さん専門委員・日本考古学協会会員の
長尾脩氏。長尾氏が準備した
資料をもとに、
新島八重の生涯をまとめてみたい。長尾氏が何度も、
山本八重が「幕末のジャンヌダルク」、「会津の巴御前(ともえごぜん)」と呼ばれることに、違和感を感じると話していたことが興味深い。実は
「ネーミングに根拠がない」と話していたようであった。このことについては、
「八重の桜」を放送する
NHKでも
「幕末のジャンヌダルク」を使っているので、今後の課題としておきたい。
山本八重は1845(弘化2)年12月1日、会津藩の砲術師範
山本権八・佐久の間に
三女として誕生した。幼い頃から男勝りの気性で、四斗俵(60kg)を肩まで上げ下げできたという。藩の砲術師範であった兄の
山本覚馬から射撃や砲術を学んだ。
1868(慶応4年・明治元)年1月に勃発した
戊辰戦争で朝敵となった
会津藩は、8月ついに会津鶴ヶ城城下に官軍に攻め込まれ、1ヶ月に及ぶ籠城戦の後に敗れた。
八重は断髪・男装して籠城し、新式の
スペンサー銃(アメリカ製)と
刀をとって果敢に闘った。戦士した
弟の衣装を借りて、その弟の
山本三郎の名前を名乗って戦ったという。落城の際、白壁に涙ながらに刻んだ
辞世の句「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」はよく知られている。
戊辰戦争から3年後、
1871(明治4)年、当時京都府顧問となっていた兄の
覚馬を頼って、
母・姪とともに上洛する。翌年、兄の薦めにより
京都女紅場(にょこうば=女子に裁縫や読み書きを教える学校)に勤めた。この頃、
キリスト教学校設立に向けて
山本覚馬のもとに出入りしていた
新島襄と知り合う。
1875(明治8)年10月に
婚約、
翌年1875年1月3日に京都では日本人として初の
キリスト教式の結婚式を挙げた。
1875年11月29日に
同志社大学の前身である
同志社英学校が開校したが、この日が同志社の
創立記念日となっている。なお、
新島襄は米国の義母に宛てた
手紙の中で
「彼女は美人ではありません。しかし、生き方が美しい人=ハンサム・ウーマンなのです」と書いている。何とも
会津の女性らしさを端的に表現しているではないか。実際、
会津には
美人が多いが…。
欧米流の生活スタイルが身についた
襄と、
男勝りの性格だった
八重は
似合いの夫婦だったが、古い因習なのか、傍目(はため)からは好ましく思われず、
主人より先に人力車に乗る姿が、世間からは
「悪妻」と評されたという。同志社英学校の学生であった
徳富蘇峰に
「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)のような女性」と非難されたが、八重は全く動じなかったらしい。余談になるが、
新島襄は
群馬県出身。
群馬と言えば
「かかあ天下と空(から)っ風」で知られている。果たして
新島夫妻もそのあたりを
意識していたのか気になるところ。
また、八重は
女紅場で働いていた経験を生かし
私塾を始めた。
1877年に
同志社分校女紅場が正式に認可されたが、八重の助力があった。その後、
同志社女学校と改称されたが、今の
同志社女子大学の前身である。
同志社女学校の基礎を築いた
重要人物の一人が八重だったことは言うまでもない。
1890(明治23)年1月、
襄が
危篤状態に陥っていたとき、
八重は献身的に
看病した。その月の23日、
襄は
「グッドバイ、また会わん」と言い残して亡くなったという。僅か
14年の結婚生活であったが、襄にとっての八重は悪妻どころか
生涯最良の伴侶であったと言えよう。この臨終の席で、
徳富蘇峰は過去の非礼を詫び、
八重と和解したという。
その後の八重については、また機会があれば触れることにしたい。いよいよ明日6日から
NHK大河ドラマ「八重の桜」の放送が始まる。
会津を舞台にした
女性が主役のドラマ、
会津人の生き様に注目して頂きたい。さらに筆者がよく口にしてきた
「ならぬことはならぬ」の
会津魂を実感して欲しいところである。
●関連サイト
「新島八重×同志社女子大学:同志社女子大学」
●関連サイト
「八重を育てた家族 八重のふるさと、福島県」
●関連サイト
NHK「大河ドラマ 八重の桜」
あらすじや登場人物、什の掟などが参照できる。

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